楠正成










名前
多聞丸 楠正成
親族
父=楠正遠  母=橘盛仲の娘
兄=正俊 弟=正季 弟=正家
妻=久子 子=正行、正時、正儀
住居
千早城
墓所
観心寺(首塚) 大阪府河内長野市寺元
位置=34-26-14 135-35-54
座標=34437342 135598594

湊川神社 神戸市中央区多聞通3-1-1
位置=34-40-53 135-10-32










楠正成略歴
1294永仁02甲午(1)
誕生

楠公誕生地


産湯井戸

1301正安03辛丑(8)
観心寺において滝覚坊について修行する
1304嘉元02甲辰(11)
父については諸説あるが正遠(42)であればこの年鎌倉で死没
1309延慶02己酉(16)
加賀田の大江時親につき軍学を修行 また 元服して正成を名乗る
1322元亨02壬戌(29)
夫人を迎える 名は久子
1331元弘01辛未09月11日(元徳03)(38)
後醍醐天皇の召しで赤阪城で挙兵。挙兵といえども兵力は500
1331元弘01辛未10月21日(元徳03)
赤坂城に篭城していたが、城に火をかけ脱出
1332元弘02壬申(元徳04)(39)
再び挙兵して摂津の天王寺を占拠
1333元弘03癸酉02月(正慶02)(40)
幕府軍8万が侵攻してくると再び1000の兵力で千早城に籠城。兵糧攻めを選んだ幕府軍はゲリラ戦で補給路を絶たれ兵糧が足りなくなり総崩れとなる。
1333元弘03癸酉05月30日(正慶02)(40)
後醍醐天皇が隠岐から脱出
1333元弘03癸酉06月(正慶02)(40)
後醍醐天皇を兵庫に迎えにあがり京凱旋の先陣を務める。
1334元弘04甲戌(41)
建武の新政が始まり河内和泉の守護に任じられる。
1335建武02乙亥11月
建武の新政に不満をもつ武士たちが蜂起、尊氏が挙兵。京へ攻め上ったが大敗し九州へ落ちる。
1336延元01丙子05月25日(建武03)
わずか700の手勢を率いて足利の大軍勢を迎え討つため兵庫(神戸の会下山)に出陣した。
35000とも言われた足利軍の「大手・山の手」の主力とまともにぶつかった正成軍は当然のことだが力及ばず弟と刺し違えて生涯を終える。