このページには分類困難な古い短編エッセイを集めています、発表した当時の世相を描く材料としてお読み下さい

(お札の清潔さと経済の状況 )(2001・5・10)
 北京の発展ぶりは、10年一昔どころか3年一昔といっても過言では無いほど目覚しい。
点鐘子が昨年5月に続き今年4月に同地を再訪問して感じたのは、たった一年たらずの間に新しいビルがあちこちに建っている街の活況であったが、もうひとつは、二十圓、十圓、五圓といった人民元の中小額面のお札が見違える様に新しく清潔になったことである。
 四半世紀余り前初めてヨーロッパに出張した時心をうたれたのは、スイスフランと西独マルク紙幣の清潔さとその反対の仏フラン、英ポンドのよれよれぶりであった。やはり経済のファンダメンタルズが強く、通貨も強い国のお金はきれいだ、逆の場合はお札まで汚なくなってしまうのか。我国の経済運営に当たってもこれを肝に銘じなければ、と痛感したところである。
 人民元のお札がたった一年できれいになったことが中国経済の発展ぶりを象徴することには異論が無いとして、我国はいかに。この十年来、実体経済も金融システムも、お世辞にも世界のお手本といえる姿ではないが、お札のクリーン度にかけては相変わらず世界のトップクラスにある。一万円札、五千円札はクリーンそのもの、千円札だけが若干問題であった。しかしこれはお札の種類がたった三種類しかなく、しかも世界中一般的な「二」がなくて「一」千円の上がいきなり「五」千円だったため最小額面券である千円札に負担が掛かり過ぎていたためである。
 昨年懸案の二千円札が発行され、この問題は理論的には解消された。二千円札の普及の為には、猶ATM、自販機の改修などの課題があるが、これが克服され、芸術性にも優れ、技術的には世界の最高水準をゆくあの二千円札が普及していけば、我国のお札の清潔度は文句無く世界一を誇ることになるだろう。
 そうなれば、「逆もまた真なり」、実際の経済金融も再び活況を取り戻すだろう。そのために、おおいに二千円札を使おう。(Y)
(金融ファクシミリ新聞「点鐘」)


(偽札と偽造カード)
 古来、洋の東西を問わず、贋金作りは死罪であった。今日のわが国でも、通貨偽造行使罪(刑法一四八条)の法定刑は「無期又は三年以上の懲役」と詐欺罪や窃盗罪の一〇年以下の懲役よりもかなり重く定められている。これは、通貨の偽造行使は、単に受取人に損害を与えるだけでなく、通貨に対する信認という大切な公益を損なうからである。今風に言えば、その保護法益は、私有財産の保護ではなく決済システムの安定という社会インフラなのである。
 ところで、今日、決済システムにおける現金の役割は後退し、代わって各種カード、さらにはインターネット取引などIT取引が太宗を占める。このような世の中では、話題のカード・スキミングやE・バンキングのパスワード・フィシングによる預金詐取は、単に預金者(または銀行)に経済的被害を及ぼすだけでなく、多数利用者にIT決済全般についての不安感・不信感を広め、決済システムへの信認を失わせるという、通貨偽造と同じか、それ以上の反社会性を持つ重罪である。
 にもかかわらず、平成一三年の刑法改正でやっと「支払用カード電磁的記録に関する罪」が規定されたとはいうものの、その最高刑は詐欺罪並みにとどまっている上、フィッシングに関してはそれだけでは有効な罰則が無い。被害を銀行がどこまで補償するかという損失負担の議論よりも、この「現代版贋金作り」という重大な反社会的行為を、「保護法益は決済システムの安定だ」との見地からの刑罰の強化も含め、社会全体としてどう防止・抑圧していくかという根本的・総合的視点が必要なのではなかろうか(Y)。(平成17年4月4日金融ファクシミリ新聞点鐘)

