蘇我馬子


               

名前

蘇我馬子(そがのうまこ)、嶋大臣(しまのおおおみ)
               

親族


父親

蘇我稲目

 


妻は物部守屋の妹だったという
   

蘇我蝦夷
   

蘇我倉麻呂(蘇我倉山田石川麻呂の父)
               

陵墓

陵名:石舞台古墳、形状:上円下方墳であったという、場所:奈良県明日香村



「石舞台」の名の由来については、一般には石の形状からとされています
が、その昔、狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、子の地にやっ
てきた旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたとい
う話もあります。

石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で築造は7世紀はじめ頃と推定
される。すでに古墳上部の封土は流出し巨大な天井石が露出した姿となっ
ている。被葬者は不明となっているが、蘇我馬子の墓であろうという説が
有力である。
昭和8年と10年に本格的調査が行われ、玄室の長さ7.6m、幅3.5m、高さ4.
7mで大小30数個の花崗岩が使用されており中でも天井に使われている石
の重さは、北側の石で64t、南側の石は77t、石の総重量は2300tという大
規模な古墳であるということが分かっている。

               
               


蘇我馬子の略歴 (06世紀
0551欽明天皇12辛未年(1)
生誕?
0570欽明天皇31庚寅年
父曽我の稲目死去
0572敏達天皇01壬辰年04月
敏達天皇により大臣に任ぜられる。
0574敏達天皇03甲午年10月09日
吉備国に派遣され屯倉を拡張、田部を増やす
0575敏達天皇04乙未年02月01日
帰郷し、屯倉などについて報告
0584敏達天皇13甲辰年09月
百済よりもたらされた仏像2体を請い受け深く信仰をはじめる。
0585敏達天皇14乙巳年02月24日
病気となる。この年疫病が流行している。
0585敏達天皇14乙巳03月01日(35)
敏達天皇は物部弓削守屋大連らの排仏の訴えを受け「仏法をやめよ」との詔。
物部弓削守屋大連は自ら赴き、寺や仏像を焼く。焼き残った仏像を集めて難波の堀江に捨てさせた。
0585敏達天皇14乙巳年06月
自分の病気平癒のため自分だけ仏法をすることを許され、寺院を造り仏像を迎え入れ供養する。
0585敏達天皇14乙巳年08月15日
敏達天皇崩御。物部守屋との仲はいっそう険悪となる。
0587用明天皇02丁未年04月09日
(35)
用明天皇崩御
0587用明天皇02丁未年06月07日
崇峻天皇擁立のため炊屋姫尊(推古天皇)を奉じて佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に「穴穂部皇子と宅
部皇子を殺せ」と命じる。その日のうちに穴穂部皇子は殺される。
0587用明天皇02丁未年06月08日
宅部皇子が殺される(宅部皇子は宣化天皇の皇子ではあるが王位継承には関係なかったようです。穴穂部と
あまりにも仲が良すぎたのが原因か?)
0587用明天皇02丁未年07月
物部守屋を滅ぼそうと軍勢を派遣する。筆頭は蘇我馬子、泊瀬部や竹田皇子、厩戸皇子など。
0587用明天皇02丁未年08月02日
崇峻天皇即位
0588崇峻天皇01戊申年(38)
飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊し、初めて法興寺(ほうこうじ)をつくり、この地を真
神原(まかみのはら)と名付けた。
0592崇峻05壬子年10月04日(42)
崇峻天皇が、奉られた猪を指差し「いつの日かこの猪の顎を斬るように憎いとことの人を斬りたいものだ」と言っ
たことを聞く。
0592崇峻天皇05壬子年11月03日
東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺させ、その日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ) 葬る。
0614推古22甲戌年08月(64)
病気となる
0620推古28庚辰年12月01日(70)
聖徳太子らとともに『天皇記』『国記』を編纂
0621推古29辛巳年02月05日
聖徳太子が薨去
0624推古天皇32甲申年10月01日
葛城の県を払い下げるよう推古天皇に要請するが断られる
0626推古天皇34丙戌年05月20日
(76)
永眠。桃原墓に葬られる。年齢は76歳だと思われる。 (現在の奈良県明日香村石舞台が馬子の墓だといわれ
ている)