作品
日曜日 2
---------------------------
夕方になって、そろそろ帰路に着こうとバス停に向かって歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「――ヤマト君?」
久し振りに聞く声音だった。ヤマトは一瞬、硬直した。
振り向くと、そこに懐かしい顔があった。別れた彼女の姿だった。
彼女は、随分と印象が変わっていた。ヤマトと付き合っていたころはスポーティなファッションが多かったが、今日はレースをあしらった白いシャツにミディアム丈のフレアスカート。髪も少し伸びている。足元はスニーカーではなく、ミドルヒールのパンプスだった。化粧っ気のなかった顔も、今では控えめながら華やかな雰囲気のナチュラルメイクを施している。それらを自然に取り入れている雰囲気に、既にヤマトの知っている彼女の面影がないことを感じさせた。
「…久し振り。元気そうだな」
邪険にあしらうのも気が引けて、うわべだけの社交辞令が口に出る。しかし彼女は、ヤマトの言葉よりも、隣にいるタケルの容姿を凝視して、固まっていた。
そんな彼女の様子に、タケルが居心地悪そうに小さく会釈する。彼女は漸くヤマトの方に向き直ると、低い口調で問いかけた。
「…ヤマト君、この子…」
「弟のタケルだ」
そう言って紹介する。タケルは帽子を被っていたが、同じ髪の色、同じ瞳の色は目立つ。初見でも兄弟だと一目瞭然だ。
彼女はこわばった表情で、「…弟さんがいるなんて、私、聞いたことなかった」と呟いた。
そりゃそうだ。タケルと暮らし始めたのは、彼女と別れた後だ。加えてヤマト自身もそれまで弟の存在なんて忘れていたのだ。両親が離婚していることは話していたが、弟の話題を口に出したことなどない。
だが、それらを今さら、この場で順を追って説明する必要性は感じられない。ムキになって言い訳するような雰囲気にもなりそうだし。
なのだがしかし、彼女はどうやら、付き合っていたころからヤマトが家族の話を自分に話してくれなかったのだと勘違いしたらしい。「…やっぱり、君ってそういう人だよね」とか勝手に解釈して冷めた表情を見せている。
酷い言い草だな、と思ったが、ヤマトも不意を突かれた彼女との再会に、少々思考が停止していた。
今自分が気遣うべきは、元カノの方ではなく、弟のタケルだ。しかしそのことに数秒遅れて我に返った時、タケルは「僕、先に帰るから!」と早口で喋って、すでに踵を返して駈け出していた。
「タケル!」
慌てて後を追おうとした時、「どうかした?」と見知らぬ声が耳に入る。どうやら彼女の連れが戻ってきたらしい。声の主に目をやると、背の高いぼさぼさ頭の青年がキョトンとした表情で立っている。何かスポーツをしているのであろう、細身ながら筋力の付いた体格の青年だった。しかし若干幼さの残る口調と表情から、どうやら年下らしいとヤマトは推測した。なるほど、母性本能溢れる彼女にとって、同い年の自分より年下の彼氏の方がよっぽど相性がいいと思う。
いやしかし、こんなところで今カレと元カレの遭遇などという修羅場を、ヤマトは体験する場合ではないのである。
挨拶もそこそこに、ヤマトはその場を離れてタケルを追いかける。別れ際、彼女の最後の表情は見なかった。
前方にバス停が見える。既に着けていた路線バスに、タケルが乗り込むのも見えた。
待ってくれ、と叫んでみたものの、無情にもバスは発車してしまう。
チッと舌打ちして、ヤマトは全力で駈け出した。こんなに走るの、高校の体育祭以来かもな。最近めっきり運動不足だ。
離れていく相手を全力で追いかけるなんて、今までの自分には考えられなかった行動だ。
◇
息を切らして自宅に到着する。乱暴に玄関を開けて、人の気配のないリビングを一瞥し、ヤマトは一直線にタケルの部屋に向かう。
部屋の前に立ち、荒い呼吸を整えた。ふぅっと、深呼吸。心臓の音がやたら煩く感じるのは、たぶん、走ったからだけじゃない。
緊張していた。俺ってこんなに熱くなれるんだな。客観的な自分が笑う。
「タケル」扉の向こうの相手に声をかける。「入ってもいいか?」トントントン、優しくドアをノックしたが反応は無い。
如何しようかと考えたが、誤解を解いてやらねばならない。今日の一日を、こんな形で終わらせたくなかった。
「…タケル、開けるぞ?」
かちゃりとドアを開けた。タケルの部屋に入るのは初めてだった。掃除は自己ですることに決めていたし、最初の頃は、お互いに距離を置いていて兄弟間でもプライバシーを重視しようと約束したからだ。今となってはそんな約束、しなきゃよかったなと思っていたが。
タケルの部屋は灯りを付けてはいなかったが、窓から西日が良く差しこむ間取りで、強めのオレンジの太陽光が部屋中に降り注いでいた。
綺麗に整頓された部屋は中学生男子にしては物が少なく清潔で、むしろ殺風景な印象を受ける。