(経済学部的発想と法学部的発想 )
 金融工学入門の紹介程度に登場する、クラシックな初歩の確率論のクイズがある。
 兵士AB2人がコインの裏表で勝負を始めた。Aが表、Bが裏に賭け、コインを投げて、表裏どちらかが累計で3回出たところで勝負が決まる。つまり先に3度目の表が出ればA,先に3度目の裏が出ればBの勝ち。場に千円ずつ出し合い、勝った方が2千円全部もっていくというルール。ところが、表が一回出たところで召集がかかり、勝負は中止となった。場の2千円をA,Bでどう分けるのが公平かという問題(自分で解いてみてご覧なさい)。
 答えはA対Bが11対5となるように分ける、つまり、A1,375円、B625円と分けるというのが期待されている正解。
 ところがこの問題を出したところ頑固な反対論に会った。曰く、表か裏どちらかが3回出て勝負が決まるという取極で、中途中止のルールが無い以上無勝負だ。無勝負なら、何も無かったことにして、お互いに出した千円を取り戻すのが筋だ、という。出題はその勝負の中で表が一度出たことの経済的価値がいくらかを求めるという経済学部的発想からのものなのだが、「ルールが予想していない事態が起こった場合の対応如何」という法学部的発想から捉えるから話が噛み合わない。
 世の中この種の発想の違いからくる行き違いが山ほどある。経済学部的発想が一世を風靡している感があるが、コーポレート・ガヴァナンスや監査などの分野に、結果が同じならプロセスなんかどうでも良いではないかという経済学部的発想を持ち込むと不正がはびこる。相次ぐ大企業などの常識はずれの不祥事を考えると、この際愚直に法学部的発想に立ち返えるべきケースが多いのではなかろうか。
(金融ファクシミリ新聞 点鐘 2004年12月6日)


      徳政令のメンタリティ
 
 柳生街道、柳生の里の直前西の峠に「正長元年柳生徳政碑」という室町時代の徳政令の貴重な記録がある。中世においては、借金に苦しむのは重税その他社会の仕組みでそもそも生計の成り立ちようが無かった善良な庶民、金を貸す側は権力と結びついて蓄財を重ねた悪徳商人という構図であった。だから時々借金を棒引きさせて有り余る蓄財の一部を生活困窮債務者に還元させることが「徳政」すなわち善政と評価されたのである。
 資本主義経済下の現在の我国で次々話題に上る破綻懸念企業への債権放棄は、これとは全く事情を異にする。借り手は自らの責任で借金し、経営に失敗した(放漫乃至犯罪的経営の場合すら少なくない)企業であり、棒引きによる損失を最終的に負担するのが、善良な一般預金者か、納税者である。債権放棄により破綻企業を延命することは、「借りたものは返す」という資本主義の基本ルールを破り、モラルハザードを蔓延させるというそもそも論はさて措いても、真面目に返している競合者を競争上不当に不利にし、経営を危うくするという副作用もある。
 だからこそ、濫に流れない様に、法的には会社更生法から民事再生法という破綻処理法制が整備され、任意手続きとしても私的整理ガイドラインが合意されているのである。それなのに、屋上屋を重ねる形で産業再生機構など作り、担当大臣まで置いて人的資源を浪費しつつ、公的に借金棒引きによるモラルハザードの音頭をとるというのは、未だに中世的徳政令メンタリティを引きずった時代錯誤も甚だしい悪政と言わざるを得ない。(点鐘 2004年6月11日)
 
