作品
初めて見る、その素顔 1
「じゃあ、母さん行ってくるから。家の事、よろしくね」
慌ただしく身なりを整えて、スーツ姿の奈津子が玄関の戸を開ける。
「うん。気をつけて」
「ごめんね、なるべく早く帰ってくるから」
申し訳なさそうに笑う奈津子の表情に、タケルは苦笑する。
「大丈夫だってば。いってらっしゃい」
ゆるゆると手を振る。奈津子はまたごめんね、と云ってから、同じように手を振って、出掛けて云った。
奈津子が家を空けるのは久々のことだ。
とある作家の作品の受賞記念パーティーに呼ばれたとかで、京都のホテルに一泊することになった。
タケルと二人で生活していたころは、幼いタケルを女手一つで育てるのが手いっぱいで、奈津子は出版業界の行事には欠席することが多かった。
しかし今回は昔から懇意のある編集者から連絡があったらしく、久し振りに出席することを決めたらしい。
今までなら、東京以外の地域で行われる、宿泊を伴うパーティーに出席するなど考えられなかっただろう。
タケルを一人置いて出掛ける訳にはいかなかったから。
それでも断りきれない仕事が入ったときには、夜遅くまで帰ってこないことも稀にあって、タケルは幼い頃に母親の帰りを健気に待っていたことを思い出した。
確かにあの頃はひとりぼっちが恐くて悲しくて辛かったけど、自分はもう14歳の中学生だ。
留守番くらいなんてことないのに、未だに息子を心配する奈津子に、タケルは少しだけ呆れる。
それに今は、母親との二人暮らしではない。
家族4人が暮らす環境で、父も兄もいるのだ。
だからタケルは出席を迷う奈津子の肩を押した。
生活のためと云いつつ、やはり奈津子は翻訳家と云う仕事が好きなのだ。仕事をしているときの母はとても生き生きとしていて、タケルもそんな母親の姿を見るのが好きだったから。
だからこれからはもっと家の外に出て、出版業界の人たちと交流を持って貰いたいと思う。
さて、そんなことがあって。
夕方のこの時間、まだ誰も帰ってこないし、タケルは今夜は自分が夕飯の用意をするとヤマトに伝えていたので、早速台所に向かって準備に取り掛かる。
奈津子と二人暮らしの時に簡単な調理はしたことはあるけれど、最近は殆ど奈津子かヤマトがご飯を作ってくれるので、台所に立つのは久し振りだ。
その上あんなに料理の上手なヤマトに自分がご飯をふるまうのはちょっとプレッシャーだった。
とは言えそんなこと言ってられないし。
エプロンを身につけていると、家の電話が鳴った。
慌てて電話のあるリビングへ向かう。
「――はい、高…あ、石田です」
「ああ、タケルか?」
「お父さん?どうしたの」
電話の声は裕明だった。
「すまん、今収録してる番組の時間が押しててな…帰りが遅くなりそうなんだ。飯はこっちで済ますから、お前たちだけで食べててくれ」
「あ、うん。わかった」
用意する前で助かった。
「悪いなぁ、母さんがいないときに…なるべく早く帰りたいんだが、泊まりになるかもしれん。ヤマトにも伝えておいてくれないか」
「分かった。こっちは大丈夫だから。――うん、うん。じゃあ」
電話を切ってから、暫く静寂した部屋の中を眺める。
――てことは、兄さんと二人きりで留守番なんだ。
何故かふと、当たり前の事を心の中で確認してしまう。
そしてタケルは、自分が少し動揺していることに気づく。
家族4人で暮らすようになってから、時間が不規則な裕明は家に帰ることが少なかったが、奈津子は常に家にいたし、ヤマトと二人で長時間過ごすという事は、今回が初めてだった。
いや、だけど。
ヘンに意識する必要はないんだけど。
ぼんやり、よくわからない意味不明の胸のドキドキを感じながら、タケルはとりあえず、台所へ戻った。
再び電話の音が鳴り、タケルは肩を震わせた。
慌てて受話器を取ると、今度は繁華街の様な雑然とした騒音が耳に飛び込んで来て、頭がきぃんとした。
「もしもし?」
「――タケルか?」
