042文武天皇



名前

第42代 文武天皇(もんむてんのう)、倭根子豊祖父天皇 (やまとねことよおじ)、珂瑠 (かる) 、軽(かる)
               

親族

父=草壁皇子 母=元明天皇(阿閉皇子(あべ))
  皇后 藤原宮子
   

首皇子(聖武天皇
               

皇居

藤原宮
               

陵墓

陵墓=檜隈安古岡上陵 (ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)
古墳名=栗原塚穴古墳・ジョウセン古墳
形状=山形
場所=奈良県高市郡明日香村栗原


宮内庁治定文武天皇陵



宮内庁治定文武天皇陵


       
               


42代文武天皇の略歴 (7世紀)(8世紀
0683天武天皇12癸未(1)
生誕
0697持統天皇11丁酉02月16日
立太子
0697持統天皇11丁酉08月01日
持統天皇の譲位をうけて即位
0697文武天皇01丁酉08月20日
藤原宮子を夫人とする
0697文武天皇01丁酉10月19日
陸奥の蝦夷がその地の特産を献上
0697文武天皇01丁酉10月28日
新羅の使い一吉飡、金弼徳、奈麻、金任想らが来朝
0697文武天皇01丁酉11月11日
務広肆(従7位下)と坂本朝臣鹿田と進大壱(大初位上)、大倭忌寸五百足を陸路から、務広肆土師宿禰大麻呂
と進広参(小初位上)、習宣連諸国を海路から筑紫に遣わし新羅の使いを迎えさせた。
0697文武天皇01丁酉12月18日
越後の蝦狄(えみし)に地位に応じて物を与えた。
東山道方面では蝦夷(えみし)、北陸道方面では蝦狄(えみし)と使い分けられていた。
0698文武天皇02戊戌01月03日
新羅の使い一吉飡金弼徳らが貢を献上
0698文武天皇02戊戌01月08日
土佐国が牛黄(ごおう)を献じる.
牛黄は牛の胆石で、薬用になるといわれていた.
0698文武天皇02戊戌01月17日
新羅の貢物を諸社に奉納.
0698文武天皇02戊戌01月19日
土師宿禰馬手に命じて、新羅の貢物を大内山陵の天武天皇陵にお供えさせる
0698文武天皇02戊戌02月03日
一吉飡金弼徳らが新羅に帰る
0698文武天皇02戊戌02月05日
宇智郡へ行幸(現在の奈良県五條市あたりか)
0698文武天皇02戊戌02月12日
百官で相当職にあるものと才伎長上とに身分に応じた禄を授ける.
0698文武天皇02戊戌02月15日
武官に身分に応じた禄を授ける
0698文武天皇02戊戌03月05日
因幡の国が銅の鉱石を献上
当時としては貴重な品であったと思われます..たぶんですがこのような黄銅鉱であったのではと思われます.
0698文武天皇02戊戌03月07日
越後国が疫病の流行を報告、医師と薬を送り救済した。
0698文武天皇02戊戌04月03日
近江、紀伊に疫病が流行り、医師と薬を送って治療させている。
0698文武天皇02戊戌04月29日
雨乞いのために、芳野水分峰神に馬を賜っている。
0698文武天皇02戊戌05月01日
諸国の旱害が報告されている
0698文武天皇02戊戌05月05日
使いを大和、山背、河内、摂津の四カ国に送り、名山,大川に雨乞いをさせている。
0698文武天皇02戊戌05月25日
大宰府に大野・基肄・鞠智の三城を修復を命じる
0698文武天皇02戊戌06月08日
近江国が白礬石(明礬の鉱石)を献上
0698文武天皇02戊戌06月15日
越後国の蝦夷が土地の産物を献上
0698文武天皇02戊戌07月01日
日食
0698文武天皇02戊戌10月04日
薬師寺の造営がほぼ終り、僧達を住まわせる。
0699文武天皇03己亥05月24日
役行者小角を伊豆に配流。
0699文武天皇03己亥06月15日
山田寺に封300戸を施入したが、期限を30年とする。
0700文武天皇04庚子12月26日
大倭国に疫病が起こった報告がされる。医者と薬を下賜して救済している。
0701文武天皇05辛丑01月01日
官人の朝賀の儀
0701文武天皇05辛丑02月20日
吉野離宮へ行幸
0701文武天皇05辛丑02月27日
吉野離宮から還幸
0701文武天皇05辛丑03月03日
王親や群臣を東安殿に集めて曲水の宴を催す。
0701文武天皇05辛丑03月21日
対馬からの金の献上により朱鳥から大寶(大宝)に改元。
この日、官名と位号の制度を改正
0701大宝01辛丑06月25日
大倭、河内、摂津、山背に時節の雨が降らないので雨乞いをさせ、合わせてこの年の調を免除。
0701大宝01辛丑09月18日
紀伊国へ行幸
0701大宝01辛丑10月08日
武漏の湯(むろのゆ)に到着
0701大宝01辛丑10月19日
紀伊国から帰還
0702大宝02壬寅01月01日
大極殿で朝賀の儀
0702大宝02壬寅02月01日
大宝律令の領布
0702大宝02壬寅07月11日
吉野離宮へ行幸
0702大宝02壬寅12月22日
持統天皇が崩御
「素服(麻の白い無地の喪服)を着たり、挙哀(死者を悼んで泣き叫ぶ儀礼)をすることがないようにせよ。文官、
武官は任務を平常どおりにおこなえ、葬儀の儀礼についてはつとめて倹約せよ」との遺詔が出されている。
0703大宝03癸卯01月01日
この年の朝賀の儀は取りやめで太上天皇(持統天皇)の殯宮に拝礼している
0703大宝03癸卯12月17日
太上天皇(持統天皇)を飛鳥の岡で火葬にした。
0704大宝04甲辰01月01日
朝賀の儀
0704大宝04甲辰05月10日
雲の瑞祥により慶雲に改元
0704慶雲01甲辰11月20日
初めて藤原宮の地を定める。・・・藤原宮の拡大かと思われるが不明。
0705慶雲02乙巳09月09日
八咫烏神社を大倭国宇太郡に置きこれを祭らせる。(榛原町高塚)
0707慶雲04丁未06月15日
在位11年、25歳で崩御
「挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す儀礼)三日、凶服(くぶく、喪服)一月とせよ」という遺詔を残したという。
0707慶雲04丁未11月20日
檜隈安古山陵に葬られる 。檜隈安古山陵が現在の文武天皇陵ではなく傍にある中尾山古墳であるという説が
ある。中尾山古墳は八角墳で玄室が小さく火葬された遺骸を収納した事実と一致する。