作品
虹をみること 4
4.
啓人が留姫と喧嘩(?)をしてしまってから、一週間が経った。
あれから二人がどうなったかと云うと、実はどうもなっていない。
啓人は焦っていた。
次に留姫に会うときには、きちんと謝ろうと思っていた。
しかし、留姫はあれから松田ベーカリーにパンを買いに来なかった。
今まではどんなに間が開こうと、一週間も店に来ない事はなかったのに。
留姫は心底啓人を怒っているのかも知れない。
何度も留姫の家の前まで足を運んだ。だが、どうしても玄関のインタホンを押すことが出来なかった。
我ながら自分が情けなかった。
それと同時に、啓人は次第に腹が立ってきた。
確かに自分は留姫を不快にさせてしまったかも知れない。
しかし、もともと善意で送ってあげようと思ったのは事実だし、そもそも自分は留姫に対してきちんと謝ったはずだ。
それなのに頬をひっぱたいておいて、知らん顔される筋合いはない。
啓人も留姫も、お互いに意固地になっていた。
そのまま時間だけが過ぎてしまっていた。
***
その日は朝からすっきりしない空模様だった。
今にも雨が降りそうな、曇り空。湿った風が、ふて腐れている啓人にはうっとおしかった。
学校の帰り道。啓人は一人商店街を歩きながらぼんやりと留姫のことを考える。
留姫は以前デジモンカード大会で準優勝し、デジモンクイーンと呼ばれていたそうだ。
啓人は当時、公園で友達とバトルをするレベルだったので、一度も大会には出場したことはない。
会場にも行ったことはなかったから、テイマーになるまで、留姫と会うことは無かった。
「デジモンクイーン」の名前も、博和から聞いて知っていただけだ。
留姫は今も大会に参加しているのだろうか。
だとすれば、大会を見に行けば会場で会えるだろうか。
…そう云えば、デジモンたちと別れてから、ちゃんと留姫と話をしていない…。
啓人は急に、説明できないような悲しい気持ちなっていた。
自分は留姫のことを、何も知らないのではないか。
一緒にデジタルワールドを冒険している時や、一緒に闘っていた時は、とても近くて特別な存在だったような気がしていた。
もちろん、健良も遼たちともそうだった。
だけど。
自分は一体留姫の何を知っていたというのだろう。
レナモンのパートナーで。デジモンカードの腕はピカイチで、デジモンクイーンと呼ばれて。
だけど、それ以外に何を。
プライドが高くて、単独行動が好きで、クールで、でも時々、急に優しい顔を見せる女の子…。
留姫は啓人にとって、憧れであり、とてもミラクルな少女だった。
一つの側面を見れば、もう一つの側面が見えなくなってしまうような。
そこまで考えて、啓人はあることに気付く。
今の自分は、留姫と共にテイマーとして闘っていた時より、留姫のことを知りたがっている。
テイマー仲間だった時には、こんなこと思ってもみなかった。
それは、自分があの状況――ギルモンと出会って、テイマーになって、冒険していた頃――に満足していたからだ。
それ以上、望むものなんて無かったし、留姫は自分と同じテイマーとして、ごく自然に隣にいる存在だと思っていた。
けれど、今自分は。
「タカト君?」
突然呼び掛けられて、思考がストップする。
「…あ、あれ?」
気が付くと、松田ベーカリーを通り越して、少し進んでいた所だった。
そこで、丁度松田ベーカリーから出てきた加藤樹莉に呼び止められていたのだ。
買ったばかりの焼き立てパンを胸に抱いた樹莉はおかしそうに笑う。
「変なの、タカト君。自分の家に気付かずに通り越していくなんて。」
「…あ、ま、毎度いらっしゃいませ…。」
上の空の現場を目撃されて啓人は顔を真っ赤にした。
樹莉は右手を啓人に突きつけて、指を動かす。