がやがやと反響する音の中、兄の声が聞こえてタケルは息を吐いた。
「兄さん?どうしたの」
今日はバンドの練習の予定も入ってないから、大学の講義が済んだら帰宅すると言っていたが。
「悪い、大学の奴らに飲みに誘われて、断りきれなかった。少しだけ顔出して帰るから、晩飯先に父さんと食っといてくれるか?」
タケルは、一瞬頭の中がからっぽになって、ぽかん、とした。
受話器の向こう側の反応が無くて、不審に思ったヤマトが「タケル?」と返事を促してくる。
タケルは我に返ると、慌ててわかった、と声を出した。
「タケル?どうかしたか?」
「ううん、どうもしないよ。ごめんごめん」
動揺を悟られないように取り繕った。相手に気取られないように振る舞うのは慣れているはずだ。
その時、耳にざわりと声が飛び込んできた。
「おーい、石田、早く来いよー。お前が久々に参加するって聞いたら、女子らがもう店に集まってるってよ。ホント、お前が来るか来ないかで女子の参加率が全然違うんだからさー」
数人の男子学生たちの笑い合う声。ヤマトは「…あー」と気の抜けた返事をしている。
タケルは固まってしまって、うまく頭が回らなくなった。
――ああ、合コンかぁ。
ぼんやり間抜けなことを考える。
そりゃそうだ、兄は大学生なのだ、何てことはない、合コンの一度や二度や百度なんて…いや百回は多すぎか。
合コンなんて今までの自分にはテレビや雑誌などでしか聞かない言葉ではあったが、それが唐突にリアルさを持って自分の世界に入り込んできた。
大学生のヤマトにとっては当たり前の行事なのだろうが何故か今の今までタケルは『兄が合コンに行く』という行為を想像したことがなかった。出来なかった。
ヤマトはいつも飄々としていて、アルバイトとバンドの練習で毎日忙しそうで、タケルにお弁当を作ってくれて……
それで…それから…
「すまん。なるべく早く帰るから。…なぁおい、タケル、聞いてるか?」
反応の鈍い電話口の向こうの相手に、ヤマトは訝しげな声を出す。
「うん、聞いてる。こっちは大丈夫だから」
「……本当に、如何した?なんかお前の声、変だぞ?」
面と向かって会話をしていないはずなのに、兄の鋭い反応に、タケルはぞわぞわした。こんなの、慣れっこのはずなのに。ポーカーフェイスで、相手に本音を悟られないで、さっさと対話を切り上げるのが、自分の特技だったはずなのに…
「へんなこと、なんて、ないっ。そっち、ともだち、待たせてるんだろっ?もう切るから!」
ぷつっ。
謎の逆ギレと捨て台詞を吐いて、タケルは受話器のボタンを乱暴に押した。
暫く受話器を両手に持ったまま、タケルは唐突に途切れた(否、自分から遮断した)会話と、急激に襲ってきた静寂に、固まったまま立ち尽くした。
――あんな切り方をして、兄は驚いただろうか。まだ数カ月の同居生活だけど、今までタケルはこんな自分をヤマトに見せたことがない。
もしかしたら再び電話をかけてくるかもしれないと思ったが、呼び出し音が鳴ることはなかった。
怒ってたらどうしよう。それとも呆れてるのかも。
暫くリビングをうろうろしていたが、結局深い溜息をついた後、電話機を充電器に戻して、タケルはリビングのソファに横になった。
何だか酷く疲れた感じがして、もう夕食を作る気になんてなれなかった。て云うかどうせ一人だし。ヤマトは顔を出すだけですぐに帰ってくると云ったが、あの様子ではどうせ二次会だなんだと食べて帰るだろう。
父や兄が夜食用にと常備してあるカップラーメンでも一つ拝借して食べておけばいい。そう思いつつも、食欲すら湧かなくてそれすら億劫だった。
ひとりだ。静かなリビング。慣れっこだったはずなのに…
タケルは深くソファに沈み込んで、身体を丸めた。まるまった子猫のような体勢で、そっと目を閉じた。
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- 2013/10/20 (日)
- ヤマタケパラレル