「人はうわべを見るが、主は心を見る」
とき 2002年5月26日
テキスト 1サムエル16章1節〜7節
ある時、私は、『神さまは自分の事をどの様にご覧になっておられるだろうか?』と考えていました。学校で生徒を叱ったりしつつも、社会的には立場を持っていましたが、心の中に住み着いた罪に、いつも敗北していたのです。人は表面的に私を見て、それなりの評価をしてくれました。でも心の内は、常に惨めでやましかったのです。その頃、羊が檻の中に導き入れられるように、主にひかれて教会に行き始めました。ついに、イエスさまが自分の罪の身代わりに死んで下さったことが、電撃的に分つたのです。その時、神さまは、《贖い罪の光(十字架の光)》で、私を見ていて下さることが分って、赦しを確信したのです。イエスさまを信じて救われた者を、十字架の口罪の光に当てて見て下さると言うのは、実に私には啓示でした。
さて今朝のテキストから《神が人を選ばれる方法・ポイント》についてみたいと願っております。神さまは、今の時代はもとより、次の時代のことも将来のことも思いの中にあって、計画し予定されるのです。サウルが王に相応しくないとして退けたのですが、実質的には、まだ彼は、油注きなく王の立場にありました。そんな中で、主はサムエルに、「あなたをベツレヘムのエッサイのところに遣わす」と言われました。それは意外な言葉でした。今ではイエスさまが誕生した村であり、誕生教会のある村として注目されていますが、名のない村でした。エッサイも無名の人でした。よもや歴史を大きく動かす人の父になるとは思いも寄りませんでした。一方サムエルも、サウルに代わる王に思いすごを巡らせていたに違いありません。彼の凄さは、自分の子を王に推薦してしいないことです。神の選ばれた民と国を導さ得る器を願っていました。「ベツレヘムに行った」サムエルは、そのエッサイの子の中から王を選びます。それが「ダビデ」です。今朝のテキストに、「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。神さまは、人を覆っているぺ一ルを、そっと上げられます。物や人や心を見るためにです。本質に触れたいからです。人はベツレヘムやダビデでないものを求めます。どうも神さまは、ベツレヘムにダビデを隠しておられたこと。になります。ここは傷心のナオミが嫁のルツと共に帰って来、そのルツがボアズと共に家庭を築いた村でした。外国人のルツが、夫と共に団欒のある家庭を構築した村でした。家族が助け合い赦し合い助け含っている家庭で育った子は、神に有用な人として送り出すことができます。これから、そう言った家庭から、私たちの国の次の時代の霊的なリーダーがで出ることでしょう。ダビデは、その村て静かに成長していたのです。彼の父親がエッサイで、異教徒モアブの女を母として生まれ育つた人でありました。
さらに彼の家系には、エリコの遊女ラハブ(ヨシュア6章25節)がいました。また、はるか昔に遊女を装って舅のユダに近付き、彼の子を宿して産んだ嫁のタマルがいまし(創世記38章6〜30節)。人は一体、こう言った家系を選ぶでしょうか。自分の先祖にシミやシワや傷や汚点が分かったら、除外するでしょう。日本のキリスト教世界で脚光を浴びている「ミッション・バラバ」と言う伝道団体があります。かつてヤクザであった彼らが、悔い改めて、主イエスさまを信じて、その証詞をするために編成されたチームです。私は、彼らの子や孫たらが救われて、イエスさまのために仕えて、主の栄光を表わすと信じているのです。
さてダビデは、7人の兄たちを持つ、エッサイの「八番目の子」でした。珍しくも、有り難くもない子でした。サムエルがエッサイの家にやって来た時、彼はエッサインの長男のエリアブを見た時、「確かに、主の前で油を注がれる者だ(6節)」と思ったのです。エリアブは背が高く、立派な外見を持った青年でした。かつてサムエルが、サウルを見た時と同じような感じを、このエリアプに覚えたのででしょう。それは彼が《学習した事》でした。『イスラエルの王となる人物は、美しくて背の高い青年であるべきだ!』との学習です。サムエルほどの人でも外見に魅了されるのですから、何おか言わんやです。
ところが主は、「彼の容貌や、背の高を見てはならない(7節)」と言うのです。これこそが《神の人選の大原則》なのです。昨日、CSの遠足の時、明美さんから、『かえで養護学校ができるとき、地域の方から反対があったんです!』、アメリカやドイツやスウェーデンでは全く考えられないことです。人を外側からしか見れない人間観の限界です。ところが聖書は終始一貫して弱者に特別な配慮をします。あのスパルタも蒙古もナチスも大目本帝国も滅んだのです。弱者をあなどったからでした。二十一世紀に生きる私たちにも、『人を外側で見て判断してはいけない!』と、主は言っています。長兄のエリアプから、次々とエッサイの子がサムエルの前に立ちます。みんな『違う1』のでした。それで八番目の子ダビデが登場します。「まだ末の子が残っています(11節)」、まだ兄たちの様に成長仕切っていない子でした。もちろん彼は、「血色がよく、目が美しく、姿も立派だった(12節)」のですが、エリアブやサウルの比では無かったのです。でも健康でしたが、だれの目にも意外でした。兄たちの背後に隠れて《残っていたダビデ》を、神が選ばれたのです。ここに、《人の内にある可能性を見られる神》がおいでです。
さてエッサイは、「あれは今、羊の番をしています」とダビデの居場所をサムエルに言っています。それは《労働》の現鋤です。父の羊を忠実に世話していたわけです。神は、労働現場の牧場に、彼を隠していたのです。
さて16節の「人はうわべを見るが、主は心を見る」は、『人は自分の目によって物を見る。主はご自分の心によって物を見る』と訳せるようです。ダビデは、羊の世話をしつつ、その習性を見て、人間を知り、自分を理解したのです。それは《罪から来る弱さ》なのです。それこそが、ダビデの心です。主が見る、人の心は、悪意や罪や汚点だらけです。万人共通です。ところが、「主はご自分の心で見る」お方なのです。一体、主なる神さまは、どの様な心で、人をご覧になられるのでしようか。詩篇78篇38〜39節をお読みしましよう。「しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、減ぼさず、いくども怒りを押さえ、憤りのすぺてをかき立てられはしなかった。神は、彼らが肉にすぎず、吹さ去れば、帰って来ない風であることを心に留めてくださった。」とあります。主は「あわれみ」によって、私たちを見て下さるのです。としますと主は、《贖罪の光(十字架の光)》で、私を見ていて下さることになります。このダビデが、主のみ心に叶っている人だとするなら、自分の罪を認め、人も自分と同じく罪深い者であることを認め、人に寛容であった点です。彼は一生涯、罪と戦った人でした。ヘブル人への手砥2章17〜18節、4章15〜16節を読んで、イエスさまが、どの様なお方であったかを知りましょう。感謝。