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同窓会通信 No.43 年間報告 平成14年度
Annual Report 2002 Department of Otolaryngology
Faculty of Medicine University of Tokyo

国立大学の法人化を控えて
筑波大学大学院教育研究科長 吉 岡 博 英(昭和49年入局)

 同窓会の皆様におかれましては、ご健勝にてご活躍のことと推察申し上げます。筑波大学教授に就任し、音声・言語障害研究分野の代表となった際に、本報告にてご挨拶させて頂きました。それから5年余が経過し、再び近況を報告する機会を与えられましたので、一筆啓上したいと思います。
 皆様、ご存知かと思いますが、国立大学は、平成16年4月を以ってすべて国立大学法人となることが決定しており、大学では、それに向けた改革議論で喧しいこと甚だしい状況です。具体的な課題として、文部科学省から、平成16年から22年までの6ヵ年間の「中期目標・中期計画」の提出を求められており、いわゆる旧制7帝大に比し、大学院修士課程の部局化に乗り遅れたとの認識のもとに、現状を危惧している筑波大学の現執行部は大学院各研究科に対し、早急に改革案を纏めるよう迫っている、といった具合です。
 ここでは、かつて華々しく新構想大学として時代を先取りするかのようなシステムを導入し、一方では忘れることのできない壮絶な学園紛争を経て成立した管理大学であるという負の側面を内包した30年の歴史について、その一端を担ってきた教員としての私見や、現在の研究科長としての立場での意見を述べる場でもありませんし、また先生方のご興味とは必ずしも一致しないことも承知しております。従いまして、20年程前に母校を離れ、一同窓会員として見た最近の東大の動向に関しての感想を述べさせて頂きます。
 最近のニュースで、まず何よりも不可解なことは、東大が停年延長に踏み切ったことです。通常の公務員の定年である60歳に研究職、教育職の現場を勇退し、全国的な規模で活躍できる文部科学省を含む諸省庁の管理部門や民間企業(我々の医学部関係では民間病院が相当しましょう)の管理職等に積極的に進出して後進に道を譲るという、日本で唯一の良き伝統を自ら捨てたとしか解釈できないのは私だけでしょうか。工学部や医学部ではかなり反対の声が強かったとも伺っていますが、年金の支給開始年齢の引き上げに合わせるためという、何とも他の公務員を無視した低次元の本音が実しやかに語られていたことを、フランスのエスプリを紹介することを生業としていた当時の総長はご存知だったのでしょうか。
 この結果は確実に筑波大学を含めた地方の大学に悪影響を及ぼしています。すでに幾つかの国立大学では停年延長に踏み切り、私どもの大学でも「はじめに停年延長ありき」というところから議論が始まっています。そもそも公務員という共済年金を含んだ例外的な終身雇用制度のもとで、自らの停年を「学内の申し合わせ」という内規の改定で延長しようという論理は世間では全く通用しません。幸いか不幸か、大学が法人化された際には、教官は非公務員となることが決まっており、それにもかかわらず、「延長を!」と言い出す論拠はありません。私個人としては、他の公務員と同様、60歳定年制、すなわち現在62歳あるいは63歳停年制を敷いている大学では、結果的には短縮とすべき、と思います。その上で、欧米等に見られるテニュア制度による年齢制限を撤廃したシステムの確立、ならびに他大学や民間との人事交流を活発化することが急務と考えています。
