このカルチャーショックを忘れずに
   教育研究科長 吉岡博英

 外国人教員研修留学生第22期の皆さんには、心からお喜び申し上げます。ペルーから3名、タイから2名、そして韓国、中国からそれぞれ1名の計7人の方々です。つくばでの1年半の研修を修了して、これからは、母国に戻られて活躍されることを祈念いたしております。
 留学生の諸君とは、とても近親感を持って、機会あるごとに積極的に接して来ました。私もかつて異国の地で学んだ時期がありました。医学部を卒業して、耳鼻咽喉科の臨床医としてそれなりに実績を挙げ、将来について色々と考えている時でした。アメリカのアイビーリーグのひとつであるYale Universityの附属の研究所で、音響音声学の世界では、当時、まさにメッカといわれていたHaskins Laboratoriesでの研究留学の話で、あまり深く考えず、ふたつ返事で行くことに決めてしまいました。
 諸君は、どのような経緯で、今回の留学を決め、そしてどのような成果を背負って今回戻られたのでしょうか。人生には多くの岐路があり、その都度の判断の積み重ねが人生そのものである、といっても過言ではないでしょう。勿論、いくつかの選択肢があってそれから自由に選べる、恵まれた岐路ばかりではないことは、皆さん先刻ご承知でしょう。むしろ、向こうの道には、薔薇色の人生が垣間見えるのに「なんで自分はこんな道を進まねばならないんだ」と思える場合が多いことは、諸君より、若干齢を重ねた分だけ実感として分かっているつもりです。
 私にとってのアメリカでの3年半に及ぶ留学生活は、あらゆる面で決定的な選択でした。医師としての臨床を離れ、音声言語に関する文字通り学際的な研究環境でのカルチャーショックでした。中枢での発声・発語に関する生理学的メカニズムについて一応の研究業績もあり、それなりの学問体系を身に付けているつもりでいましたが、それだけでは太刀打ちできないことを即座に悟りました。日本から言語学に関する書物を取り寄せ、音響工学に関する専門書を乱読し、言語音認知に関する心理学の文献を貪るように読みました。毎日、毎日が実験計画の練り上げとその遂行、そして論文作成に明け暮れていました。ひょっとすると、今自分は世界最高水準の研究をやっているんだと、少なくともその時は信じて疑わず、胸を張って研究に文字どおり没頭していました。
 それから、もう20年ほどが立ちました。あの時の興奮と情熱は、未だに私の心の奥底で種火のように深く、静かに絶え間なく燃えています。周囲の人間のいずれもが「医者としてのキャリアを捨てて何で筑波なんかに行くんだよ!」、「音声学なんぞに手を出してどうするつもり?」といった雑音が未だに聞こえることがあります。しかし、自分としては「あの留学の体験が無かったら」とは、一度も考えたことはありません。留学でのカルチャーショックが今の自分の生きざまを決定付けたことだけは間違いない事実です。

教育研究科の留学生諸君には、"Don't hesitate to contact me, at any time, anywhere!"と伝えてありますが、皆、礼儀正しく事前に事務室に用件を伝えてからアポを取って来ます。それに引き換え、「にほんじん」の学生は、ほぼ例外なく、「はんこうを下さい」とだけ言いながら、つかつかと科長室に入ってきて、こちらを「朱肉番」と心得ているようです。これは、第22期生の報告書の「序文」です。{平成15(2003)年3月}