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お名前: 純之介
残念ながら、管理人の手元には二本松出身の藩士の史料しかありません。
どなたかご存じの方がいらっしゃいましたら、少しでもご教授願いたく存じます。
ところで蹴球閑人さんは、かなりのサッカー通のようですね?
私は中学生の頃、明大の木村和司氏に恋をし(笑)その後、実業団日産自動車のファンになりました。
高校生の頃は、私が発起人となり、市内で女子サッカーチームを作った程サッカー好きでした。
Jリーグになって、一時はサッカーを離れたものの、奇しくも木村氏の引退した年に横浜フリューゲルスの
サポーターとして復活…しかしチームが無くなってしまった為、今はもうすっかり離れてしまいました。
合併反対の署名や座り込み、最後の天皇杯、ありがとうエスパルスサポーター!
(試合終了後、フリエ応援席にひとり飛び込んで来たエスパルスサポーターがおりました)
そんな熱い思い出を胸に、サッカーとは無縁の生活を送っています(笑)
[2005年4月18日 22時43分26秒]
お名前: 蹴球閑人
さっそくのご回答ありがとうございました。
山田午郎氏はかなり二本松版では上級の家柄出身だったということですね。
“賊藩”出身ということで苦労があったのか、代用教員を経て青山師範、東京府の小学校教員から
朝日新聞に入社されています。二本松藩士は明治には家禄を失ったうえ、賊藩ということで
苦労が多かったんでしょうね。
ところで、もう一つ質問させていただいていいでしょうか。
戦前の大日本蹴球協会の理事に山田氏と対照的な経歴の人物がいました。野村正二郎男爵です。
野村氏は大阪の杉村家から野村男爵家に養子に入った人物で杉村正二郎時代にサッカー日本代表に
なっています(天王寺中学−早稲田大学出身、マリノスの岡田監督の大先輩)。
祖父の野村維章男爵は土佐勤皇党員で武市半平太や坂本龍馬といっしょに血判状に名を連ね、
脱藩して海援隊に入隊し幹部として活躍、戊辰戦争では参謀であったということになっています。
官軍の二本松攻めには板垣退助率いる土佐藩も参加したとのことですが、野村維章氏も
二本松攻めに参加したのでしょうか?
[2005年4月18日 19時25分25秒]
お名前: 純之介(管理人)
再び管理人です。ご質問に関して、判る範囲でお答えします。
話しは戦国時代にさかのぼります。もとは源氏の家系のようです。
石見の守の息子高定氏の養子として、上杉家の家臣・野呂家から迎えられた正次氏が
山田丹羽家の宗家となります。
正次氏は、柴田勝家氏の家臣となり織田家に属する訳ですが、長秀公のご息女が養母
(高定氏の内室)であり、それ故丹羽の宗族に列した言われています。
手元の史料がかなり大雑把なので、詳しい年代や何がきっかけでと言う事が書かれていないのですが、
柴田家に仕えて功績を挙げるも、勘当されてしまいます。その後母方の姓を名乗るように
なるのですが、恐らく賤ヶ岳の戦い後、丹羽長秀公の配下になったのでしょう。
浅井畷の戦いの後は、都に住めなくなったり、古渡、棚倉移封までも丹羽氏と運命を共に
していますので、丹羽家の重臣である事は間違いないと思います。
ちょっと気になるのが、上杉家家臣・野呂氏。
丹羽氏は丹羽を名乗るようになってからも、時々「野呂」と名乗っていたらしいんですよね。
何か関係あるんだろうか〜?
さて、近年の山田左馬吉についてですが、確証はありませんが、この家系で間違い無いと思います。
理由は、山田丹羽家はさかのぼればもともと1軒しかないからです。
では何故、何が確証があるのか、ないのか。
私の手元にある山田丹羽家の系譜は九代目までしか掲載されておらず、その中には左馬吉の
名前を確認する事が出来ませんでした。
少年隊の中にもうひとり、左馬吉と同じ14才の山田丹羽家の少年が居るのですが、そちらは
山田丹羽家の六代目の分家である事が確認出来ました。
私が判るのはこのくらいです。少しでも参考にして頂ければ…と思いますが、
あまりお役に立てませんでしたね(汗)もっと史料が欲しいです(苦)
[2005年4月18日 2時27分29秒]
お名前: 純之介(管理人)
初めまして。管理人の純之介です。
山田午郎氏、確か3〜4年程前に私も知りました。
ただ、どなたのご子孫なのかと言う事は今回初めて知りました!
「丹羽」と付く名字の家系は、浅見丹羽家や山田丹羽家など有る訳ですが、
藩主の家系と言うよりは、藩主から「丹羽」の名を賜った家系、と考えた方が良いかも知れません。
いずれにしても、藩主からの信頼が厚い家臣のお家柄であったと考えて良いでしょう。
とりあえずきちんと調べてみます。何か判ったらまた書き込みます。
[2005年4月18日 0時58分24秒]
お名前: 蹴球閑人
URL
はじめまして 興味深く拝見させていただいています。
今年3月10日日本サッカー協会は「サッカーの殿堂」入りする
20人を発表しましたが、その中の一人山田午郎氏は二本松少年隊
の生き残り山田左馬吉の息子だそうです。そのお墓も大隣寺にある
そうです。
本日サッカー協会に行ってきたのですが、子供のなかった午郎氏の
ご遺族にあたる方を探しているそうです。私は大隣寺のご住職に
当って、お墓を供養している人がいるかどうか聞いてみたら、
とアドバイスしておきましたが・・
山田左馬吉、午郎両氏について情報をお持ちなら、ご教示いただけません
でしょうか。貴「史料」によると山田家の当主は丹羽(山田)左馬吉
(石高百石)は藩主と同姓ですが、藩主の家系に連なる名門と
いうことでしょうか?
→「日本最初のサッカー・ジャーナリスト、山田午郎」
http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/colum2.htm
(勝手にリンクさせていただきました、すいません)
[2005年4月16日 22時49分43秒]
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