作品
虹をみること 3
3.
李健良は、夕飯前の一時、自室のパソコンの前でディスプレイを凝視していた。
小学生にしては驚くほどキーボードを打つスピードは早く、ブラインドタッチも完璧だった。
カタカタとキーボードを打つ音だけが部屋の中でテンポ良く繰り返されている。
こんこん、とドアをノックする音がして、一瞬遅れて「ジェンにいちゃん。」と可愛らしい声がドアの向こうから聞こえてきた。
張りつめていた厳しい顔が和らいで、ほっと一息ついた健良はディスプレイから顔を逸らし、「どうぞ」と声を掛けた。
ドアが開いて、ニコニコした妹の小春が顔を覗かせる。
「どうしたんだい、シウチョン?もう夕飯の時間?」
健良はすっかり「おにいちゃん」の顔になって小春に聞いた。小春は可愛い仕草で首を振る。
「ううん。ジェンにいちゃんにお客さんー。」
「お客さん?こんな時間に、誰?」
「タカトおにいちゃん。」
「え、タカトが来てるの?」
健良は意外な訪問客に少しだけ驚いた。
今まで啓人は何度か健良の家に遊びに来たことはあったものの、いつもは学校や公園で会うことが多いので、連絡なしに突然訪問してくることは珍しい。
健良が立ち上がると、小春は何か云いたげにふにゃふにゃと口を動かす。
なんだか笑いを堪えているようだ。
「シウチョン、どうかしたの。」
「うふふ、なんかねぇ、タカトおにいちゃんの顔、おもしろいの。」
「え?何だって?」
小春はそのままぱたぱたと小走りで部屋を出て行ってしまった。
疑問に感じた健良が玄関まで向かうと、そこに突っ立っている啓人の顔を見て、ぽかんとしてしまった。
啓人は情けない表情で「ジェン、急に家に来てごめん。」と云った。
その左頬には、赤い掌の跡が、季節外れの紅葉のようにくっきりと浮き上がっている。
「…タカト、どうしたの、その顔…。」
とりあえず啓人を家に上げ、自分の部屋まで連れて行った健良は、その質問を啓人に向けた。
啓人は言い出し難そうにもごもごしていたが、夕飯前の時間に突然訪れたことに引け目を感じて、正直に先程の留姫との顛末を話した。
ただし、自己弁護の念にかられてしまい、「留姫の脚を見て怒られた」ことはどうしても話せなかった。
健良には、「制服姿の留姫を見て思わず見とれてしまった」とだけ云った。
健良は啓人の話を聴いて、正直とても驚いた。
留姫は見た目や行動よりも内面にあるものはひどく女の子らしいとは思っていたが、そう云う面ではとてもクールな少女だと思っていた。
留姫が感情を露わにしたのは、やはり相手が啓人だったからだろう。
それを当の本人である啓人は気付いていないのだ。
健良は友達思いではあるが、二人のプライベートな感情に口を挟むほど友情に熱いほうでもない。
さてどうしたものかと内心困惑した。
「それで、何でうちに?」
「この顔のまま家に帰れなくて。跡が消えるまで公園をぶらぶらしようと思ってたんだけど、浅沼先生にばったり会っちゃったんだ。浅沼先生、今日の公園の見回り当番らしくて、お決まりの科白言われちゃったんだ。『こんな時間まで外で遊んで――もうすぐ中学生なんだから、自覚を持ちなさい』って――。暗かったから先生には顔の跡見られなかったと思うけど、さすがに居辛くなって。でも他に行くとこないし、ヒロカズやケンタの家じゃこの顔見て何云われるかわかんないし、だから――…ごめん。」
改めて云うと何と勝手な事か。
健良に申し訳なく思ってきた啓人は、ますます落ち込んで肩を落とした。
「良いんだよ、うちは家族多いから、お客さんが一人くらい増えたってね。だから気にしないで。それより、濡らしたタオル持ってこようか?冷やせば跡も早く消えるんじゃないかな。」
啓人の落胆振りがかなり激しかったので、健良は努めて愛想よく振舞った。
啓人は、そんな健良がとても大人らしく見え、とても同い年には思えなかった。
健良がタオルを取りに部屋を出たので、啓人はぼんやりと健良の部屋を眺めていた。
相変わらす、パソコンや機械が多い部屋だ。啓人はあまり機械に詳しくないので、何がなにやらよく解らない。
ふとパソコンのディスプレイに目を向けると、電源が入っていて、記号や数字の羅列が表示されていた。
何かのプログラムのようだったが、健良はこれらを理解しているのだろうか。
