真夏の・東北・三陸・宮古・浄土ケ浜紀行(2006=H18,8月)(みちのく・女・ひとり旅)

やっと、やっと、夢にまで見た、憧憬の・浄土ケ浜へ到着。
この写真集には、コメントなど不要。まさしく絶景。ただただ感動して、時間も忘れて、見とれるのみ。
陸中海岸・国立公園、岩手県宮古市・浄土ケ浜。
東北地方の・かの有名なリアス式海岸の中でも、
陸中海岸国立公園の代表格とも言うべき浄土ヶ浜は、岩手県宮古市の最も自慢とする景勝地です。

太平洋とは思えぬ程の・波穏やかな海岸に、鋭くとがった白い石英粗面岩が連続して林立し、そのひとつひとつが違った個性的な表情を見せて、海岸線を競い合って彩ります。
鮮やかな松の緑と・岩肌の白、真夏の快晴の空と・水平線と・海の群青とのコントラストは、まさに一見の価値あり。

この浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681〜1684)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、「さながら極楽浄土のごとし。」と感嘆したと言う伝説から名付けられたそうです。

ここは平成18年度に「日本の快水浴場百選」〔海の部特選〕にも選定されており、夏には多くの観光客・海水浴客で賑わいます。

関東から・8時間半もかけて・宮古へ辿り着くなり、いきなり2週間以上も休み無しの重労働が続き、やっと2日間だけ・遅れお盆休みが貰え、やっと、やっと、来れました、夢にまで見た・憧憬の・浄土ケ浜へ。
本当は、こういった有名な観光スポットを背景に、かの
宮崎留美子さんのように、ちゃんとお化粧して・女装して・スナップし、御紹介するつもりで居たのですが、真夏の炎天下の観光巡り、ひ弱な私の気力・体力・根性では・到底無理で、花のドすっぴんに・性別不明の・どうでも良い格好(動き回り易い仕度。)で・飛んで行っちゃいました。
自分のなりふりなど・どうでも構わなかったのです、自分の目で浄土ケ浜を見れて・撮影出来さえすれば。
それでも、旅の記念に・やはり自分も入った写真も欲しくなって、見知らぬ観光客同士、互いにお願いし合って・シャッターを押し合いました。
他人様の目には、色気の無い女と映ったのか、へなちょこの男と映ったのかは、定かではありませんが、そんな事は本当にどうでも構わないと思える、感動と感激の連続の・真夏の浄土ケ浜の・天下の絶景でした。
マキが、白い岩石を両手に持って写したのは、遠くから見下ろすと・白砂に見えた海岸が、砂浜ではなく、実は白い岩石ばかりで成り立って居る事に驚き、それを証明したかったからなのです。
浄土ケ浜の、変化に富んだ海岸線には、数キロに及ぶ遊歩道も・トンネルもあり、日焼けを気にしつつも、ついつい何往復もしてしまいました。
その名の如く、極楽浄土に迷い込んだ(辿り着いた?)気分で、夢見心地で。
薄暗いトンネルを抜けても、そこは地獄ではなく、また極楽浄土が広がって居ました。
ここは、本当に地球上なの?何処か他の星なのではないかしら?と、錯覚に陥る景色の連続。
この海水の透明さ、海底の美しさ、素晴らしいグラデーションの海。
まるで、竜宮城への入り口へと続いて居るような、不思議で神秘的な謎めいた海辺。
「思えば遠くへ来たもんだ」と言う歌があった筈だが、まさにそんな気分にさせられる、ローカル情緒満点の、JR宮古駅。
冬場は豪雪地帯となる為か、宮古の街には、瓦屋根の民家が一軒も無かったのが、不思議。
鉄筋コンクリート造りのビル以外は、全てトタン屋根ばかりでした。
豪雪対策としては、北海道と同じ感覚なのかな?
ふと「さいはて慕情」と言う懐メロを想い出しました。
三陸沖地震・大津波の被害を免れた地区の、古民家。
明治初期建築の、元・呉服商、現・薬種問屋の、土蔵造り母屋と・土蔵。
これほどの立派な豪商宅でさえも、やはり、豪雪対策のトタン屋根であった。
多分、トタン素材になる以前には、木場屋根だったのだろうと推定。
関東人の目には、瓦屋根・鬼瓦・箱棟が無いのは、淋しく・派手さと重厚さと迫力不足に感ずる。
こちらは、江戸時代末期建築の・造り酒屋。木目と格子戸造りの母屋・土蔵共に、やはりトタン屋根なのが、ちょっと残念。
右手の、木造の西洋館は、大正時代建築の、元・写真館、現・手芸用品店。やはり、ここもトタン屋根。
両肩の故障にもめげずに、8時間半もかけて行き、そのまま2週間以上も休み無しで重労働をこなした後の「ごほうび」「ひと休み」「一ヶ月余の契約の・折り返し地点」とも言うべき、遅れお盆休み(お盆は返上営業。)。

