記事タイトル:ツーマンバス |
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はじめまして、道産子と申します。下屋敷線のツーマン時代の写真拝見しました。男性車掌が乗務し ている姿を見ていると、懐かしさと共に私がスキースクールに通う時に乗車した、国鉄バス札樽線手 稲山ロープウェイ行きスキーバスを思い出しました。昭和58年頃の話ですが、当時、北海道の国鉄バ ス路線はワンマン化が完了しており、冬季のみ運行の手稲山行きのみがツーマンとして残っていまし た。男性車掌から金額式の乗車券を購入し、下車するときに中扉から降りる際、滑るから気をつけて と声を掛けていただいたことを覚えています。記憶が定かではありませんが車両はツーマン車の537− 4023、ワンマン(前ドア締め切り)527−8015が入っていました。[2005年10月17日 14時24分33秒]
はじめまして。 下屋敷循環線、普段は女性車掌さんだったんですか。私は1回行っただけだったので、あれがいつも の姿だと思っていました。 確かに循環経路の大部分は山の中だったようですが、盛岡から列車に乗って乗りに行くと、あの場 所で待つしかなかったという記憶があります。 あれがほとんど最後のツーマン車かと思っていたんですが、まだあったんですね、四国に。[2005年10月11日 22時25分33秒]
下屋敷循環線、懐かしく見させていただきました。 写真では男性の車掌さんですが、通常は女性の車掌さんが 乗られていたようです。たしか岩手川口の方から下屋敷を抜けて 陸中板橋から国道に戻っていたと思います。結構山の中を走っていたような。 自分も偶々沼宮内自動車営業所に行った際に見つけてびっくりしました。 国鉄最後の中扉ツーマン専用車は四国松山で冬季のみスキー場行き路線に使われていた 434−6001だったと思います。 仙台市営最後の中扉ツーマン専用車は川内営業所の三菱MR470で 宮城22か463〜467の5台があり、これが最後の生ハンドル車でした。 運用は仙台〜大沢、芋沢、定義が基本で入出庫や間合いで交通公園線や動物公園循環線でも使われて いました。新人運転士さんはこの車から乗務が始まりました。車掌さんは専属の女性車掌さんも居ま したが、運転士さんやガイドさんが代務することも有りました。85年の7月末で廃車となり、2台 が仙台西部の娯楽施設の自家用送迎車になりました。懐かしいです。[2005年10月9日 1時40分21秒]
函館山登山バスですか。どんな山に登るんだろうと思いましたが、よく考えると夜景を見るための 登山バスですね。夜景は綺麗でしたか? やはり車掌(誘導員)が必要な細い道路と言うことでしょうか。観光案内もすると言うことは、バ スガイド代わりで乗せているという可能性もありますね。 そういえば、山梨交通や磐梯東都バスのボンネットバスを見に行ったとき乗っていたのは、車掌さ ん風のガイドさんみたいでした。[2005年10月2日 20時52分42秒]
こんにちは 8月末に訪問した函館で、函館バスが運行する函館山登山バスに乗車したところ女性の車掌が乗 車していました。 もっとも案内放送・運賃表・運賃箱・カードリーダーは使用されていましたので、狭隘となる登 山道での誘導要員となりますが、マイクを使って車窓案内を行っていましたし、函館山での発車 待ち時間では両替をしたりしていましたので正規の(?)車掌業務も行っていたことになります が…。 この系統、市営バスから移管された系統ということですが、知人の話では市営バス時代でも同様の形態だったということでした。[2005年10月1日 10時24分14秒]
京浜急行のナロー車は、毎年増備されていたんですね。 当時はまだ路線バスをマイクロで運行すると言う発想はなかったですし、ナロー車であれ大型車の 輸送力が必要になるくらいのお客様が乗っていたということでしょうね。[2005年9月28日 22時25分9秒]
読みづらい文や誤書き込みをお許しください。 訂正が・・・私が乗務し始めた頃の最古参車が72年車で社番がA1212・A1214などが あり、そこから73、74、75、77、78、80年車(A2042・A2043・A2044) までがツーマンスイッチがありました。その後、導入されたのが82、83、84年車で ここからが冷房付、車掌台付きワンマン仕様になりました(車掌スイッチ等ツーマン機器なし) また、85年始めにはバスボーイ(会社の職名は自動車車掌)も一人になり私もすでに現職に なく正確なところはわかりませんが86年までには保安要員を警備会社に委託したものと 思われます。なお現在は横浜京急バス能見台営業所の管轄でリエッセにて運行されています。 時代の流れとは言え、当時を知るものとしては寂しい限りです。 管理人様、長々とおじゃましてすいませんでした。[2005年9月26日 23時3分0秒]