ベッドの中央、掛け布団が丸く山になっていて、すぐにタケルが包まっているのだと分かった。ヤマトは少し、笑った。
ベッドの脇まで近づいて、膝立ちになりぽんぽんと掛け布団の上から軽くたたくと、ぴくり、と反応が返ってきた。
「…嫌な思いさせて、ごめんな」
「……、兄さんは悪くない。先に帰ったりして、ごめんなさい」
もぞもぞと布団が動いて、中から籠った声が聞こえる。
「お前が謝ることなんてないよ」
そう言って、ヤマトは弟に対して済まない気持ちでいっぱいになった。自分は駄目だな。いつもタケルを振り回してばかりいる。健気に自分を慕ってくれている弟を、傷つけさせてばかりいる。一日でも早く兄弟として打ち解けて貰いたいなんて、傲慢もいいところだ。
自分はちっとも、善い兄になれてない。
「…彼女さん、置いてきちゃったの」
悲しそうな声音で聞いて来る。ああやっぱり誤解してるんだ。
「彼女じゃないよ」
即答すると、「はぇっ?」と素っ頓狂な声を出して、タケルは勢いよく布団から飛び起きた。
頭に掛かっていた布団がずり落ちて、しゃがんでいたヤマトの目線にタケルの顔が飛び込んできた。
布団で蒸されて暑かったのか、火照った頬が真っ赤に染まっていた。
汗ばんだ肌に、前髪が張り付いている。
その様は驚くほどの色香を醸し出していて、ヤマトは息を呑む。
――待て。何考えてるんだ、俺。
ヤマトは慌てて、あらぬ方向に飛びかけた思考を停止した。何を莫迦なことを。目の前にいるのは。弟で。
「…あ、あのひと、かのじょじゃ、ないの・・・?」
ヤマトの動揺など気付くはずもないタケルはタケルで、別の意味で混乱していて、「・・・うあぁぁ~~~~…!」と悶えている。
タケルの滑稽な言動に、ヤマトはハッと我に返って冷静さを取り戻した。
「…もしもーし、タケルくん?」
「ぼく、また、勝手に一人で早とちりして…!うわぁぁ、は、恥ずかしいっ!!」
また、とは、如何やら例の飲み会(タケル的には合コンだと勘違いしたらしい)の夜のことだろう。
タケルが再び掛け布団を羽織ってベッドに潜り込みそうになったので、ヤマトは布団を掴んでそれを制止した。
いちいち可愛い。本当に、俺の弟は、とびきり可愛い。
「あーもー、何でっ…。でもでも、あんな会話聞いたら、誰だってそう思うよッ…。ああでも、本当に、もう…!」
支離滅裂な独り言を続けるタケルを眺めるのも面白かったが、そろそろ不憫に思えてきたので落ち着かせるために説明した。
「まぁ、正確に言うと、元カノってやつだ。でもタケルと母さんと暮らすことになった時には、とっくに別れてた。だからお前の話もしたことなかったんだ。あー、だから、お前が気にする事なんて何もないんだよ」
何だか話してるうちに、次第に恋人に一生懸命浮気疑惑を弁解してる男みたいな会話になってきてるような…ヤマトはだんだん自分の思考回路がおかしくなっている気がした。
タケルはしかし、そんなヤマトの必死の説得も、あまりピンと来ていないようで、「う、うん」と中途半端な相槌を打っている。
あれ?何だか意思疎通が出来てないような…。
「え―と…。タケル、お前、俺が彼女に家族の事情を黙ってたと思いこんで、俺たちに気兼ねして先に帰ったんじゃないのか?」
「へ?あっ…うん、そう…そうなんだ、けど…」
タケルは先刻よりももっと真っ赤になってもじもじしていた。な、なんだよその態度…妙に色っぽいって言うか…だからさっきから、どうかしてるぞ俺。
しばらく何か考えていたタケルは、細い声で、小さく小さく答えた。
「…二人の邪魔しちゃ悪いって、思ったのも本当だけど、…お兄ちゃんに、彼女がいたんだって思ったら、なんか…ショックだったっていうか…」
――変だよね、ぼく。
震えた声でそう言ったタケルは、近づいて顔を覗き込んでくるヤマトを、不安そうに見詰めた。
ヤマトはみっともないくらいにニヤニヤしながら問いかけた。
「…タケル、もしかしてお前、ヤキモチ焼いたのか?」
「ふはっ」
ヤマトの言葉に、タケルは空気の抜けたような変な声を出した。図星のようだった。分かりやすい。
タケルの一言一句が、何から何までヤマトの脳内を刺激する。こんなにコントロールが利かなくなるのは初めてだ。
どうして、
こんなに、
俺の弟は俺を幸せにする術を知っているんだろう。
「…お、お兄ちゃん?ごめん、変なこと言っ……って、う、うわぁっ?!」
言い終わらないうちに、ぼすっ、と、タケルはベッドの上に沈み込んだ。
ヤマトがベッドの上に圧し掛かって、タケルの両肩を掴んで押し倒したからだ。
「え…??ちょ、どうし…」
突然のヤマトの行動に、タケルはパニックになっている。ヤマトは、弟の両肩を抑えつけて、身体を跨ぐように上乗りになった。
――あれ、なんかこれ、俺がタケルを襲ってるみたいじゃないか?
