穴太坂本
 滋賀県大津市穴太・坂本

穴太衆として三百数十年続く粟田家の初代は阿波屋喜兵衛、阿波国の石工だった。
徳島城は、天正14年(1586)に豊臣政権の天下普請として築城が始り小早川隆景や、長宗我部元親、比叡山の僧徒たちにも手伝いが命じられた。「比叡山の僧徒」とは穴太散所法師、すなわち穴太衆のことだろう。
 その後、徳島城は四度の増改築が行われたといわれる。粟田家初代・喜兵衛は、十二、三歳の頃、見習職人としてその普請にかかわり、穴太衆とともに、坂本に移り住んだと伝えられる。

「穴太の石積」・・・平野隆彰著より転載

平成22年(2010)03月06日(土)雨。突然の訪問であった私を快く迎えてくださり。長時間にわたるご教授をありがとうございました。
粟田建設会長の粟田純司氏は、見ず知らずで突然訪ねてきて、素人質問を投げかける私に丁寧に対応して下さった。
単に穴太衆だけに留まらず、穴太衆の立場も客観的に見据えておられながら、石積業界全体の未来のためには穴太衆に限らず石積職人達が何を学ぶべきかを真剣にかんがえておられるすばらしい人物で、お話を聞きながら会長に傾倒していく自分に気づくほどであった。


滋賀県大津市坂本 粟田純司邸

ぱあでれ・フロイスが、信長に呼ばれ岐阜の城で対面したのはこれが二度目であった。信長は王の威厳を保ちながらも好奇心丸出しの子供のような問いをぱあでれに投げかけ、わが国の城に及んだときのこと。

「話には聞いておったが、城は全て石でつくられておるのか?」
信長の声はすこぶる大きいのだが、その時はいっそう声を張り上げ、冷厳な眼差しに一瞬稲妻が走ったようであった。驚き感動したのかもしれません。
「はい、わが国ポルトガルはもとよりヨーロッパの国々の城は全て石造りでございます。また、インドの城もそうでした。この国では、なぜ豊富な石を用いないのか、むしろそれが不思議なことでございます。」
ぱあでれが重ねて答えると信長はなにか閃いたようにすくと立ち上がり、ぱあでれから贈られたばかりの羽織がついたビロードの帽子をわしづかみに取ると、しばし遠くを見つめていたが、「して、そちの国の城というのは山頂に建っておるのか?」と、ぱあでれに背を向けたまま問い掛けた。
「いえ、そうではございません。多くの城は高い石の塀に囲まれて小丘の上や平地に建っております。城ばかりか、戦乱に明け暮れたヨーロッパでは教会も人家も道路も全て石造りでございます。古い時代からフリーメーソンと呼ばれる石工の集団がおり、この国の大工のように高い技術をもっております。」
「ふむ。石工の集団か。次に予を訪ねてくるときは、そちの国の城の絵図を描かせて持って参れ。」
信長は振り返るとにっこりと笑い、ぱあでれにそう命じた。
「承知いたしました。それに関する書物やヨーロッパ、インド等の地図などもお持ちしましょう。」
ぱあでれが微笑みつつ答えると信長はビロードの帽子をかるく頭に載せてすわり。差し出された贈り物の数々を眺めていたが、「この帽子とマントはもらっておくが、その時計とやらはせっかくだが持ち帰るがよい。予は欲しくはあるが、それを動かしておくことは難しい。予の手に入っても無益となろう。」
そう言って、信長が最も喜ぶと思われた精巧な目覚し時計は受け取らなかった。信長の元には、ありとあらゆる高価な珍品が贈られてきたが、自分が欲しいと思うものだけ受け取るのが常のようであった。
ぱあでれは、機嫌のよさそうな信長の顔色を読むとすかさずこの度の訪問の目的を述べた。すると信長は意外にもあっさりとこう答えた。
「死を恐れず幾千里の波濤をこえてきたそちらの熱情はあっぱれでじゃ。その願いであるデウスとやらの教えの布教は許そう」
このあと信長はぱあでれといるまん、ロレンソを茶の湯部屋に招き自分が飲んだ茶碗で茶を与えさせヨーロッパやインドのことを尋ねながら二時間あまりもすごした。質問するときの信長はまるで無邪気な少年のようであった。

叡山焼き討ちはこのあと二年後、かってない高石垣を巡らした安土城が完成するのはそれから五、六年後のことである。

「穴太の石積」・・・・・平野隆彰筆より転載