タイトル:少年隊唯一の生き残り 


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お名前: 純之介(管理人)   
さくらさんのご意見、同感です!!
その新聞記事は、ぜひ一度拝読してみたいですね!
戊辰時、堀氏は14歳な訳ですから、インタビューをお受けしたのは67〜68年後と言う事になりますか。
お墓の赤字については、もしや堀氏の個人のお墓とは考えられませんか?
いずれにせよ、堀氏のお墓がどちらに有るのか判りませんので、手詰まりですね(汗)
しかし、興味のある話題です!!
[2003年8月28日 17時50分9秒]

お名前: さくら   
赤字で記載されているという少年隊のお墓についてですが、この間二本松に行った際に
大隣寺と城山の少年隊の丘にある顕彰碑を確認してきましたが、堀良輔氏の名前は
ありましたが、特に赤字にはなっていませんでした。
ちなみに、回想談が掲載されたのはいつの号でしょうか?なかなか面白そうな記事なので
是非全文を拝見してみたいものです。
[2003年8月25日 0時17分7秒]

お名前: さくら   
堀良輔氏についてですが、こちらの隊士一覧にも載っていますが、現在出版されている
本の中では出陣場所は不明となっていますので、もし大壇口へ出陣していたということで
あれば、新発見になりますね。少年隊は大壇口出陣者の中だけでも25名中13名は生き残って
いますので、唯一の生存者というのは恐らく取材を受けた時点でのことだと思われます。
赤字で記載されているお墓というのがどこをさすかはわかりませんが・・・。大隣寺にある
少年隊の墓所(いわゆる遥拝碑的なものですが)には、戦死者の名前しかなかったと思い
ますので、赤字で記載されているというのはもしかしたら霞ヶ城の少年隊の丘にある
顕彰碑の方かもしれませんね(今度行った時に確かめてみます)。
少年隊の活躍についてはごく一部の人しかわかっていませんので、何かご本人の書き残した
ものなどがないかお調べになってはいかがでしょうか。貴重な発見があるかもしれませんよ。
何かわかりましたら、是非こちらの掲示板ででもお知らせいただければ幸いです。
[2003年7月6日 1時38分21秒]

お名前: 純之介(管理人)   
再度、ご報告です。

残念ながら、現在手元に有ります史料では、情報を得る事が出来ませんでした。
今の私にできる範囲では、これが限界だと思います。
また、今後も新しい史料等ありました時は、心に留めて置きます。

どなたか、情報よろしくお願い致します!
[2003年7月4日 3時6分35秒]

お名前: 純之介(管理人)   
お尋ねの件は、堀良輔(通名)氏の墓所について、でよろしいでしょうか?

大隣寺にある少年隊の合同墓所は戊辰時戦死された隊士のもののみですので、個人のお墓でしょうね。
どちらの檀家になっているかだけでもお分かりになると良いのですが…。
取り急ぎ、手元に有る史料では『二本松寺院物語』がベストかと思い、調べ始めてみましたが、
現時点で3時間経過、150P程ですが、未だ有力な情報に行き着いておりません。
まだ3分の1にも行っていませんが、調べ始めた事をご報告しておきます。
しかし、確実に判ると言う保証も有りませんので、ご了承下さい(汗)
結果は後程お知らせします。

また、この記事をご覧の方でご存知の方は、ぜひお知らせ下さいませ!!
[2003年7月3日 21時49分25秒]

お名前: 堀良輔(通名)末裔   
祖先が二本松少年隊生き残りということは随分前に知っておりましたが、
最近叔母から曽祖父の戦前の新聞記事堀良輔(通名)回想談(東京朝日
福島版)のコピーをもらい奮戦の一部がわかりましたのでご報告します。

堀良輔(後に通名)他25名の少年隊は木村銃太郎に率いられ大壇を死守
(29日午前6時頃)薩摩勢は伊地知正治を大将に逸見、貴島、野津等他
土佐勢板垣300騎に対し打ちに打って2時間。(中略)

敵方の野津(後に大将)さんが来るのを川の下の石の陰に隠れていた山岡
栄治・青山助之丞が突然踊りだし薩軍80名ばかりの中へ斬り込み野津さ
んへ一太刀浴びせ(以下省略)

このインタビューは当人が82歳の時に受けており、他に殿様と奥様のお
立ちの時の話し等掲載されていますが省きます。その父は禄高200石、
代官や郡奉行を務め桜田門の変時には江戸の上屋敷にいたらしい。

唯一の生存者ということで少年隊の墓には赤字で記載されているそうです。
まだ一度も行った事がないのでどなたかお知りでしたらお教え下さい。
[2003年7月2日 17時13分36秒]

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