作品
piece 3
2.
◇
何故あんな状況になってしまったのだろう。
よくは思い出せない。
ただ…、一つだけはっきりとしていることがある。
あの日、先に誘ったのは淑乃の方からだった。
◇
任務でミスをした。
とあるデジモンが都内に出現した時、淑乃が記憶処理装置の操作を誤ってしまい、一般住民のデジモンの記憶を完全に消去出来ていなかった事が判明した。
それが雑誌記者だった為に、あと少し判明が遅ければ、デジモンの存在が一気にマスコミに知れ渡り、収拾が付かなくなるところだった。
トーマのとっさの判断でその雑誌記者を突き止め、迅速に処理したために大事にはならなかったものの、それなりに経験と実力を兼ね備えたDATS隊員の淑乃にとって、それは許されないミスであった。
薩摩隊長に大目玉を喰らい、その日の当直だった淑乃は、皆が帰宅して静かになった指令室で、報告書という名の反省文を作成していた。
薩摩隊長の一言が胸に突き刺さる。
――最近の淑乃は、任務に対しての緊張感が欠けている、と。
原因はわかっていた。
トーマが、EU本部への派遣を命じられたのだ。
博士号を持つ科学者であるトーマは、本来は開発部に所属するべき人物だ。
ただ、彼がデジタマを孵化させ、パートナーデジモンを持つ数少ない人物でもあるため、デジモン出現率の高い日本支部に所属し、 DATS隊員の役目も掛け持っていたのである。
だからトーマの派遣は予測範囲内のことであり、突然のものではなかったはずだ。
しかしその事をトーマから聞かされたときに、淑乃は思いがけず動揺してしまった。
それは心のどこかで、その日が来るのを否定し、考えないようにしていたからかも知れない――
噂では、今回の派遣はEU本部たっての希望らしく、一時派遣ではなくこのまま本部へ配属されるのではないかと云われている。
淑乃には、それが辛かった。
淑乃の日常は、今やトーマがいる事が当たり前になっていたのだ。
パートナーのララモン、薩摩隊長、恵と美樹、そしてトーマ。
恵まれた環境と人間関係に慣れてしまった心には、どこか気の緩みが生じてしまっていたのかもしれない。
本来、こんな事では駄目なのだ――
信頼関係と、アットホームな関係は違う。
デジモンを取り締まり、人間界の平常を守る任務を負ったDATS隊員は、常に冷静でなければならないのに!
些細なミスで済むうちはいい。
しかし、自分の不注意のせいでもしララモンに傷を負わせてしまったら――
更に、多くの人たちを危険な目に遭わせてしまったら――
淑乃の思考は、瞬く間に深い恐怖感に変わっていく。
こんな時、いつも目に浮かぶのは、幼い頃の泣きじゃくる自分と、ピアノの発表会の舞台の上だった――
努力して日々の練習を怠らず、才能があると褒められても、いつも本番には緊張と恐怖で実力の半分も発揮できなくなる駄目な自分。
お姉ちゃんたちは出来るのに、私はいつも駄目――
ある時は自宅のリビングで、ある時は会場の控え室で。
閉じこもり、耳を塞ぎ、母親に八つ当たりをしてしまう最低な自分。
いつも私は、いざと言う時に駄目になるのだ…。
淑乃はそこで思考を停止する。
気付くと、既に日付は変わっており、目の前の真っ白な報告書が目に入る。
はぁ、とため息をつき、自販機のコーヒーでも買いに行こうと腰をあげたとき、ドア付近に気配を感じで思わずびくりとした。
そこに居たのは、非番のはずのトーマだった。
「トーマ君…?」
驚き、近づく。トーマは淑乃に軽く笑みを返した。
「どうしたの?今日の当直は私だけど?」
「少し整理したいデータが残っていたので…」
「…こんな夜遅くに?」
「自宅のパソコンよりも、ここのシステムの方が早いですからね」
