いたか誕生

プロフィール
いたか誕生
プロフィール

 丹沢山系に端を発した多摩丘陵が、動物の背中のようななだらかなカーブを描き、いく筋も、ときに連続し、ときに途切れながら、関東平野に沈みこむあたりが川崎市北部地区である。
  飛行機から見るとそれは一様でなく、ゴルフ場あり、パッチワーク模様の新興住宅地あり、わずかに残った谷戸には武蔵野の森と農村風景もある、そしてひときわ、銀色の光彩を放ちながら、丘陵を縫うように曲線を描く多摩川が、東京との境を作っている。

初日と多摩川の光の競演。上は小田急線右手川崎左手東京 
Photo 丸山幸一

多摩川
 都心まで1時間、京浜工業地帯まで30分、横浜まで1時間と書けば不動産広告風ではあるが、事実、そのような利便性を理由に、全国各地から住まいを求めてこの地に移り住む人が、いまだに多い。
  住民の多くはサラリーマンとその家族で、都心の会社に通ったり、デパートで買い物をする、いわゆる川崎都民である。
  高度経済成長期に一兵卒として会社を支え、あるいは子育てに奮闘し、そしてまた、失われた10年に立ちすくむ人たちでもある。
 26年前、この地に、このような人たちが集まって「いたか」が誕生したのです。
  
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いたか誕生

 おやじの会「いたか」が発足したのは、昭和58年3月のことでした。
川崎市の高津市民館と菅生こども文化センターが共同で企画・実施した「父親学級」に参加させられた男たちが、10回のプログラム終了後、「せっかく知り合いになれたのに、このまま解散してしまうのは惜しい。これからは自主的に集まろう」と一人立ちしたのです。

  
参加させられた、と書いたのには訳があります。男たちのほとんどは「俺はちゃんと仕事をしているではないか、これ以上何をさせようというのだ!」と参加を拒んだのですが、「女房にしつこく言われ」しぶしぶ出かけたのです。
 当時、菅生こども文化センターの職員として父親学級の開設に力を尽くされた針山直幸さんは、そのいきさつを次のように語っています。「お母さんたちの勉強会では、いつもある問題にぶちあたる。<女性の生き方><子育ての方法>どちらの学習からでも、障害となるのは共同生活者である我が亭主でした」。
  この亭主どもを何とかしなければと、説得に勤め、時にはアルコールの匂いもかがせ、やって来たのは男14〜15人。


  こうして、無理やり引っ張り出された男たちでしたが回を重ねるにつれ少しずつ変化し、4ヶ月後の終了時には「なんとかこのまま続けよう」ということになったのです。このころになると、お互いに打ち解けて、ザックバランな話が交わされるようになっていました。
  「親父の存在なんて頼りないもんだね。普段は仕事、仕事で、ほとんど家にいないから、たまに子供と顔を合わせると、
”おっ、いたか” ですからね(笑い)」会員の十文字さんの発言に一同爆笑したのですが、いまになってみると、それぞれが身に覚えのある共感の笑いであったように思います。

 「いたか」という名前はこうして出来たのですが、以後、時間がたつにつれて、これはただ事ではない名称だと感じ始めました。親父たちが地域や家庭に「いたか、いなかったか」と、文字どおり存在を問われ続けることになるからです。
  最初のころ、しぶしぶ出かけたのが、そのうち、いそいそ出かけるようになるのにさほどの時間がかりませんでした。
 
  

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