 もうひとつ、東大で気になることは、昨年度の「年間報告」で加我教授も巻頭で触れられておられましたが、一時期、私も在籍した「医学部附属音声・言語医学研究施設」が名実ともに本年3月をもって、事実上消滅したことです。ここ10年間程の東京大学全体での大学院部局化に伴う改革の行方を他大学から重大な関心を持って眺めていましたが、私自身の古巣に「遂に来るべき時が来たな」というのが偽らざる実感です。
 我々耳鼻咽喉科医局の同窓から見ますと、藝大出の颯田琴次先生から脈々と流れる音声言語医学の伝統を声帯振動のストロボ撮影で結実させた切替一郎先生がご尽力されて創設された音声研、というイメージが強いかと存じます。しかし、音声研設立の実質的な端緒は、初代専任教授で当時電気通信大学助教授であられた藤村靖先生が、X線マイクロビームという放射線障害を最小限に抑えた舌運動の観察装置という、当時では画期的なアイデアを引っ提げて、医学部の中に是非その建設を、ということで当時の切替先生のもとを訪れ、その概算要求を文部省へ提出したことにあった、と私は理解しています。私が助手として音声研に移籍した昭和52年当時には、藤村靖教授は既に40代半ばで東京大学を退官されて、米国ベル研究所の室長に移られており、彼の地で全世界共用のX線マイクロビーム装置の建設をすべく、まさに東奔西走し、あらゆる画策を練っておられました。その後、先生はウィスコンシン大学に念願の装置を完成させ、日本には時折予備実験をするために一時帰国され、そのためのプロトタイプの装置が音声研に残されていた、というのが当時の研究施設の実態であったと記憶しています。
 藤村先生に初めてお会いしたのは、音声研から3年間の出張ということで、米国ハスキンス研究所へ赴任して間もない時でした。「私は、ベル研のオサム・フジムラで、音声研には、毎年1万ドルを送金(多分、ベル研からの委任経理金のことを指していたのでしょう)している。だから、君も私の研究を手伝ってくれ」と突然、強い日本語訛りの英語で、文字通り「押しの一手」で言われ当惑したことを今でも鮮明に憶えています。新美先生から、嘗てオサムが音声研の教授であったことや、彼の伝手で私を含む歴代の音声研メンバーがハスキンスに継続して出張(駐在というべきか?!)していることを異国の地で知りましたが、すべて後の祭でした。それ以来、藤村先生の私への印象は良くないようです。第48回日本音声言語医学会の際には、特別講演者としてオハイオからお招きしようと、ずっと思案していましたが、結局断念いたしました。
 退官パーティで並み居る東大教授を前にして、「同じ職場に5年以上いると駄目になる!」との名言を吐いてベル研に勇躍移ったという藤村靖氏の研究者スタイルと、今日の大学での「停年延長」や「任期制」の議論や「研究費の外部資金導入促進」「大学院重点化」「先端科学技術分野の時限付設置」等のアイデアを重ね合わせると、20年30年、あるいは洋の東西といった時空を越えた氏の壮大な試行、そして時には大いなる錯誤がすべて当てはまるように感じられます。
 いずれにせよ、特定研究者による特定プロジェクトのための附置研であった音声研は、その使命を全うした、ということなのでしょう。合掌。
{平成15(2003)9月}