深い思考に陥っていた時に突然現れた人物が、心の中に充満していたトーマであることに、淑乃は少なからず動揺した。
それを誤魔化すように、非番でありながらきちんとDATS隊員服を着ているトーマに笑いかける。
「真面目なのね…」
「そんな事無いですよ」
その口調は優しいけれど、やはりどこか社交的で――そう、自分とトーマの関係など、同じチームの仲間でしかないのだと、淑乃は当たり前のことを思い知らされる。
だからそのときの淑乃は、不自然に深夜にDATSにやってきたトーマが、どこか悲しそうな表情をしている事に気付く事が出来なかった。
「私なんて、反省文すらまだ完成してないもの」
真っ白の報告書を掲げて、冗談めかしく笑う。なんだか自分が酷く惨めだった。
「…ごめんなさい」
小さくつぶやいた淑乃に、トーマが顔を傾げる。
「今回の件…私のミスを、かばってくれて」
「ああ、そのことですか。気にしないで下さい。その場で気付けなかった僕にも責任はありますから」
優しさが自分の心に辿り着く前に痛みに変わってしまう。
トーマのフォローの言葉さえ、淑乃には胸に突き刺す針に思えた。
「…私、DATSに向いてないのかもしれないね…」
肩を落とし、目を伏せる淑乃にトーマが驚いたように声を強めた。
「そんな事ありません。淑乃さんは優秀な隊員です」
「でも私、いつもトーマ君に助けてもらってばかりだったもの…。私がDATSに入れたのだって、ララモンと出会えたことが決め手だったんだし、私、いつも本番に弱い性質だから、資格とかたくさん取ってても結局は実践で発揮できないし」
――お父さんもお母さんも、だいっ嫌い!
淑乃の目の前に、幼い頃の自分が現れる。
――お姉ちゃんたちはいつも出来るのに・・・
弱い自分が、そこにはいた。
「私、もうDATS辞めようかな。大学に入るか、就職するか――普通の女の子の生活に戻るのも良いかもね。ララモンには申し訳ないけど、ララモンだったらDATSでの実績があるし、悪いようにはならないと思うわ」
「淑乃さん」
普段見せない淑乃の態度に、トーマが明らかに困惑しているのが解った。
恥ずかしい!こんな自分を見せたいわけではないのに。
むしろ、トーマには絶対に見せたくない自分の素顔だった。
トーマにこんな自分を見せたくないのに…。
トーマは、遠くに行ってしまうのに。
結局は。
結局は、そういうことなのだろうか。
そう云えば、トーマとはずっと二人で任務に当たっていたが、こんな真夜中に、二人きりになることなど無かった。
そこが見慣れた指令室であるが故に、普段と異なる状況に、淑乃は揺れた。
突然、目の前にチカリと白い光が見えた。
それを合図に、淑乃は弾かれたように歩き出す。
「私の何がわかるっていうのよ」
トーマの目の前まで近づき、顔を覗き込んだ。
自分を見つめ返す、澄んだ青い目の輝きに、淑乃は吸い込まれるような眩暈を覚えた。
相手が一瞬たじろいたのを感じたが、気にもせず淑乃はトーマの背中に腕を回した。
「私だって、トーマのこと何も知らないのに…」
初めて呼び捨てで名前を呼ぶと、トーマの体が、小さく震えたのを感じた。
淑乃は構わず、腕に力を込めて自分の身体をトーマに押し付ける。
何が信頼関係。何がプロ意識。何が公私混同を避ける、だ。
まだ、ミーハ―な態度で黄色い歓声をあげるオペレーターたちのほうが健全だ。
淑乃は誇りを持つべきDATSの指令室で、トーマを誘惑している…
最低な女だ、ともう一人の自分が遠くから眺めているのを感じながら――
- 2007/02/20 (火)
- 『piece』※R-15
タグ:[トーマx淑乃]