お忙しい中,三木稔先生ありがとうございました
「タロウ」に挑む ほたて児童合唱団と演奏の人たちに
〈タロウ〉は児童合唱の演目としてはたぶん屈指の難曲だと思います。1977年の初演以降,N児(NHK東京放送児童合唱団)と荒川(東京荒川少年少女合唱隊)がそれぞれ数回上演した他は,どの合唱団も着手できませんでした。
それを東京より中国の方が近い佐世保の児童合唱団が演奏するなんて,私には最初冗談としか思えませんでした。
勿論,私はこの曲をわざと難しく書いたのではありません。むしろ誰にでも理解できる自然で易しい書法によったつもりです。私の作品はすべてそうなのですが,日本人ならば当然こう書くべきだと思って私なりの語法を徹底させているのです。ところが,西洋音楽に慣れすぎた人々は返って自分たちに近い表現が受け入れられない体質になっているのです。どうか,今回演奏される方々も聴く側の人々も,日本に居ることを意識しつつリラックスして〈タロウ〉に接してください。
但し,〈タロウ〉は台本上,東北から東京に出てくる子供と仮託されています。だからメロディーは理想化された東北イントネーションで書きました。この作品は,NHKが芸術祭に出品したのですが,無知な審査員がタロウという中上がりのアクセントがおかしいとして点を入れなかったと後で聞きました。
佐世保の方々も東北の特殊性に共感できると思います。むしろ佐世保だからこそ〈タロウ〉が育つのかもしれません。きっと当時の審査員より皆さんが優れている確信します。
器楽の部分は,当時の日本音楽集団の精鋭が各楽器を駆使して演奏しました。それらが自由に物を言えるような私のオーケストレーションだったはずです。今回それを佐世保の人々がやれるようにアレンジすることには随分苦労なさったでしょう。幸いかつて日本音楽集団の事務所に何年かいらしたことのある牧山さんが関与してくださっていると知って安心しています。シンセサイザーも〈タロウ〉の幻想性を邦楽器以上に出せるかもしれません。単なる音色の移し替えに止まらない出来上がりを期待しています。
〈タロウ〉には,中央に対する地方のプロテストとしての意味を持たせたつもりです。
終戦直後の昭和20年3月から6月まで,針尾にあった海軍兵学校に在校した私は,佐世保に限りない愛着があります。土肥先生の住所にある白南風町というのはもしかして南風崎駅に近いところかしらと想像します。あの頃,私は十五歳。軍事教育の下で全く無知だった私は,太平洋戦争で海軍提督を夢見て,まるでタロウのように空襲下の鉄道を乗り継いで徳島から佐世保にたどりつきました。
今これを書いているのはイラクのクウェート撤退期限を過ぎたばかりの時刻です。戦争も出稼ぎもない真に平和な地球を祈りつつ〈タロウ〉を力一杯演奏してください。
三木稔
1991年1月16日 東京狛江市の自宅にて
1991年 ほたて児童合唱団 第7回定期演奏会
(独唱・児童合唱・邦楽器のためのお伽草子「タロウ」に寄せて)