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同窓会通信 No.39 年間報告 平成10年度
Annual Report 1998 Department of Otolaryngology
Faculty of Medicine University of Tokyo

筑波大学教授に就任して
吉岡博英(昭和49年入局)




 同窓会の皆様におかれましては、益々御健勝にてご活躍のことと推察申し上げます。昨年4月1日付にて筑波大学心身障害学系助教授より同教授に昇任いたしましたので、遅ればせながら御挨拶申し上げます。
 思い起こせば、本院耳鼻咽喉科医局長を歴任した後、当時の国立病院医療センターに出向していた時に、とある方からの突然のお招きで助教授として赴任して以来十余年が経過したことになります。
 当時の武蔵野線は短い4両編成で、20分に一本程しかなく、自宅の浦和から京浜東北線、武蔵野線、千代田線、常磐線と乗り継いで、土浦の駅を降りてから、小一時間もバスに揺られて、都合3時間近く掛かってやっとの思いで大学に辿り着いたのを、昨日のように思い出します。その後、常磐高速、外郭環状道路が整備されて、皆様には信じられないかと存じますが、朝の時間帯でも車で1時間足らずの通勤となりました。音声研から米国ハスキンス研究所に留学していた当時は、現地の人のように郊外に住んで車で通うという生活をしていましたが、その時と殆ど同じアメリカンスタイルとでも申し上げれば御理解頂けるかとも思います。
 アメリカといえば、今でも時々、ふっと自分はアメリカに毎日通勤しているのではないかと錯覚に襲われることがあります。申し遅れましたが、私が所属しております心身障害学系は、学際的に様々な障害を扱う教育、研究組織で、私以外にも、知的障害を専門とする小児科の医師やかつては肢体不自由を扱う整形外科の教官も複数おりましたが、主流は、旧東京教育大学や高等師範学校の流れを汲む特殊教育を専門とする文科系です。我々は、障害の病態を解明したり、その責任病巣を研究するのが原則ですが、彼等は、まず初めに文部省の政令省令、あるいは施行規則などが、どのような歴史的背景で書かれ、それがどのように解釈されて現場で展開されているのかと考えます。また彼等の文献の中には、常に固有名詞を大切にして数多くちりばめてあります。我等の世界では、病名に固有名詞が残っているのは、所詮、医学者の怠慢であって、病態の本質が明らかになれば、早晩、固有名詞は書き換えられる運命であることなど、皆知っています。
 しかし、これこそが人種のるつぼにいるメリットだと、感じるようになりました。障害についても、個々の事例を仔細に見るだけでなく、市町村など地域を単位としてマスで考える保健施策の重要性やそのダイナミズムの面白さなど、彼等と手を携えて地域に飛び出していって初めて知りました。また、筑波大学は、御存じのように文字通り垣根の低い総合大学であり、昔のこちらの論文を握り締めた文芸・言語学系の先生が、こちらのライフワークである言語の生理学的研究をめぐって議論を吹っかけて来ます。こちらも負けじと言語学を勉強して、今では、障害学の中で細々と開講していた「実験音声学」の授業が、いつの間にか、隣の人文系の学部生(新構想大学筑波では学類生と呼ぶ)が前列を独占するようになって、「ここはアメリカだね。僕はヒスパニックで、前の一列はフィリピーノ。後ろで寝ている君達は原住民インデイアンだ」と言って授業を始めると、皆はきょとん。「あの先生、昨日は保健所の健診に行った小児神経のドクターよ」「本当は言語学が専門で、趣味で医学部に入ってしまったらしいって、変ね」「金曜日は東大の後輩に額帯鏡の被り方を教えに行くんだって、やけににやにやして、いやーね」「本当は手術が大好きで、何でも月曜日は、都内の病院で音声外来とのどの手術をしてるって。それって、本当は耳鼻科の先生がやるんじゃない、あぶなーい」とのひそひそ声が聞こえたり、聞こえなかったり。
 教授に昇進しても、特に大学での生活には変わったことはありません。唯我独尊。未だ何人も歩んだことのない荒野のけもの道と覚悟して飛び込んだ道が、実は、知的興味に溢れ、愉快なカルチャーショックを満載したアメリカンハイウェイーだと気づいたのが、いつ頃だったかは定かではありません。一つだけ心残りなのは、管理職ということで、常勤的非常勤職である金曜日のポリクリ講師を辞退するよう大学から指導があり、加我君孝教授に非常勤講師の辞任を申し出ざるを得なかったことです。平成6年4月より丸4年間に亘り、大変貴重な経験の機会を下さり、誠に有難うございました。私のポリクリで、僅かひとりでも、耳鼻科の面白さや奥行きの深さに気付いて鉄門を巣立って行ってくれたらと、一期一会の気持ちで諸君と接して来たつもりです。また、日耳鼻の所属に関しましては、当時の渡辺東京都地方部会長に特段のご配慮を頂き、筑波大学において正式に兼業が認可されている東京世田谷の公立学校共済組合関東中央病院耳鼻咽喉科に置かせて頂くことに致しました。東京都地方部会、特に病院群に属する同窓の諸先生方、宜しく御指導の程お願い申し上げます。
{平成11(1999)年9月}




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東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室{明治33(1900)年1月19日開講}では、教室の年間報告という形で同窓会通信を毎年発刊しています。昭和49(1974)年に入局した著者が当時の教室主任の加我君孝教授から「近況報告」をするようにとのご指示を受けて、公務の間を縫ってしたためた医局同窓の耳鼻咽喉科医師に向けた一文です。それぞれ
研究科長在任中 {平成15(2003)年9月}ならびに教授就任直後{平成11(1999)年9月}のものです。