午前中は、長年来の憧憬の地・浄土ケ浜の絶景にどっぷり浸り、時間の経つのも忘れ、
午後からは、宮古市内の古民家巡り。

夕方から宵の口にかけての締めくくりは、(毎日、安定食屋・コンビニ弁当・出前弁当ばかりだったので。)、プティ・グルメで、地元で定評の海鮮居酒屋へ。
真夏の・三陸海岸の・地物の・旬の・海鮮と、アルコール(生ビール数杯と、グラス赤ワイン。)とをたらふく頂いても、東京や関東では考えられない安さに、これまたびっくり仰天で、得をした気分・幸福感に浸る。
さて、それから宮古巡業の後半戦を無事に全うし、早くも朝晩は冷え込み始めた、9月上旬。
帰りの御当地の土産を買いに、宮古市営の「魚菜市場」へ寄って見ることに。
一歩中へ入ると、テナント式の横丁が3本通って居た。宮古弁が飛び交い、活気に溢れて居た。
ちょっと雰囲気は違うけれど、故郷の・那珂湊の「おさかな市場」を思い出した。
そう言えば、那珂湊と宮古とは、東廻り航路の廻船の寄港地同士、江戸時代から交流が深かったのだわ、と思い出す。
那珂湊には、今現在でも、「仙台屋」さんとか、「南部屋」さんとかの、屋号が多く残って居るし。
何もかにも地物で・旬の物で・新鮮で・安くて・沢山買い込めたが、
やはり宮古名物は、木の箱船ではなく・牛乳瓶にギッシリ詰まった生うにと、
他所でも売って居るが・焼きうにやら・塩うにやら、ほや・殻付きの帆立貝・殻付きの岩がきやら(丸ごと殻付きのあわびには手が届かなかったが。)、
そして風味豊かな・いかせんべい。

これらをクール宅急便で市場から送り出したら、翌日、旅の仕事用の宅急便と同時に届いた。
宮古駅で・帰りの切符を買ったら、まだまだ待ち時間があり。
駅弁は見合わせて、例の・お盆休みの晩に行った・駅前の・海鮮居酒屋の・昼定食タイムに入って見る。
アラ、嬉しい、超豪華な海鮮丼定食があり(あわびも何切れか入って居る。)、つい昼間っから・生ビールも飲んでしまう。
もう、これで、三陸・宮古では、思い残す事は無し。大満足。
さあ、いよいよ、三陸・宮古ともお別れです。
一日に・たったの四往復しかして居ない、勿論・単線で、電化してなく・ディーゼルカーの汽車で、一両〜二両編成の、鉄道マニアが泣いて喜びそうな、JR山田線。
この午後の便に乗り遅れたら、その日のうちには関東へは帰り着けず、盛岡で一泊する事になってしまいます。
終点の・県都・盛岡までは、宮古からは何と110km以上もの道のりがあり、しかも深くて危険な山越え・峠越えの連続で、3時間もかかる遠さ。
幸いにも私は、徹夜行動の疲れと、ホロ酔い+満腹感とで、山間部に入ってすぐに、足を放り出して・熟睡してしまったので、退屈で怖い景色を殆ど見る事もなく済み、車掌さんに起こされたら、そこはもう終点の盛岡でした。
あとは、もう、快適な東北新幹線(最速の・はやて号。)と、大宮で上越新幹線に乗り換えて・高崎、そして前橋自宅へと、その日のうちに・深夜ギリギリに・無事に帰還出来たのでありました。


それにしても、やはり、あの浄土ケ浜の景色は、今でも忘れられません。





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