ヤマトは無意識にごくりと唾を呑みこんでいた。。
頭の中でもう一人の自分ががんがん警鐘を鳴らしている。冷静になれと訴えている。勢いに任せてとった自分のこの行動、かなりヤバい状態になってないか。
ハッとしてタケルの様子を窺う。
この状況だと、タケルの事だから、何時ものようにわたわたしながら困惑するか、または流石に温厚な彼でもからかうなと怒りだすのではないかと思った。
ところか、タケルのとった行動は、そのどちらでもなかった。
ヤマトに組み敷かれているタケルは、眉間にしわを寄せ、ぎゅっと目を瞑っている。
顔は耳朶まで真っ赤に染めて、唇を噛みしめて、黙って切なそうに耐えていた。
抑えつけた両肩が、小刻みに震えているのが手のひらを伝って感じられた。
ヤマトは慌ててタケルの肩から手を離し、がばっと起き上って体勢を整えた。
ベッドから降りると、未だ目を閉じて硬直しているタケルの頭を、ぽんぽんと撫でた。圧迫感が無くなった事に気付いたタケルは、恐る恐ると言わんばかりに、そぉっと片目を開いた。目尻に涙を浮かべていたのを、ヤマトは見て見ぬふりをした。
「タケルにヤキモチ妬いてもらえるなんて、兄ちゃん、嬉しいぞ?」
冷静を装って、からかうようににやりと笑うと、タケルはますます茹でダコのような頬になり、「妬いてなんかないって!」と叫んだ。ヤマトは「照れんなよー」と、軽口を叩いた。意識して、「兄の表情」を作った。大丈夫。慣れてないけど、ちゃんと兄の顔になってるはず。
タケルは緊張が解れたのか、身体を弛緩させて深い溜息をついた。
ヤマトは優しい声で慰める。
「ごめん、ごめん。今日は色々疲れさせちまって、悪かったな」
「そんなこと…ない。水族館、楽しかったよ」
「それは良かった」
ヤマトはほっとする。そして立ち上がり、「さーて、夕飯の支度すっかな。もうすぐ母さんも帰ってくる時間だし」と背伸びをした。
「あ、僕も手伝う」タケルが起き上がろうとするので、軽く手を上げて制した。
「いいんだってば。お前はも少し休んでろ。後で呼んでやるから」
正直、このままここにいたら得体の知れない甘い空気に飲まれて、どうにかなってしまいそうだった。
タケルは肩を竦めたが、素直に聞いてくれたようだった。再びぼすんとベッドに沈み込むように寝ころぶと、「じゃあちょっと寝る」と呟いた。
部屋から出たヤマトは、後ろ手にドアを閉めると、肩の力を抜いてふーーーーっと深い溜息をついた。
右手を口に当て、ドアにもたれてへなへなと倒れ込む。
(っ…やっばかった…)
疲れた。なんか疲れがどっと出た。
タケルがあんな魅惑的な態度をとるとは思わなかった。いや違う。魅惑的に見えたのは、ヤマトがそういう目でタケルを見たからだ。
ほんのちょっと、ほんっっっっっっっっっっっっとうにちょっとだけ(ここ強調)、弟に興奮した。
そう思うと、急激に罪悪感が背中に圧し掛かってくる。
あああ、俺、最低な兄貴だよ!!
(…いかんな、かなり溜まってんだ。こりゃあガス抜きが必要だな、うん)
確かにここ最近のヤマトは、彼女と疎遠になったこともあり、めっきりそっちがご無沙汰だった。
家族四人の生活が始まり奈津子とタケルが家にいると思うと、何となく気が引けてしまって、自己処理もままならない日が続いていた。
うん、きっとそれが原因だ。これからはこまめに抜いとこう。欲求不満にかこつけて弟にムラッとくるとか変態性欲にもほどがある。
ヤマトはそう自己完結して、勢いよく立ちあがった。深く深呼吸。それから、よしっと気分を切り替えて、腕まくりをしてキッチンへ向かった。
――水族館、楽しかったよ。
タケルの言葉を思い出す。そう言ってもらえただけで嬉しかった。それだけで、俺は幸せだ。
大切な弟だから。愛おしい、大事にしたい感情に気付かせてくれた、俺の弟、なのだから。
誰に言い訳するでなく、ヤマトはそう思い込む。
ヤマトの胸に疼いた感情は、その時、行き場を失って宙を漂っていた。
- 2015/03/21 (土)
- ヤマタケパラレル