樹莉特有の独特の動きは、以前手につけていた犬のハンドパペットを思わせた。
だが、今はもうそのパペットは樹莉の手にはない。
啓人は加藤樹莉という少女に弱かった。
未だにそれは変わらない。
樹莉は年の離れた弟の面倒を良く見ているそうだ。
一人っ子の啓人から見ると、樹莉はまるで年上のお姉さんのような言動が多いので、どうしても対等に向き合えない気がする。
デジモンとデ・リーパの一件で、啓人は今まで知らなかった樹莉の深い部分を知った。
自分は良い子なんかじゃないという告白、そして新しいお母さんの事。
デ・リーパに乗っ取られてしまうほど深い樹莉の心の闇は、のほほんと生きてきた啓人には計り知れない。
あの日、啓人は、そんな樹莉を心から救いたい、と願った。
そして、樹莉のために強くなりたい、と。
自分たちの街を、世界を、大切な人たちを守りたいと思う心もあった。
だが、それよりも、啓人は「樹莉を助けたい」と思う気持ちが一番強かった。
啓人は――あの時、樹莉の事が、好きだった、と思う。
思う、と云うのは、本当にそうだったのか、自分でもよく解らないからだ。
樹莉といわゆる「クラスメイト」の関係だった頃。
啓人は樹莉を見るだけでドキドキしたし、樹莉に話し掛けられるととても嬉しかった。
その思いをずっと「恋」だと思っていた。
だけど、テイマーになって、樹莉と今までとは違う接近をして、今まで知らなかった樹莉の一面を見た時、自分は一体樹莉の何を見ていたのだろう、という気持ちになった。
優等生で、いつも明るくて、可愛くて。
そんなうわべだけの目でしか樹莉を見ていなかった自分がとても嫌だと思った。
その笑顔の裏で、樹莉がどんな辛い思いを抱いて生きていたかも気付かずに、樹莉に淡い恋心を抱いてきた自分は、樹莉に対してとても失礼な事をしてきたのではないか、という気になったのだ。
勿論、啓人は今でも樹莉に好意を持っている。
しかし、それは昔の、何も知らない頃の無知の感情とは違う想いだった。
そして、それを果たして「恋」と呼ぶのかどうか、解らない。
啓人は、樹莉に対して、説明がつかない感情を持て余していた。
「どうしたの?ぼんやりして。何か考え事?」
樹莉が首をかしげて啓人の目を見つめる。啓人はその目に弱い。
「な、なんでもないよ。」
「嘘。ルキと何かあったんでしょう。」
「…へっ?!」
突然、何の前触れも無く留姫の名前が樹莉の口から出て、啓人は胸が高鳴った。
「な、な、んで、」
「図星?」
さらに突っ込まれて、啓人は言葉に詰まる。
「…ルキに聞いたの?」
オドオドと樹莉に問うと、相手は予想外の反応を示す。
「ううん。ルキは自分のこと何も話してくれないわ。私にも。」
「え。」
啓人は驚いた。
留姫と樹莉は最近頻繁に会っているようだったし、樹莉の口から当たり前のように留姫との事を指摘されたので、てっきり樹莉は啓人と留姫のことを知っているのかと思っていた。
「じゃあ、何で…、」
「女の子の勘。」
「…。」
「冗談よ。最近、この辺でルキを見かけないから、タカト君ちにパン買いに来てないんだなと思って、ルキに電話したの。でもルキは何も話してくれなかった。それで、タカト君と何かあったんじゃないかと漠然と思ったの。」
「何かって…。」
大人びた樹莉の言葉に啓人はぽかんとする。
「さあ、アタシはそこまで知る権利ないし。ルキが話したくないのなら、聞かないでおこうと思った。だからタカト君にも聞かないよ。ただ、ルキがすごく落ち込んでいたみたいだったから。それがタカト君のせいなら、放っておけないなぁと思っただけ。」
「…ルキ、落ち込んでたの?」
よくよく考えれば酷い云われようだが、樹莉に云われるとすんなり受け入れてしまう啓人である。