こんばんわ。 ツーマンに切り替え→おっしゃる通り後ろドアの開閉をしていました。 73年車までのタイプは当然ワン・ツーマン切り替えスイッチがあったのですが こちらの場合、降車ブザーもならなくなりある意味本当のツーマンになってしまい ワンマンタイプでの降車に慣れた乗客が混乱してしまうのでやりませんでした。 75年から80年までの車両がドアスイッチのみ切り替えが可能でしたので(車掌ブザーも 使用可能に切り替わり運転士のハンドル下にあるブザーとのやりとりができました) 雨天などで積み残しが出そうな場合に限り後扉より定期券・回数券のお客様だけ乗降して もらいました。 不思議なことに後ろから乗せると詰め込みがきき遅延防止には効果がありましたが、少子化 の今となってはそこまで混むのも稀じゃないですかね・・・ いずれにせよ車掌がいれば臨機応変の対応ができたものでした。 回数券と定期券のお客様だけを雨天などの混雑時に乗降させたものでした。[2005年9月26日 22時45分27秒]
実際車掌をやられていたとは・・・。京浜急行のナロー車は、写真で見たことはありましたが、ナ ロー車であっても車掌が必要だったんですね。言われてみれば車掌台が付いていました。 スイッチをツーマンに切り替えると言うのは、ドアの開閉を行なったと言うことですか?[2005年9月26日 21時8分54秒]
私は今から20年前に京急の白山道循環線で車掌をしていました。私が入った当時すでに 車掌としての営業業務はなく、あくまでも狭隘路の保安要員としての乗務でしたが・・・ それでも四人の「バスボーイ」が保安要員委託化まで毎日ぐるぐると白山道を回ってました。 車両自体は車掌窓付きのツーマン仕様ナロー車でなんとなくカッコ悪いものでした。85年車 まではツーマン機器もついていたので雨天などでめちゃ混みの時はスイッチをツーマンに切り 替え柔軟な対応をして遅延防止に努めたのを覚えています・・・→ 遅れると対向のバスが待 合箇所でずーっと待つことになっちゃいますからね。 いずれにせよツーマンの方式はともかく車掌が乗ってるってなんかホッとしませんか・・? ただの思い出話ですいませんでした・・・。[2005年9月26日 10時52分53秒]
そうですね。昭和40年代に入って、各地で急速にワンマン化が進んだのは、合理化を進めるためと よく言われますが、初期には車掌のなり手が不足したからのようです。 かつては花形の職業で歌にもなった女性車掌も、その苛酷な労働環境から希望者が激減するように なったそうです。 ちょうどその頃からバスの利用人員も減少を始め、バス会社は大幅な合理化を進める必要が生じ、 ワンマン化も急激に加速していくと言うシナリオです。 ツーマン(誘導員つき)でないとバスが運行できないような路線は、中型化や小型化によりワンマ ン化が推進されたり、あるいはバス路線そのものが廃止されたりして、ほとんど見られなくなりま したね。[2005年9月21日 21時48分59秒]
管理人様 通りすがりのつもりでしたが引き返してきてしまいました。お邪魔いたします。 管理人様の仰るとおりですね。このごろのバスは、つい最近まで残されていた車掌台窓 でさえ他の一般窓と同じにしたり、ここに大型方向幕を設置したりと、もうツーマンを 思わせるものはなくなってしまいましたね。 それに、かつて車掌という仕事は、大変厳しい労働環境下にあったと聞いています。 車掌と言う仕事だけが、旧態依然と言う事はありえないでしょう。 現在、僅かな路線に未だに乗務する車掌さんたちの労働条件は、当然改善されていると は思いますが、もっとも今でも車掌が乗務しているような路線は、道路が狭隘など、ワンマンか出来ないため、 やむなくツーマンと言う路線がほとんどでしょうから、結局は現金の収受を行わない 安全確認の役目が”主”と言うことになるのでしょう。 もともと、かつての厳しい労働環境は、現金収受に直接かかわるという問題が一番の根源なのですから。 私も子供の頃、ツーマンのバスに乗った事がありますが、あれと同じ光景 大きながまぐち鞄と「発車オーライ!」という掛け声は、もはや一般路線では過去のことなのでしょう。 残念な事ですが時代の流れでしょうね。[2005年9月19日 22時10分20秒]