(注)これは当時の勤務先が、政治的圧力で産業再生機構による筋の通らない債権放棄をさせられ、結局国民負担となったウラツラを書いたものです

(夏にみたリゾート地の構造変化) (2002・9・6)
 東伊豆にある、古くからの温泉地を歩いてみて、この夏、大きな構造変化を目の当たりにした。まず、温泉街の中心の一等地で大きなホテル数軒が廃業、明かりが消えて廃墟のようになっているのが目についた。目抜き通りを下りきった海岸端には、完成早々の真新しい建物が、空家のままむなしく聳えているのがひときわ目立つ。持ち主だという由緒ある老舗の日本旅館も明かりが消えて宵闇の名物庭園の中にひっそりと静まり返っていた。
 反対に景色の良さそうな丘の上や山の東南斜面の至るところに、新しい別荘マンションがニョキニョキと立ち、景色が変わっている。そのうちかなりは老人向けのケア付きマンションとのことで、ある大マンション併設の老人病院では只今大増築工事真っ盛り。
 こうした変化が関連産業にも変化をもたらした。数年前までは、食堂も土産物屋も、日帰客が帰り、宿泊客が宿に入って食事となる夕刻には店を閉め、駅前も閑散としていた。それがいまや、夕食を外でとる宿泊人口の急増を反映して、ややハイ・グレード、それぞれ特色ありげな寿司屋、割烹店が立ち並び、大繁盛で、通りには人通りが絶えない。
 なかでも象徴的なのが、さる高級会員制リゾート・ホテルの転変である。比較的初期に開発された山腹の別荘地の頂上にひときわ目立って偉容を誇っていた、この種の施設のハシリだったこのホテルも、ご多聞にもれずバブル崩壊後破綻し、暫く空家となっていたが、なんと最近老人病院の従業員独身寮として利用されている由。
 こんな狭い温泉リゾートまでも構造変化は厳然と進んでいる。これにうまく乗った勝ち組と、適応できなかった負け組との差が歴然としており、勝ち組のダントツは、なんといっても老人ケア関係サービスである。今日の高齢化による当然の結果とはいえ、こうまでまざまざと見せつけられると、国中老人施設になって果たして我国経済の活力はどうなるのか、と複雑な気持ちにさせられる。(Y)(金融ファクシミリ新聞「点鐘」)

(アクセサリより本体を) (2002・9・17)
 30年振りにボウリングに付き合った。ここも時代の流れでIT化が進んでいるのに驚いた。まず座席の前と欄間の大小二つのスクリーンにそのレーンのプレーヤー全員の名前入りのスコアカードが表示され、投球ごとにスコアが自動的に計算・記入されていく。欄間の大きなスクリーンの方にはピンがセットされると「○○さん投げてください」、スペア以上が出ると「××さんスペア(あるいはストライク、ターキーなど)」とのテロップが流れ、時々画面がプレーヤーを映し出すビデオになる。ゲームが終わると「どうしますか」との質問が流れて、ゲーム継続か終了・精算かを選択する。ルールもスコアのつけ方も知らなくても、コンピューター画面のいう通り投げていればゲームが楽しめる仕掛けになっている。
 ところがこうした周辺サービスのハイテク化とは裏腹に、倒れたピンの掃除やボールの戻りというボウリング本体の肝心のハード部分が故障だらけで、二、三フレーム毎にトラブルボタンやリセットを押し続けなければならず、興をそがれること甚だしかった。二,三レーン向こうでも同じような光景が見られ、このあたりがやはり衰退産業ボウリングの実情なのかとも思った。
 このように周辺サービスが肥大化する割にその産業の本体部分が劣化しているという例が、最近の我国で増えてきているのではなかろうか。品質的に大差ない細かい産地表示をする割に品質に関わる肝心な情報が虚偽だらけの食品産業、色々資料はくれるがパーフォーマンスが平均株価に遠く及ばない株式投信、年寄りがまごつくほどやたらに機械化しているものの人様のお金を預かって安全に運用、正確に決済するという原点が怪しくなった銀行業などなど身近に例がたくさんある。経済や国民生活の根幹にかかわる産業がボウリング産業化したのでは日本全体の衰退の表れといわざるを得ない。なんとかもう一度原点に立ち返って体制を整える必要があろう(Y)。(金融ファクシミリ新聞「点鐘」)