イエス様は、ヤコブ以上のお方なのです!
年月日 2001年3月18日
テキスト ヨハネの福音書4章3〜14節
新約聖書の「ヘブル人への手紙」の中に、神を信じて生きた信仰者のリスト(11章)があります。「信仰によって○○は○○をし・・」と言う書き出しです。そこには旧約聖書に登場する16人ほどの信仰者が取り上げられています。このリストの中に、私たちが焦点をあてているヤコプの名前が3度ほと出ているのです。第1回はアブラハムの孫として、第2回はイサクの子として、そして第3回はヨセフの父・ヨセフの子たちの祖父としてです。彼は祖父・父・子・孫と関わりながら、一人の評価される信仰者として生きた事になります。
これまで聖書の中に見てきましたように、このヤコブは人間的には欠陥があり、自らもそれを認めて苦しんだ人でした。そう言った実態をよく知っていた彼は、『こんな俺が生きていくためには、神さま、あなたの祝福がどうしても欲しいのです!』と願った人でもあったのです。それは、『こんな俺だって生きていていいんだ!』とも言えます。としますと欠陥人聞で人に嫌われていても、神さまから祝福があるなら、その人は生きていくことがでさるわけですね。「信仰」とは、人間的に立派で、家族からも社会からも尊敬され評価されている人のものだけではなく、自分の弱さを知って認めた人、しかも自分を否定しないで、<私を変えて下さる神>に任せて生きる人のものなのです。神さまの祝福は「あわれみ」なのであって、人の努力や業績とは違うわけです。
ある時、主イエスさまは、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです(ルカ5章31〜32節)」と言われました。自分が病人で、その病状を知っていて『回復したい!』と願う者は、医者を必要とするわけです。やコブは、自分を回復して下さるお方に向かって、祈り礼拝したのです。このお方から、生きていく意欲や力や機会を頂いて生きました。とくに彼は、兄エサウに対して、心からの謝罪を心と物と態度とであらわしました。
その後、彼の家族に「3つの不祥事」、「三人の死」がありました。でも彼は家族を、神のみ前に連れて行き、この神が喜ばれる生き方を始めるために「身辺整理」をさせます。そして祭壇を築いて神を礼拝したわけです。ヤコブの生さ方を、聖書は「信仰によって」と一言で言い表しています。そんな彼は、子孫から一人の偉大な族長として敬慕されます。
そこで今朝は、絶対的な信頼を彼に寄せた一人の女性を、ヨハネの福音書から見たいと願っています。4章3〜14節です。サマリヤ人の無名の女性が、その人です。彼女は、スカルの井戸に水を汲に来ようとしています。それは「・・6時ごろ(お昼頃)であった」とあります。これは何かを暗に示しています。イエスさまが、そこに来られたのです。この主は、「・・サマリやを通っていかなけれぱならなかった(4節)」のです。ユダやとサマリヤとの間に対立と反目とがあったのに、ここを通過する「必要性」を、主は感じられました。民族的な反目を越えての特異な行動でした。それでスカルの井戸のかたわらに旅の疲れで腰を下ろされたのです。そこに彼女が、水を汲むために来たわけです。
イエスさまは、「わたしに水を飲ませてください」と頼まれました。ユダヤ人がサマリヤ人に、男が女に、ラビ(ユダやの教師)が女に頼むとは、信じられないことです。それで彼女は「・・と:うして」と言います。そこで主は、10節で次の様なことを言っています。『わたしは、あなたに水を求めたが、神が与えて下さるギフトがあることと、わたしがだれであるかを知っていたら、あなたがわたしに求めたはずです。わたしは<水>ではなく<生ける水>を与えることができるのです!』と。そう言われる主は、見栄えのある容貌をしていませんでしたし、'旅で疲労され休んでおられ、決して偉そうには見えませんでした。
それで、「あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか」と言います(11節)。それはイエスさまへの評価が実に低かったことになります。もしイエスさまが、立派な身なりをし、名のあるラビのように威風堂々と振る舞い、弟子たちを使いになんか出さないで仕えさせていたら、彼女の応対の仕方は違っていたここでしよう。『あなたの夢や幻や理想は素晴らしいものです。でもあなたには実績や勲章や功績がおありでしようか。水でさえお一人で飲むことができすに、人頼みをしておいでです。<生ける水>なんて言われる高遭(こうまい)な理想など、絵に描いた餅です!』と思っていたことでしょう。『「心の貧しいものは幸いです」なんて言われますが、現実は「渡る世間は鬼にばかり!」なのです。甘いことを言ってたら騙されちゃいますよ!』と、人々は言います。この井戸は33m程あったようです。
そして彼女は、「あなたはヤコブよりも偉いのでしようか」と、イエスさまと比べます。彼女と彼女の民族のアイデンティティの基礎はヤコブにありました。『ヤコブの偉大さの証拠の1つは、この井戸を私たちに与えてくれたのです!ところがあなたはどなたですか?』と聞いたのでしよう。ところが、その様にヤコブを誇る彼女の実情は惨めでした。通常、朝早くか夕方に女たちは水汲みに来るのに彼女は、その時に女たちを避けて昼頃に来ていました。やましく恥じることが生活にあったのです。ヤコブは彼女の内面には触れるここができなかったわけです。一方、イエスさまは、彼女の内面に触れようとしています。彼女に必要だったのは「決して渇くことのない永遠のいのちの水」に預かる事でした。そこで、主はヤコブの井戸の水は、「また渇きます」と断言し、『永遠のいのちに水を与えることができます!』と明言しました。そうしましたら彼女は、「その水を私にください、」と願ったのです。パスカルは、『人には空洞があり、それは神以外では埋めることができない空洞である』と言いました。それで彼女の人を避けて惨めな原因を言い当てます。16節以降にある、6人の男性との遍歴です。彼女は、人生の重大な問題を、イエスさまの前に持ち出し、真剣に語り合います。自分の今と一過去の罪の生活をごまかしたり隠しませんでした。彼女の歴史は、『私は好い男に巡り合うなら幸せになれる。結婚から幸せが来る!』と言うことを示してしいます。6回繰り返したのですが駄目だったようです。女性の受け身の生き方が、そこに表れています。
自分の事を言い当てられた彼女は、町に飛んで行き、人々に語りました(28〜29節)。その彼女の言葉に、町の人々は応答したのです。多くのサマリや人が、イエスさまを信じたので1す(39〜4節)。
これは神の祝福を頂いたヤコブの祝福が、その子孫たちに受け継がれて、主から祝福を受けたのです。イエスさまは、ヤコブ以上のお方なのです。それを知った一人の女の証言が、サマリヤにリバイバルをもたらしたことになります。