8月定例会は「私の戦争体験」と題して和田義盛さんより貴重なお話をいただきました。
 
    
 和田義盛さん講演摘録(20/8/9)

大正13年宮前平駅前で出生。昭和14年麻布第三連隊第59師団へ配属され、北師団として12/1溝の口まで徒歩で行き、川崎経由で品川へ、品川から軍用列車で下関へ移動し、釜山・京城・奉天・山東省済南を経由して泰安駅前に駐在した。

泰安では、無線で対応している場所はゲリラ攻撃を受けなかったが、有線のところは攻撃を受けた。
昭和19年秋、済南から沖縄への移動命令が発せられたが、北京の北へ移動できず、タイゲンの部隊(62師団)が沖縄へ行き、沖縄戦に参戦した。知り合いの名が摩文仁(マブミ)の丘にある。

昭和20年7月4日内地警備要員として貨車に載せられ京城へ移動し、翌5日日本海側へ出て、サーチライトをつけて夜間演習をし、主力部隊は朝鮮からシベリアへ移動した。
8月9日ロシアと宣戦布告し、艦砲射撃が聞こえる中婦女子は泣きながら38度線の南へ移動した。8月15日の終戦の日は、中隊長の指示で酒は飲み放題となったが、目標を失った日となった。8月23日武装解除されたがソ連兵監視の下でも盗みで韓国人に襲われた。9月23日船(タンカー)でウラジオストックへ移動。船床は油だらけの中、月は15夜でいつまでも南にあったのが強く印象に残っている。食べ物はジャガイモ1〜2個で、靴墨で飯炊きをし、大便や小便はハッチでした。

捕虜収容所は二重の鉄条網に囲われていて、10m上の要壁には歩哨が監視していた。その監視される中で、収容所近くにあった日本人の墓へ墓参りを毎日やった。中には墓参りと称して脱走する者や、茶碗のかけらなどで穴を掘り脱走を試みた人たちも収容所近くの国境には、50mごとに監視員がいて逃げ切れない人がいた。5人中3人は死亡したが、真面目に墓参りをした自分は信用され歩哨の目も遠のくようになった。

収容所(カザル)での生活は、収容所から1時間先のコルホーズ(ジャガイモ畑)でイモ掘りを一ヶ月くらいした。昼食抜きの作業であり、オートミル(茶のみ1杯)とクッキー1枚の食事で一週間くらいは便通がなく出てもポロポロ糞だった。食糧が不足していたので作業の途中で、人参・じゃがいも・キャベツなどを盗んでは持ち帰り、蒸して食べたりした。洗濯物はすぐに凍るくらいの寒さのため、朝、風呂で洗濯をした。

しばらくして、一昼夜三交代の石炭のボタ運び作業に移動した。ボタ山へ南京袋を持った女性たちがボタ山の中から石炭を拾いに来るので、石炭を蓄えておいてよく物々交換をした。そこでは体格により1〜3級に分けられ、1級の者は炭鉱へ行き、残りは材木運びをやった。材木運びでは筏組を外すものを夜打ち込んだり、単純作業を一時間かけたりしてよく見ろと注意された。無蓋車へ10本単位で積みこむときに、押さえの針金を切り落とし、丸太と一緒に落ち命拾いをしたこともある。その際腰を打ち暫くの休息となった。
その後炭鉱へ坑木の運びこみ作業所へ移動した。休み時間には煙草(キザミ)を新聞紙に巻き込みよく吸った。

トロッコの後押し作業では、立坑120〜200mのところから石炭をあるだけとっては坑道をつぶしてくる。ベルトコンベアへ採掘した石炭を鉄板上へ落とし、トロッコ1台で約1tを2mのカナ(ワイヤ)をエレベーターで上げ、途中で外し坂を下り、登りを押す作業をしていた時、後方からのトロッコと体が挟まれそうになったが、幸い手のみ挟まれたことはあった。石炭堀は4時〜12時,12時〜20時,20時〜4時の交代制。ガスが抜けないうちに作業を終わらせるのが大変で、監督にはノルマがあり100%達成しないと食事は半分になった。楽しくサボる欲しかなかった。柱と天井が折れる音で逃げだし、出たとたんに坑道が崩れ落ち、風圧で飛ばされたこともあった。風呂は週一回だけだった。

床屋をスパイとして使っていて、日本人のイヌ(赤)の壁新聞で煽られ(歌を歌わされ)帰国できない者もいた。戦争責任を白状させられ、後悔の念を表明すると帰国を許された。洗脳されて帰国することになった者もいる。日本人同士で許さないこともあり、泣きながら謝った。憲兵の中には、地方人になりすましたため、磔にあい一週間後銃殺にあったものもいた。

捕虜期間は約2年間。昭和22年ナホトカから帰国し、復員手続きは横浜でした。

当時の自作俳句「敵弾に 打たれしも 3度生きながらう」がある。
軍隊=運隊だったと思う。


和田さんは、川崎市商店会連合会長の要職にあり、平成20年11月7日川崎市より「商店街の情報発信機能の充実や若手後継者の育成、大型店・チェーン店などの商店街加入問題に力を注ぎ地域商業の発展に貢献してきた」ことで社会功労章を受賞されました。
                            (この項丸山が記載)