いたか会員 木村 功の「フイリピン日本語教師」奮闘記
 

    フィリピンでの日本語ボランティア          木村 功

 1 はじめに

 今年の6月初めから8月末まで3ヶ月間、フィリピンへ日系3世、4世に日本語を教えるボランティアとして行きましたのでその印象をお伝えします。
 2年ほど前から海外旅行の情報交換をするNPO法人「ワールドステイクラブ」に入会していますが、このクラブの中にフィリピン日系人に日本語を教える「フィリピン日系人互助財団」の「トレーニングセンター」の校長先生がいて前からフィリピンの話をいろいろ聞いていたことに始まります。そして行き先はフィリピンにある日本語の「トレーニングセンター」です
教室棟


フィリピンは面積が30万平方キロメートルで日本の8割の大きさに約9000万人の人が住む、約7100の島から成る国です。日本の最西端の与那国島から480kmしか離れていませんが、飛行機で東京から4時間かかります。平均気温は最低でも26度、最高が4月で35度の熱帯にある国です。言葉は公用語がタガログ語で共通語が英語です。ほとんどの人が英語を話します。

 2 準備

 このトレーニングセンターはボランティアの日本人の先生が3〜4人で1バッチ(学期)に20人から30人の日系人を教えています。先生は日本語教育の資格を持つ若い20〜30代の方は1年間の予定で行き、資格のない私のようなシニアは3,4ヶ月間の予定で行きます。 今年の初めころ校長先生から「フィリピンで日本語を教えてくませんか」と声が掛かり、私もフィリピンに興味があり、今後の海外ロングステイ先を考える参考になる情報が得られれば、また60代前半の今の体力に自信があるうちになら経験するのも悪くはないと考え、行く先の状況もあまり聞かないで気軽に引き受けてしまいました。
 地域のボランティア活動をしている仲間には1ヶ月程前から「3ヶ月間海外ボランティアで留守をする」との了承を取るためにアナウンスしながら準備しました。
他に準備したものは3ケ月間の衣類、日用品、日本語の参考書、航空券の予約。フィリピンの互助財団との連絡はメールで行いました。

 3 トレーニングセンター  

 成田発のフィリピン航空で4時間かかりマニラに到着。空港には財団の担当者と運転手の出迎えがあり、財団の事務所に寄り挨拶をしてすぐに、トレーニングセンターへ車で向かいました。距離はマニラの北方180kmのパンガシナン州、サンクレメントの町です。フィリピンには鉄道がなく全て自動車しか交通手段がありません。渋滞のためトレーニングセンターへは約5時間かかり、着いたのは夜の10時ころでした。サンクレメントは国道に面しバス停もあります。トレーニングセンターはここから6kmほどジャングルに入ったカバルーヤンという村でした。ですから着いたトレーニングセンターは漆黒の闇の中にあり、本当に驚きました。日用品等の買物は6km先のサンクレメントへ歩いて1時間またはトライシクルという3輪車を携帯電話で依頼して来てもらうしかありません。この6kmは未舗装のガタガタのジャリ道です。
トレーニングセンターは100m×100mの大きな敷地の中にある2つの教室棟、食堂、研修生棟、先生棟とグランドから成っています。研修生は全員寮に入り生活します。

 4 日系人

 フィリピンには現在およそ8万人を越える日系人社会が存在します。この日系人のルーツをたどると、19世紀末の移住にさかのぼることができます。この日本人移民は勤勉で骨身を惜しまず働いて祖国に残してきた家族のために、また日本建国のために多大な外貨を送金していました。第2次世界大戦前には成功を収めた日本人移民が約3万人からの邦人社会を形成するまでになっていました。大戦が始まると、フィリピンを制圧した日本軍はこれら日本人を軍人、軍属として徴用し、婦女子をも使役しました。戦争末期には激戦地となり多くの犠牲者を出しています。そして生き延びたとしても、財産を敵国の物として全て没収されました。そのうえ、日本人の子孫とわかれば命にもおよぶ迫害を受けるので、ひっそりと山の片隅での暮らしを強いられていたそうです。
 戦後52年の長い空白の後、日本政府はフィリピンに残された約2500人の残留日本人を認めました。
そして1998年には「フィリピン日系人互助財団」が日系2世のカルロス・テラオカ氏の尽力により設立され、現地で日本語の教育を受け、定住ビザを取得して日本での就業ができることになりました。

