記事タイトル:水戸のお囃子・BUNTEN様へ 


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お名前: マキ・宮本昌樹    URL
 BUNTENさまへ。
 HPの過去ログを拝見すると、吉田明神祭の地元と言う事は、水戸市でも、上市ではなく、下市地区の方なのですね。
 私自身は、母が一人っ子・一人娘・婿取りなので、那珂湊市の生まれ育ちですが、婿養子に来た父方は全員が水戸の下市の人なので・親戚が多く、また母方の祖母方は水戸の上市の人達なので・親戚が広がって居ります。
 それで、HPの中で、私の出身地は、水戸市(四分の三。)&那珂湊市(四分の一。)と書いてある訳です。先祖代々、進学は水戸へ通ったようです。
 それで、かつての水戸では、上市よりも下市の方が交通・商業地として中心であった事、江戸時代から明治期までは水戸の豪商・老舗は上市よりも下市に多かった事、昭和20年の戦災で丸焼けになる迄は下市の街並みがそれはそれは立派であり、吉田神社の下市御祭礼がとても賑やかであったと聞いて、知って居る訳です。戦後も十数年以上経ってから生まれた私が、リアルタイムで見た下市の街並みとお祭りとは、だいぶさびれてしまってからの姿なのが残念ですが、その戦前の下市と街並みもお祭りも良く似て居ると言われて来たのが、水戸の外港(川と海との。)であった那珂湊(江戸時代の呼び名は、水戸湊。)でありました。その那珂湊も、昭和20年の戦災を逃れた代わりに・昭和22年に大火により・市街地の半分以上を焼失し、奇跡的に残った古い街並みも・昭和40年代以降はボロボロになってしまいました。
 年末のだるま市(暮市。)、(七夕は廃止。)夏の花火大会、盆踊り、天満宮御祭礼(八朔祭り。)、郷土民謡(磯節保存会。)だけは、今なおますます盛んなのが、せめてもの郷土愛を支えてくれる宝物に思えます。
 今後共、よろしくお願い致します。
[2003年5月8日 0時36分10秒]

お名前: マキ    URL
  水戸地方お囃子研究所の、多分、リーダーでいらっしゃる、bunten様へ。
  この度は、無事に相互リンク成立、有難う御座居ました。光栄の至りです。

  御指摘のありました、那珂湊の本四丁目の彫刻屋台の写真の件ですが、もし本七丁目が年番の年なら・芸者ではなく・地元の保存会だった筈・との御意見。
  昔から四丁目は、芸者囃子しか載せませんし(那珂湊。笠間。水戸の谷中。牛久保町は、水戸の大工町。日立の旭町を呼ぶ町内もあり。)、よく支度を見て下さい。
  磯節保存会・地元のお囃子保存会の女性達だったなら、芸者スタイルの日本髪のかつらは冠らず・普通のアップヘアーの筈ですよね。
  それと、お化粧法も、芸者さんではなかったら、顔・首・胸元・背中まで白塗りにはせず、普通のファンデーションの筈ですよね。
  また、芸者囃子の特徴として、大太鼓は必ず、年配の太目の芸者さん(ベテラン・置屋のおかみさんクラス。)が叩いて居ますので、よく見て下さい。
  と言う訳で、御指摘の四丁目の屋台の写真は、やはり芸者衆が載り込んだ年の物であります。納得して下さいませ。

  今年八月末、和田町の新造屋台の初お披露目は、一体どれ程の贅を凝らした物なのか、今からワクワクしちゃいます。
  各町内競い合って、おまつり全体がグレードアップして行き、各町内の屋台にあまり格差がなくなって行くのは、良い傾向・風潮だと思います。
[2003年5月7日 15時17分39秒]

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