マキの少年時代・男装写真集(宮本 昌樹)

18歳。 早大1年生。
早大3年生。 21歳。
21歳。
早大3年生。
大隈講堂前で。   
早大4年生。
22歳。
  家族ぐるみで親しくさせて頂き、毎年お互いの故郷へ招待し合って居た、三重県の伊賀上野出身の・法学部の超エリート学生さんの親友と、伊賀上野の観光巡り中のスナップ集です。

  ちなみに、この当時の私は、男の子のくせに・現在より遥かに細く・煙草も吸わず・声もボーイソプラノ〜カウンターテナーで、大オネエのベタベタ(心は誰よりも女。)でしたが、まだ留年前・まだ化粧&女装前・まだノーマルな男性達から擬似女性として愛されるようになる以前、いわゆるホモセクシァルの中の女役・ネコ役の坊やだったので、スポーツなんて全然出来ないのに・ホモの世界に於いてモテる為の手段として・無理して格好だけは男らしく見せる努力をして居た時代です。当時の青春アイドル・井上純一(早大生。)に似て居ると、ホモ世界ではおだてられて居た頃の姿です。   
  でも、内股で・色白で・脱いだらガリガリに華奢で・女みたいで・気持ち悪くて・自分の事は男として見たら全然タイプではありませんでした。      
  
  この翌年には、留年と同時に・化粧&女装の道を選んだ訳で、丸20年以上も女装が身についてしまい、今ではネクタイの結び方さえ忘れてしまいました。
   

  留年ちょっと前。既に眉毛を細目にカットし始めて居る。この後、化粧・女装の道へ飛び込む事になる。

  留年後は仕送りを半減される?口約束になって居たので・高収入で楽しそうな六本木のゲイクラブでのアルバイトを決心したのと、男が死ぬほど好きだったのと、秘密主義で閉鎖的なホモ同士の恋愛&SEXよりも・ノーマルでオープンな世間一般の男性達から擬似女性として愛される事の方を望んだので、その為の手段・資格として化粧・女装・立居振舞いを習得せざるを得なかった。         

  本来なら、大学卒業と同時に男装のホモ(ゲイ。)に戻って、スーツ姿で・一般企業へ就職するか、公務員(県か市の歴史館・博物館・郷土史編纂室・もしくは商工観光課勤務か。高校か中学の国語科教師になるか。部活動は、合唱部の、正顧問は音楽の先生が居るだろうから、副顧問にでもなって。)になるか、世襲議員(連続11期・足掛け46年間・全国最長記録・最多選市議を務めた・直系の亡祖父=藍綬褒章・勲四等瑞宝章・従五位の上=の引退時に・バトンタッチして。)になり、女装は時々趣味で楽しむ程度に留めておけば、今頃になって・こんなに苦労せずに済んだ筈なのに・とは今になってする後悔で、二十台前半〜中盤〜二十台一杯に於いては・女装して男達にモテる快感と・バブル崩壊前のニューハーフ界の活気と華やかさと高収入とに勝る魅力は無かったので、卒業後も迷わずに水商売を続行してしまったのでした。まだ若いから、三十を過ぎてから転職すれば間に合うと、楽天的に考えて。      
  今になって考えれば、愚かな選択ミスでした。
  もはや取り返しのつかない、人生設計の選択ミスでした。   
  せめて独立自営して・オーナーママ(経営者。)を経験したものの・数年間で失敗し、若い経営者としても成功・大成出来なかったのですから。


  これから先、四十台で、マキは立ち直れるのでしょうか!!!!?


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