こんばんは。 今となっては、昔の車掌台が付いているバス自体ほとんどなくなってしまったので、切符を売るこ とは出来ても、ドアを開け閉めしたりすることは難しくなりました。車掌が立っている場所もあり ませんし。 なので、通りすがりさんの言われるように、車掌と言うより誘導員が乗車して、ワンマンカーのシ ステムで運行すると言うことになるんでしょうね。[2005年9月16日 22時22分49秒]
HCBさま 季節運行・通年運行ともに山岳路線バスでまだ見かけますね。 でも、トレードマークのがまぐち鞄をさげている昔ながらのツーマンとなると、 岩手や西東京のボンバスのような、ある種のファンサービス向けの限られた路線だけですね。でも本格的?ツーマンが楽しめます。 山岳部の一般路線の車掌さんは車掌と言うよりも、安全確認のための保安係と言うような性格が強いように思いますね。乗車券の 発売はせず料金は料金箱に入れると言う場合が多いです。山梨の場合、私が乗ったときは、がまぐちに乗車券の発売もありましたが、 紺の制服姿ではありませんでした。[2005年9月13日 20時16分33秒]
1988年頃までですが、新京成バスで東船橋駅〜習志野車庫間、東船橋駅〜高根公団駅間、又、津田沼駅〜千葉病院前間にて、 ツーマンバスが運行してました。もちろん、ワンマン兼用者ばかりになってましたし、ワンマンカーのように料金箱が中扉の車 掌の前に設置してまして、切符販売などは行ってませんでしたが、私は、好きで良く乗りに行ってました。[2005年8月10日 9時24分39秒]
初めまして、バスの運転手している者です。 平成17年2月1日現在で全国でツーマン運行している会社・路線を教えていただくとたすかります。[2005年2月25日 21時35分16秒]
>大型方向幕の冷房車でツーマン仕様というのは珍しいかもしれません。 ツーマン最終型で 日野 RE101P 昭和56年式 大型方向幕 非冷房 中ドア手動折戸 でした。 路線バスの大幅減便とワンマン化冷房化を行った平成4年ごろまで活躍していたようです。 かなりバスが余ったみたいで 残念ながらスケルトン車はありません。 新しいためか当方勤務先近くに平成5年ごろ倉庫として一台やってきまして いまでも廃車体を見ることが出来ます。[2005年1月3日 20時47分0秒]
OKMRさんのところの小豆島バスを見ると、確かに中ドア車がたくさんありますね。大型方向幕の冷 房車でツーマン仕様というのは珍しいかもしれません。 スケルトンボディになってからはどうだったんでしょう。[2005年1月3日 19時22分40秒]
ウチの地域では同じ頃ツーマンでまだまだ路線がありました。 ワンマン設備があってもツーマンで走っていました。 変だなあと思っていました。 いろいろな理由があったのでしょうが 組合の力が強すぎたのが原因でした。 「合理化」(=今でいうリストラ)の遅れでツーマン路線が残っていました。 当時残っていた 中ドアのみのツーマン専用車にものすごく執着していて 録音したり走りを撮ったりしました。 小豆島という島では平成になってもたくさん走っていました。[2004年12月30日 0時55分52秒]
どうでしょう。もしかすると、公営交通だからこそ、そういう無駄があったということも考えられ ますよね。 もっとも、私はこれまで公営交通のある街に住んだことがないため、「市営バス」とかの経営感覚 というのはいまひとつ実感が湧きません。[2004年12月30日 0時43分12秒]
管理人様、失礼しました。その車両は仙台市交通局のものだったからこそびっくりしたんですね 当時どこでもバス路線の経営は非常に厳しい時代でもあったと記憶しています。そんななかで 公営交通ならばとっくに合理化がすすんでツーマン運行などありえないと思っていました。[2004年12月22日 23時35分5秒]
里の杜のメルファ7さんお久しぶりです。 それも仙台市交通局ですか?昭和60年ごろといえば、私が岩手県にいた頃ですね。 その車両は定期運行されていたんでしょうか。 あの時代は、まだその地域にしか知る人のいない珍しいバスはたくさんいたんでしょうね。[2004年12月19日 22時30分34秒]
そういえば、学生時代昭和60年、61年の2年間東北大学川内グランドでアメフト(学生リーグ)の 試合があったのだけれども、 そのグランドの脇をツーマン専用車(三菱MR)が走っていくのを唖然として眺めていたのを思い出し ます。 ツーマン運用よりも前扉なしのツーマン専用車の存在と、東北では大都会の仙台で昭和60年代にはい ってもツーマン専用車があったことに、ただただびっくりしてました。[2004年12月16日 22時48分2秒]