それよりも、啓人には「留姫が落ち込んでいる」と云う言葉の方が引っかかった。
「それも気付かれないように振舞ってたけど。でもアタシには何となく落ち込んでるように感じたわ。」
啓人は呆然とした。
啓人は、留姫はずっと啓人の事を怒っていて、自分は避けられているのだとばかり思っていた。
留姫が落ち込んでいるなんて思わなかった。
謝ったのに、引っぱたかれて、知らん顔されて、腹が立っていた自分。
何という事だ。勝手な思い違いもいいところだ。
自分は、留姫を傷つけてしまっていたのだ――
「タカト君?どうしたの。」
樹莉は、まるで見えないパペットをワンワン!と操っているかのように、何もはめていない右手の指を動かす。
「…加藤さん。僕…、」
啓人はぐっと拳を握り締める。
「何?」
「…僕、ルキになんて云って謝ればいいんだろう…。僕のしたことが、ルキを傷つけてしまっていたなんて、思わなかった。僕は――何だか、最近、自分のことがよく解らないんだ。」
「解らない?」
「他の人がすごく羨ましく思えてしまうし、自分は全然成長してないって思うと悔しくなるし…それに、何か、急に良くないこと想像したり、…その、変な事とか、考えちゃうし。」
「…そう。」
後々考えると、女の子にこういう事を告白するのはかなり恥かしいことであったのだが、当時の啓人には、その意識があまりなかった。
「でも、僕がそういうことを思うのは僕の勝手で、ルキには何の関係もない事だよね。なのに、僕はルキに嫌な思いをさせてしまったのに、『謝ったのにルキは怒って許してくれない』だなんて、勝手な事考えてたんだ…。」
あの日の留姫の言葉を思い出す。
――最低。
云われたとおりだ。確かに自分は最低ではないか。
「…うん。でも、タカト君。」
樹莉は可愛らしい仕草で首をかしげる。
「タカト君がそれにちゃんと気付いたのなら、それで良いんじゃないの。タカト君が変な事を思うのはタカト君の勝手なのと同じように、ルキがタカト君を怒るのも、落ち込むのも、それはルキの勝手でしょ。」
「…そう、なのかなぁ…。」
「そうだと思うよ。アタシは。」
樹莉は優しく微笑んだ。
「ルキとタカト君は似た者同士なのよ。」
「えぇ?僕とルキが?全然似てないと思うけど…。」
納得できないような啓人の表情に、可笑しげに樹莉は笑う。
「…ルキは意地っ張りだから、焦って謝りに行っても余計こじれるかも知れないね。でも、あまり長く時間を空けるのもよくないと思うし…。」
「じゃあどうすればいいんだろう。」
難関だ。啓人はガクリと首を垂れる。
「…何か、きっかけがあれば、すんなり行くと思うんだけど。」
「きっかけ?」
「うん。あとはタイミング。自然に、意地を張ってても仕方ないと思えるような、きっかけとタイミングが肝心よ。」
「…難しいね。」
「難しいのよ、一旦機嫌を悪くした女の子は。」
「…うぅん。」
眉を寄せる啓人に、樹莉は「頑張ってね」と軽い調子で答える。
弱々しい笑顔を返す啓人。
「…ごめんね、加藤さん。変な事聞いてもらっちゃって。」
「いいのよ。アタシ、前にもこう云うシチュエーションに出くわした事あるから。放っておけない性格なの。言い換えれば、お人好し。」
「へ?」
「アタシ、そう云う風に落ち込んだり、悩んだり出来るタカト君が羨ましい。」
「…何云ってんのか解んないよ、加藤さん…。」
「そう?」
うふふ、と樹莉は笑った。
耳朶まで真っ赤になった啓人は、言葉を返せず苦笑いした。
やっぱり啓人は、樹莉の笑顔が好きだった。
- 2005/06/20 (月)
- 『虹をみること』
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