なんだか凄いなぁ、と啓人は感心した。
「おまたせ。はいこれ。」
健良が濡らしたタオルを持ってきてくれた。有難う、とお礼を云って頬に当てる。
留姫にひっぱたかれた頬は熱を帯びていたので、冷たいタオルが気持ちよかった。
「ジェン、これなんなの?パソコンに出てる記号みたいなの。」
啓人に質問されて、健良はディスプレイの方に目を向けた。そして、啓人が訪問してくる前の、厳しい顔つきになる。
「これは…、テリアモンの…デジモンたちの、データだよ。」
「えっ?」
健良の言葉に、啓人も目を開く。
デジモンのデータ。共に闘い、共に笑いあった、大切なともだち…。
「どういうこと?どうしてデジモンのデータが?」
「…お父さんの書斎でこのディスクを見つけたんだ。多分、あの事件の時に使ったものだと思うんだけど…悪いことだとは思ったけど、お父さんには黙って持ってきたんだ。もしかしたら、テリアモンたちとまた会える手がかりになるんじゃないかと思って…。」
「すごいね、ジェン。この記号とか見ただけでそんな事まで分かっちゃうの?!」
啓人にとっては、やっぱりまだ女の子のことよりデジモンの方が興味が上のようだった。先程の落ち込みぶりはどこへやら、目を輝かせてディスプレイを覗き込む。
「それは…多分、お父さんが、僕にもちょっとだけ理解出来るように、プログラムを易しく書き直したんじゃないかと思う。」
「え、如何いうこと?」
健良は顔を曇らせた。
「お父さんは、ディスクがなくなってることに気が付いてない訳ない。だけど僕に何も云ってこない。そもそも、本当にもうデジモンをリアルワールドに連れてこさせたくないのなら、こんなディスクを家の書斎に置いておく訳ないと思うんだ。いつ僕の目に止まるか知れないんだからね。だから、つまり――」
啓人は健良の顔を覗き込む。
「ジェンのお父さんは、ジェンにこのプログラムを解読してもらいたくて、わざと書き変えたディスクを書斎に置いていたかも知れないってこと?」
健良は頷く。
「でも、今の僕には難しすぎて、このプログラムの半分も分からない。それに解読できたからって、実際にデジモンたちと会えるかどうかなんて保証はどこにもないしね。だけど――」
健良はカタカタとキーボードを叩く。
「僕は、僕が自分の力でやらなければいけないことだと思っている。昔デジモンを作り出したのはお父さんたちだし、あの闘いのときにも、結局はお父さんたちのサポートを必要とした。大人の力でデジモンたちと強制的に別れさせられた。でも、今度は僕が…僕の力でテリアモンと再び会う為に、頑張らなきゃいけないんだ。」
健良の鋭い眼差しに、啓人も頷く。
「うん。ジェンはやっぱりすごいや。僕は何にも力になれないけれど――僕もギルモンに会いたい。だから、応援する。頑張ってね、ジェン。」
健良は啓人に向かってにこりと笑う。
しかし、健良の瞳の奥底にあるもう一つの感情に、啓人は気づいていなかった。
(僕は、もう一度、テリアモンに会いたいんだ…。いや、必ず、会わなくちゃいけないんだ。僕の力で――)
遠くにある健良の感情は、啓人には強い意志のように見えた。
何故だか、急に、啓人は健良に聞いてみたいことが浮かんだ。
「ねぇ、ジェンは、誰か好きな人っているの?」
がごっ。
ぶぅいいぃいいいいいん。
変な音を立ててパソコンがフリーズした。
健良の手元が狂って、違ったキーを押したらしい。
「あぁああ!」
「うわ、ジェン、何やってんの?」
慌てて再起動させる健良を、啓人は不思議そうに眺める。
健良がこんな風に動揺するのを見るのは初めてだった。
「…タカト、君は人のことに興味を持つより、自分の心配をしたらどうなんだい。」
「え。」
「…なんでそう、突拍子もない事言い出すかなぁ…。」
ペースを崩された健良はいつになくうろたえていた。
啓人は別に、興味本位で尋ねたわけではなく、自分より大人びた健良に純粋に聞きたかっただけなので、健良のうろたえっぷりに逆に驚いた。
そして、何故自分がそんな質問をしたのかも、正直よく分からなかった。
数分後、啓人の頬の紅葉は、やっと、薄く変化していった。
- 2005/06/17 (金)
- 『虹をみること』
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