029欽明天皇














称号

第29代 欽明天皇(きんめいてんのう)

名前

天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわ)











親族 父親 継体天皇(けいたいてんのう)

母親

手白髪郎女(たしらかのいらつめ)
  皇后 石比売姫命(宣化天皇の娘)
---子=訳語田渟中倉太珠敷(敏達天皇
  蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)---子=大兄皇子(用明天皇
                       =豊御食炊屋姫尊(推古天皇

蘇我小姉君(そがのおあね)---蘇我稲目宿禰の娘




泊瀬部(はつせべ)(崇峻天皇











皇居 磯城島金刺宮(しきしまのかなさし) 別宮:橘の宮(橘寺)











陵墓 陵名 檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)

古墳名 平田梅山古墳

形状 前方後円墳、堀

所在地 奈良県高市郡明日香村大字平田
 
 

日本書紀によれば、612-壬申-推古20年に推古天皇の母である堅
塩姫を合葬し、620-庚辰-推古28年10月には砂礫を檜隈坂合陵の
上に葺き、「域外に土を積みて山を作り、氏毎に課して大柱を山の
上に建てしむ、時に坂上直がたつる所の柱、勝れて高し、時に直を
呼びて大柱直と曰う」とある。

全長138m、後円部径73m、前方部幅108m。
三段築成で西向きの前方後円墳である。

現在、傍の吉備媛墓に置いてある有名な通称猿石4体は、この御
陵のくびれた部分の南側にあった。

 

右の写真は少し離れた場所にある「見瀬丸山古墳」です。

見瀬丸山古墳は、全長約310m、前方部幅約210m、高さ約15m、
後円部径約150m、高さ約21mの前方後円墳で、奈良県下では最
大、全国でも6番目の規模を誇る。
石室全長約26mの巨大な横穴式石室である。玄室には2基の刳
抜式家形石棺が安置されており、この古墳こそが欽明天皇陵とす
る考え方が強い。

治定されている欽明天皇陵には踏み込むことはできませんが、こ
こは登ってみても平気です。(ただし、後円部は立入り禁止)

 















略歴(6世紀
0509継体天皇03庚寅年(1)
生誕
0539宣化天皇04己未年02月10日(31)
宣化天皇が崩御
0539宣化天皇04己未年12月5日
即位
大伴大連金村と物部尾興大連(もののべのおこし)を大連とする。
0540欽明天皇01庚申年01月15日(32)
皇后を石比売姫命とする
0540欽明天皇01庚申年07月14日
都を磯城島金刺宮(しきしまのかなさし)とする。
0540欽明天皇01庚申年09月05日
難波祝津宮(なにわのほふりのみや)に行幸
大伴大連金村と物部尾興大連と許勢臣稲持(こせのおみいなもち)らがお伴している。
0552欽明天皇13壬申年10月13日(44)
日本書紀によれば、この日百済から仏教の経典と仏像が送られている。
欽明は、群臣に祀るべきかどうかを問うた。蘇我稲目宿禰は祀るべきだといい、物部尾興大連と中臣連
鎌子は反対する。
欽明は蘇我稲目宿禰に仏像を預けて礼拝させる。
後に病がはびこり物部尾興大連の進言により仏像は難波の堀江に捨てられ、仏像を祭っていた寺は焼
かれたという。


仏像が捨てられた難波の堀江

0554欽明天皇15甲戌年01月07日(46)
訳語田渟中倉太珠敷(おさだのぬなくらふとたましき)(敏達天皇)を皇太子とする
0554欽明天皇15甲戌年05月03日
百済の再三の要請に応じてようやく援軍を向かわせる。これより前に援軍の数は1000、馬100匹、船40
隻と返答しているので、その程度の援軍だったのだろう。
0562欽明天皇23壬午年08月(54)
大伴連狭手彦を遣わし数万の兵で高麗を撃破
0567欽明天皇28丁亥年(59)
この年は洪水がでて、飢えるものが多く、人が人を食うことがあったという。
0570欽明天皇31庚寅年03月01日(62)
蘇我稲目宿禰が薨じた
0571欽明天皇32辛卯年04月15日(63)
63歳で崩御
0571欽明天皇32辛卯年05月
河内国古市で殯される
0571欽明天皇32辛卯年09月
檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)に葬られる。