仙台市交通局は90年代まで、車掌要員がいたということですね。制服制帽姿ということは、専門職 かあるいは運転手との兼務でしょうか。 ワンマンカーの注記がある時刻表というのは懐かしいですね。私も県外のどこかで見たことがある ような気がしますが、もちろん手元に残っている中にはありません。 70年代ならではのものでしょう。 ただ、バス停の標識にはかなりあとまで、ワンマンとツーマンの区別表記の名残が見られたような 気がします。探せば今でもあるんでしょうか。[2004年12月12日 21時2分21秒]
おばんです。 仙台で乗車したツーマン車は、交通局の制服・制帽を着用していたと記憶しています。 ちなみに他の系統ですと、営業所への入出庫便もツーマンで運転という例もありました。 ところで、「その頃」より少し昔話になりますが、1970年代後半の北福岡自営で発行された壁 張りの時刻表では、(改正前日に新聞の折込で入ってきますが、現在でもこの方式を踏襲して います)ワンマンカーの便には「(ワ)」(正しくは丸囲み)のマークが付いていました。 田子線・女鹿線・足沢線の時刻表にはその記載がなかったのは言うまでもありません。 ちなみに岩手県内の他の地区の国鉄バスや民間バスも1970年代はワンマン・ツーマンが混在し ていたと思いますが、時刻表で同様の表記があったのでしょうか?[2004年12月9日 23時42分21秒]
確かに今のようなネット社会だったら、情報はあっという間に広がっているでしょうね。そうい う意味では、自分で見つける楽しみというものがたくさんあった時代でした。 もっともその喜びを伝える相手というのもほとんどいない時代でしたが・・・。 ツーマン専用車の折り戸というのは、もともと手で開け閉めしやすいドアという意味があったんで しょうね。引き戸を手で開け閉めするには力が要りますから。 いずれにせよ国鉄バスはかなり遅くまでツーマン専用車を導入していたため、昔ながらの光景を最 後まで目にすることができました。民間であれば、ワンマンとの兼用車という方法をとったでしょ う。数少ないツーマン路線のために異なる仕様の車両を導入するのは非効率ですからね。 それにしても仙台でそんな遅くまでツーマン運行が行われていたとは・・・。中型ワンマンの路線 なら、大型を使用する場合でも「車掌」ではなくて「誘導員」で済むところを、車掌業務までちゃ んとさせていたわけですね。 制帽とかもちゃんとかぶっていたんでしょうか。[2004年12月7日 22時39分1秒]
おばんです。 ア・ラ・カルトの「車掌の乗ったバス」を拝見しました。 下屋敷循環線だけとはいえ1985年まで残っていたのは個人的にも驚きました。もっとも今のよ うに情報が発達している時代だと真っ先に乗りに行っていたでしょうけど…(^_^;;) ところで、私の故郷の二戸(北福岡自営)でも1983年の中型車導入までは田子線(北福岡〜 上斗米〜田子〜清水頭)・女鹿線(一戸〜女鹿新田)・足沢線(北福岡〜御返地〜足沢〜上斗米 /川代口〜福岡川代)の3系統はツーマン路線でしたが、ツーマン専用車は早々と消えたという 記憶があります。ツーマン専用車は何度か乗車したことがありますが、「展望席」(笑)に座っ ていました。 末期の頃は前中扉ながらもツーマン専用で使用していた車両がありましたが、上記のツーマン 専用車や中折戸のBU(帝国車体・バス窓・車番失念・岩22か169)では車掌が手動でドアを開け ていました半面、中引戸のRE(帝国車体・バス窓・車番失念・岩2く9604)では車掌台に20cmく らいのレバーがあり、ドアの開閉をレバーで行っていたという違いもありました) 岩手から外れますが、学生時代を過ごした仙台では90年代初めまでツーマン系統がありました。 中でも居住地区の近くを走っていた恵和町線(長町営業所〜長町南駅〜恵和町)は、常時使用し ている中型車が検査等の場合大型車使用のツーマンになりましたが、その場合バス→地下鉄の 乗り継ぎ券(自動改札に投入可能な磁気券)を車掌から購入するという珍しい光景も体験して います。(あらかじめ車内の発券機から乗り継ぎ券を多めに準備し、それを発売していました)[2004年12月5日 22時5分31秒]
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