主のなさる事業の基盤は家庭・家族です!



2000年6月4日
創世記24章


創世記24章67節とヨハネの福音書2章1〜14節をお読みし、「主のなさる事業の基盤は家庭・家族です」と言う主題で、今朝はお話をしたい、と願っております。もし私が新しく事業を起こすとしますと、まずく市場調査〉をするに違いありません。今、人が一番求めて必要としているものガ何かを知りたいのです。ついで、との年令層にターゲットをおくかを決めます。わが国でもアメリカても、第1はベビー・フーマーの世代(終戦後の翌年以降に生まれた世代)、第2は若者、第3は老人です。とくに最近では、老年厄の事業は「何兆円市場」だと言われています。ある世代が、との様な意識や感性を持ち、彼らの願いや好みを見つけ出します。そうしましたら、どんなスタイルや色彩や機能かを決めることでしよう。ここまでくれば、十中八九は決まったようなものです。その上で、人材を確保します。優秀なスタッフを雇い入れます。私と心を1つにし共に立ってくれる人物を一人でも得られたなら、その事業の成功度は高いことでしよう。そしてお金(資本)と土地を見つけます。さてイエスさまは、公生涯の開始に当たって、ガリラヤのカナと言う村を選ばれました。そこは、こ自分が育ったナザレに近かったようです。そして「結婚式」、「披露宴」でした。その席に、「イエスの母がいた(1節)」、そして、「イエスも・・その婚礼に招かれ(2節)」ていたとありますから、マリヤの親族の結婚式であったようです。この時のイエスさまの年令が三十才ほとでした。主のいとこに当たる人の式であったと思われます。この結婚式は、ごく庶民的で、カナの村やパレスチナの地での普通の結婚式でした。日本に見られる、家と家との結び付きが第一になって、当人同士が第二にされているのとは違って、若い二人の生活の初めに当たって、単純に二人を祝福するのが式の目的だったのです。まさに庶民の屈託のない喜びのときであったわけです。ところが、その祝宴のおりに、1つの問題が起こってしまったのです。ブドウ酒がなくなってしまったのです(3節)。それが、マリやの口によって明らかにされます。祝宴にブドウ酒が欠けてしまうのは、花婿の恥だったわけです。それは甥(そうだろうと思いますが)の恥を覆うように、取り繕うようなマリやの配慮の言葉でした。するとイエスさまは、「女の方(4節)」と母マリヤに呼び掛け、そして、「・・なんの関係があるのでしょう」と主は言われました。このイエスさまとマリヤのやり取りに、今朝は触れないで、ブドウ酒が無くなったと言った困難な事態に注目しましょう。この事態を収拾したのは、イエスさまでした。水をブドウ酒に変えてしまわれたのです。そして、この奇跡(しるし)が、これから始まる3年半ほどのイエスさまの伝道・宣教の時期の最初のものであったのです。イエスさまは、〈小さな村〉を伝道開始の舞台とされたのですご自分の死が何時かもこ存知で、活動の期間の短いことも知っておられました。私でしたら、効率や効果的なことをまず考えます。それなのに主は、田舎の貧しく、名もないまま生まれ死んで行くであろう庶民の生活の場を選ばれたわけです。奇跡に自信がなかったので、片田舎で影暮力の少ないところでテスト的にしたのではないのです。ただ<貧しい者たちの友〉としてご自分を頭わされたかったのです。効率を考えたら、当時最大の町ローマが一番でした。でも主は、パレスチナ、しかもカナという寒村を選ばれたのです。世界で、社会で、〈忘れられた町〉や〈忘れられた人々〉こそ、主イエスさまの<最大関心事〉だったことになります。としますと、ご自分の働きの成功は二の次だったわけです。貧しい彼らに希望を与え、生きる意識を高めることが、イエスさまの願うところでした。ですからイエスさまの当然の選びは、カナの貧しさ庶民であったわけです。そして主は、「婚礼の席」を選ばれました。イエスさまは、こ目分の使命の達成のゆえに、結婚をなさいませんでした。そのような主が、ご自分の事業の開始に当たって、「結婚式」と「祝宴」の場を選ばれたということは、私だらの社会や人の一生の上てで結婚がどれ程重要な部分を占めているかと言うことを強調されていることになります。伊藤 整と言う人だったでしょうか、彼は、「結婚は人生の墓場」と大胆に言いました。彼の結婚観や結婚自体がいかに意味のないものであったかが分かります。主イエスさまは、結婚に最大価値を置かれているのです。なせかと言いますと、〈ブドウ酒の欠乏〉と言うのは、カナの披蕾宴だけのことではなく、私たちの社会に起こっている日常の出来事なのです。それは〈喜びの欠乏〉のことを意味しています。ある方と私は話をしていました。その人の高校時代の級友が、同級生と熱烈な恋愛のすえに結婚しました。だれの目にも似合いのカップルだったのですが、30才過ぎて、もうすでに離婚してしまったそうです。「結婚の基礎は、必ずしも大恋愛てばないのですね!」としみじみ言っていました。人にわがままがあり、放せない心があり、容易に傷つき、移り気が心にあるなら、容易に人と人との関係は壊れるのです。ところが喜びの象徴である<ブドウ酒〉がなくなったとき、喜びを、主が回復して下さったのです。主イエスさまが〈喜びの原因者〉だからです。その手で祝宴に集った人々に、ブドウ酒を提供されたのです。キリスト教は「禁欲主義」だと思っておられる方が多いのですが、事実は違います。神さまがお造りなさった物は、私たらが喜び楽しむために備えて下さったのです。ですから食べ物も飲み物も自然も、そして〈性〉だってそうなのです。人は不潔なものとしましたが、男女のそれぞれの必要のために、神さまが備えて下さった〈祝福〉なのです。聖書やキリスト教だけが、この<性〉や〈結婚〉について大胆に、しかも正しくコメントできるのです。大切なのは、〈用い方〉なのです。さてイエスさまの事業の最善の舞台は、〈結婚式〉とその〈祝宴〉でした。そこから家族や家庭が生じて来るからです。アブラハムに約東された〈祝福>は、その最愛の子イサクに引き継がれていくのですが、その〈神の大事業〉の舞台となるのも、イサクとリベカの結婚であり家族であり家庭であります。私たちは、日本のリバイバルのために祈って来ています。私の確信は、その舞台となるのは〈家庭〉だと信じます。家庭の中で、家族が救われてくるのです。そして、その波は親族や親戚に及び、部落中が、村中が、町中が救いに導かれるのです。そんな素晴らしい、〈舞台〉とされる家庭なのですから、地上に祝福が満ちることを願わない者は、その家庭を攻撃の目標とするのです。でも、神さまは、1つ1つの家庭と家族を通して、素晴らしいみ業をなされるのに違いありません。主に感謝しましょう。