とき    2002年6月2日         
テキスト 1サムエル16章11〜14・23節
              

それでも彼は、舞い上がることはなかった
1つの破れたボールが子供たちの間で蹴られ回されていました。町外れの空地でのことです・そこにトルシエ監督がやって来て、一人のやんちゃな子に声を掛けました。『君を全日本のMFにしよう!』と言つたのです。この言葉を聞いた彼は、どう感じたでしょうか。体はまだ成長しきっていません。今は代表チームの一員にはなれません。近い将来の約束をもらい、全日本監督から祝福されたのです。そうしたら彼は何をするでしょうか。今まで以上にサッカーを愛して、『ボクは全日本のMFになるのだ!』と信じて、地道に練習し、監督の期待と祝福に応えようとするだろうと思います。
 少年ダビデは、父の羊の世話をしていた牧場から、父の家に呼び戻されて、預言者で最後のさばき司サムエルから、王となる油注ぎを受けました。あの空き地の少年と同じ様に、唐突にそう言われて、そうされたのです。何だかよく分がらない内に王となる油注きがなされたのです。しかし、この事は人の間で願われ計画された事ではなく、イスラエルの神、主から出た事だということが、ダビデには分っていました。ベツレヘムの村の長老たちも、父エッサイも、8人の兄たも、そこにいて・高名なサムエルが死の危険を侵してやって来ていました。主が、「さあ、この者に油をそそげ。この者が王だ」と言われたのです。この王となるダビデの末から、この同じ村で千年後、一人の男の子が産声をあげます。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた、救い主イエスさまです。このダビデは、イエスさまのタイプ(雛形)でした・イエスさまも「ダビデの子」と呼ばれることを快(こころよ)しとされたのです。
 でもダビデは、「羊のおりから彼を召し(詩編78篇70節)」とある様に、自分の出所がとこかを決して忘れないで、彼の71年の生涯を終えます。それが彼を遜(へりくだ)らせた事でありました。《牧童であったとの過去》は、彼を高慢から守ったのです。サムエルによる油注さは、単なる儀式ではありませんでした。それが成された時、「主の霊が、その日以来、ダビデの上に激しく下った(13節)」のです。キリスト教会が、エルサレムに記生した日、その教会の最初のメンバーとなる120名ほどの兄弟たちと他に姉妹たちの上に「約束の聖霊(ルカ24章49節、使徒1章8節)」が下って、「他国のことばで話し出した(使徒2章4節)」のです。力を着せられ、その力で、イエスさまを宣べ伝え証詞する証人となつて、教会が地上に進展して行くのです。この教会が聖霊に満たされた理由の1つは、「みことばへの愛と従順」、もう1つは、「教会への愛と忠誠」です。
 ダビデは、この聖霊に激しく満たされたわけです。それが《王となる印》であったのです。彼が聖霊に満たされると同時に、「主の霊がサウルから離れ」たのです。一度、聖霊に満たされた者から、聖霊が去ってしまったわけです。それは、主が『しなさい!』と.言われた事をしないで、『してはいけません!』と。言う事をし続けた、不従順の結果です。それはダビデが聖霊に満たされるのを待っていたかの様でした。励まし、力付け、助け、弁護して下さる聖霊さま、が去ってしまわれたら、その人はどうしたら良いのでしようか。聖書は、「主からの悪い霊が彼をおびえさせた(14節)」と記しますから、悪霊がサウルに攻撃を開始したことになります。怯(おび)え、脅(おど)され、恐れ、悩まされているのです。
 しかし「主から」とあります。神さまのお許しなしに、悪霊が勝手に働く事はないのです。昨日の「聖書朗読ジャーナル」は、「主はすべてのものをこ目分のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた(箴言16章4節)」とありました。神さまは、ご自身の目的にあってだけ、この者の働きを許可されるのです。人の実生活や信仰生活の中に起こる不幸な出来事が、悪霊の思うままであって、『私は狙われているのだ!』と思うべきでは決してないのです。
 さて、その日からサウロの宮廷では、彼の霊的・精神的状態が大間題となり、家来たらの間で話題となっていきます。そして彼らは、立琴の演奏を聴くなら、「あなたは良くなられるでしょう(16節)」と王に進言します。それを聞いてサウルは、「・・見つけて・・連れて来てくれ」と願います。それがエッサイの息子で、「主がこの人と共におられます(18節)」と言われたダビデでした。この時にはまだ、サウルには、『良くなりたい!』と願う積極的な柔らかな態度があったのです。一方、父に土産を託された「ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた(21節)」のです。この「仕えた」と言うのは、「前に立った」との意味です。するとサウルは、「・・彼を非常に愛し」ます。サウルは、人を愛することができていたわけです。彼が人を愛している間、守られていました。ダビデとは「愛されし者」との意味の名でした。人を信じられないで疑いに支配されていくサウルの心の内側に、人を正直に見て正しく評価することが、この時には、まだできていたのです。彼はエッサイに使いをやって、「どうかダビデを私に仕えさせて・・気にいったから」と願います。ダビデに期待したのです。としますとダビデには《気に入られる気質》があったことになり、彼の生涯を貫いたものでした。サウルに度々、悪霊が臨みます。そうするとダビデが、立琴を手に取って弾いたのです。
 ダビデが、王となる油注ぎを受けて、聖霊に満たされて、まず初めにしたことは、王サウルの前に立って、道具持ち(従者)になり、立琴を奏てることでした。その立琴のメロディーをサウルが聞くと、「元気を回復し」たのです。文語訳ですと「慰められた」とあります。聖霊の働きの1つは「慰め」です。私たちが聖霊に満たされるのは、人を慰めるためなのです。それが神の下さる能力なのですから。英訳ですと「リ・フレッシュ」です。人を元気にする能力です。音楽には、そう言った効力がある様です。だからと言って、どのような音楽でも良いのではありません。だれが、との様に、何を奏てるかが大切なポイントです。ダビデは、それを知って演奏できた人でした。サウルは、これを聞くことによって、その思いを主に向けることがでさたのです。ですから、元気が回復され慰められ生きていく力を湧き上らせることがでさたのです。彼の演奏に「主が共におられ」たので、そうする事がでさたのです。
 イエスさまは、ゲラサの地で、悪霊につかれた男の人から、その悪霊どもを離れさせ去らせ解放されました。イエスさまの「神の子」の権威によって、そうされたのです。サウル王の精神的・霊的苦境に助けを与えることができたダビデの持っていた能力は、驚くべきものでした。それでも彼は、舞い上がることはなかったのです。山頂に上げられるような体験を通りながらも、自分が、どこから出てきた者であるかを知っていたのです。
 千年後、イエスさまはベツレヘムの家畜小屋に、貧しい養父ヨセフと母マリヤの子として来られました。人をリ・フレッシュするためでした。感謝。