とき 2002年6月16日
テキスト 1サムエル17章4〜16節


「この戦いは主の戦いだ」
 四十日も、このペリシテ人のゴリアテは、朝にタに出て来ては、同じ言葉をくり返して、イスラエルの陣営を威嚇(いかく)していました。この様子を思い描きますと、「あなたがたの敵である悪魔が、・ほえたけるししのように・・歩き回っています(1ペテロ5章8節)」とのみことぱを思い出します。彼は自分がどんなに強く力ある戦士であるかを誇示(こじ)し示威(しい)する心理作戦に出ています。そのために3mもの身長があり、60キロもの鎧(よろい)を身に付けるほどの大男であるのに、鎧や兜(かぶと)や剣を身に付けていました。人は、外側の大声や服装や持ち物によって、自分の強さや存在や価値をアピールするのです。それは裏返しますと、内面的な弱さをカバーしようとする、心の動きを持っていたことになります。その声を聞いたイスラエルは、「意気消沈し、非常に恐れた(11節)」のです。混乱し狼狽(ろうばい)し落胆し心配したのです。イスラエルはペリシテの前に風前の灯のようでした。
 そこに一人の少年が遣わされます。父エッサイが、戦場の前線にいる上の息子たち3人のために食料を、ダビデに持たせ、安否を問うために遣わしたのです。ピザのデリバリーボーイの様にして、ダビデは戦場に行きます。それは戦士としてではなかったことが強調されているのです。ゴリアテが脅(おど)し涜けて41日目でしょうか、ダビデは、それを初めて見聞きします。兵士たちは、『ゴリアテを倒すなら、サウル王の娘を妻に頂ける!』とダビデに語ります。でもだれ一人、その妻のためにゴリアテと戦う勇気ある兵士はいませんでした。ところがダビデは、彼の声を聞いてもおびえないで、「・・割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは(26節)」と言いました。ゴリアテは人の目には大男の戦士でした。それは五感で感じ取った印象です。ところがダビデは、イスラエルの神と民をなぶるゴリアテの内面を見抜いていました。『この男は割礼を受けていない汚れた民で、神の祝福のない者で、道徳的にも霊的にも欠けある者だ!』とです。ダビデは、人の外側のことで印象づけられないのです。服装も持ち物も学歴も腕力も関心の的ではないのです。大声など、強そうに振る舞う背後に、人の弱さが隠されていることも知っていたのです。あの牧場で、熊や獅子がうなり叫ぶのは、強さを誇示するのではなく、恐れからそうしていることを、ダビデは知っていました。その様にこの男の心理を読み取っていました。神と神の民をなぶる(反抗・侮辱《ぶじょく》)者には、祝福のないことも知っていました。《聖なる債(いきどおり)り》、これが神を信じる少年ダビデの心にあったものです。
 そんなダビデに兄たち、とくに長兄のエリアブは怒って、『お前は怠け者でうぬぼれて悪い心の者だ!』となじりました。「兄弟は苦しみを分け合う(箴言17章17節)」様にと、祝福されているのに、兄たちは《妬み》に駆られて、そう出来なかったのです。そんな兄の振る舞いに、ダビデは全く影響されませんでした。自分は正しい心と態度で生きている確信を、少しも揺るがすことがなかったのです。彼はサウルに、「あの男のためにだれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう(32節)」と言いました。『彼の策略にのるな!』と言っています。ところがダビデの決心を信じられないサウルは、「ダビデよ、あなたはまだ若い(33節)」、『無理だ、出来っこない!』と33節で言っています。この「若い」とは、少年であり赤ちゃん(babe)との意味です。王は、ダビデが聖霊に満たされていて、内なる聖霊が勇気と信仰と力とを湧き上がらせていることを見抜けなかったのです。一方、『あなたが戦うと言っているゴリアテは、若い時からの戦士なんだぞ!」』と言っています。子供の頃から訓練された歴戦の戦士なのです。外観を見て、戦う前から結果が決まっていると、サウルは判断したわけです。あの若者が。「主がこの人ともにおられます(16章18節)」と言つたように、ダビデに主が共におられるのに、サウルには分からなかったのです。かく言うダビデには、神との祝福された経験があったのです。それを王に語りました(34〜37節)。熊や獅子の爪や牙から羊と自分を「救い出して下さつた神」との体験をです。
 このダビデが、ゴリアテに関して拘(こだわ)っていることがあります。「割礼(かつれい)を受けていない事」についてです。としますと、イスラエル人とこの男との違いは、「割礼」を受けたかどうかが問題とされています。自分たちは、『区別されている!』との自負心を、ダビデは覚えているのです。特愛の民であり契約の下にあると言う確固たる自信でした。この戦おうとしている心意気は、愛国心による国対国、民族対民族の戦ではなく、義と不義、善と悪、光と闇、いのちと死の戦いでした。霊的で信仰的で道徳的なものであったのです。ですから、神と神に従って生きる自分たちへの侮辱とさげすみと嫌がらせに対抗しているのです。私たち教会もこの理解が必要です。背後にあるサタンと悪霊を見抜かなけれぱなりません。ゴリアテよりも大男がいなければ勝てない戦いではなく、ベイビーのダビデを、サウルはゴリアテに向けて立たせたのです。何もしないよりましだからです。サウルは自分の鎧と兜と剣をダビデに貸しますが、「慣れていな(39節)」かったので脱いでしまいます、身軽になつた彼は、慣れている杖と石投げと布袋を手にし、川で5つの滑らかな石を拾い、それを持ってゴリアテに向かいました。それは戦士ではなく羊飼いの装束(しょうぞく)でした。『そんな格好で何になるのか!』と人は思います。ダビデは、1つの石を石投げに付けて、ゴリアテに向けて放ちます。すると額に命中して彼は倒れます。彼の剣で首をはねて、ダビデは勝ってしまったのです。
 どうしてダビデは大男に勝ことができたのでしようか。1つは、「万軍の主のみ名」によって立ち向かったからです。ゴリアテは、この「み名」の前に倒れました。彼が侮辱し続けてきた「み名」の前に倒されてしまったわけです。
 ですから教会は、「イエスのみ名」により、「ナザレのイエスのみ名」によって、敵の前に立って告白するのです。人を殺す剣によったのではありませんでした。2つは、「この戦いは主の戦いだ(47節))」と言うことを知っていたからでした。血肉に対する戦いではないのです。人の能力や武器や戦術によらないのです。そこに立って戦ったのは紅顔の少年、ベイブ・ダビデでした。『何でボクが勝つたんだろうか?』なんて言いませんでした。『必ず勝つ!』と信じて勝つた。《勝利者》でした。この勝利に、イスラエルに神がいることを、すべての人が知り認めたのです。
 十字架は、犯罪者の処刑台でした。ところが、この十字架で、主は勝利されたのです。教会に十字架があります。それは目印ではなく、《勝利の旗印》であるのです。イエスさまが義・正しさのために、不義と邪悪に対して立ち上がって勝利されたわけです。神と人の前に、《正しく生きる事》こそが、私たちの務めです。その様に生きたいものです。感謝します。