  5 授業

 トレーニングセンターでの日本語教育は6週間のコースで、日本語(ひらかな、カタカナ)、あいさつ、自分の名前、日常生活の中での漢字、日本の生活習慣や文化を教えます。月曜から金曜日は8時半から4時半まで、土曜日は午前中に復習のテストがあります。授業は午前2時限、午後2時限あり1時限が70分です。これを3,4人の先生で分担します。私も毎日午前と午後に1時限ずつ受け持ちました。説明は全て英語で行い、発音はローマ字で表記します。
 
授業中の様子

毎日研修生には説明と練習用ペーパーを1時限当たり6、7枚準備します。ですから1日12〜14枚の資料作りが必要です。内容は文字ばかりでは理解が難しいので、必ず「文字」と対応する「絵かイラスト」を書いたり参考書から写して用意します。まずパソコンで原稿を作り、それを20〜30人分コピーします。このコピーの複写機がよく故障します。なにしろ部屋の温度が35度〜40度。複写機はすぐジャムったり停止します。また旧式で連続コピーができず、手挿しの機器でした。修理を依頼しても保守員が来るのは3〜4日後、機器をだましだまし使うしかありません。

  6 トレーニングセンターの生活

 私の生活はといえばさんざん。センターの周囲はジャングル。隣家まで2kmあります。建物は竹を薄く切って編んだ板の壁で、屋根はトタン、窓はガラスのブラインド式です。部屋にはカ、ハエ、ヤモリ、アリ、クモが入ってきます。カがひどいのでいつも手、足に虫刺されの薬を塗っていました。夜はベッドの上に「蚊帳」を吊って寝ましたが、8月末帰宅した時は刺された痕がまだびっしり残っていて家族に同情もされましたが、気味悪がられました。
 センター内は水タンクを有し、水道設備がありシャワーを使うことができました。しかしこの水は飲めません。飲み水は購入するビン詰めのミネラル水です。料理の煮炊きは薪を燃やすかまどです。洗濯は研修生は手で。先生方は先生棟には電気洗濯機が1台ありメイドさんが洗濯してくれました。
卒業式

 気温は昼は35度から40度あり、教室は扇風機を回しています。夕方にはスコールがあり夜は2〜3度下がり少し涼しくなります。これらを見ると50年くらい昔の日本の状態ではないでしょうか。
食事は3食、メイドさんが料理してくれますが、パラパラの長い米と「塩」のみで味付けした野菜と魚や豚肉には閉口しました。他に食べる物がないので無理やり胃袋に押し込みました。ですが楽しいのは食後のフルーツです。熱帯果物のマンゴー、パパイヤ、パイナップル、バナナ、マンゴースチン、ランプータンのどれかを毎食後食べることが出来ました。
 土曜日の午後から日曜日はお休みです。研修生はバスケットボールやサツカー、バレーボールをして楽しんでいました。私は土曜日の午後は歩いて30分くらいの村へ研修生と出かけ、村に1軒ある雑貨屋の前の マンゴーの木の下に椅子とテーブルを広げビールを飲みながらおしゃべりを楽しみました。教室では教えない日本の生活習慣や現代事情その他の雑学を毎回2−3時間程、10人くらいに“講義”しました。こうして親しくなったためもあるのでしょうか、6月に教えた研修生はすでに日本に到着して愛知県で働き始め時々電話を掛けてきます。これがせめてもの成果でしょうか、彼らと再会するのが楽しみです。