金沢浪漫紀行回顧録
◇プロローグ
○1992年、平成4年10月。
この年、国民文化祭が金沢で行われた。すべてはここから始まる。
○1993年、平成5年。
そしてこの年、金沢浪漫紀行がスタートする。
7月18日(日)の大乗寺での史跡コンサートを皮切りに、
8月12日(金)には、卯辰山相撲場で星空のコンサートが行われた。
○1994年、平成6年。
8月12日(金)に星空のコンサートが金沢城址公園で行われた。
翌日の8月13日(土)には、市民ステージ(後の市民コンサート)があり、実はこの時、私は客として見に来ている。私の浪漫紀行との接点はここから。城壁と森林に囲まれたステージに、「あれに出てみたい」と思って見ていた。
○1995〜1996年、平成7〜8年。
この頃はどちらかと言うと、星空のコンサートよりも市民コンサートの方に興味を持っていた。
ロックあり、ジャズあり、ダンスあり、そして邦楽も・・・。ひとつのジャンルにとらわれず、ひとつのステージで繰り広げられるパフォーマンス。そんな市民コンサートに興味があった。
史跡コンサートに至っては、まだ存在すら知らなかった。
◇ボランティアデビュー
○1997年、9年。
私のボランティアデビューである。前年のコンサートのアンケートに記入したのがそもそものきっかけ。
星空のコンサートは金曜日に行われた。朝、土砂降りの雨が降って、その対応にタイヘンだったらしい。コンパネをかき集めて、出演者の足場を作ったり、会場では水はけに大あらわだったらしい。
この日は仕事だったため、仕事が終わってからの参加。楽屋警備をしていた。
次の日の市民コンサート。
前日の雨が信じられないようないい天気。足元はグチャグチャだったけど。この日はケータリング班で、出演者の楽器運びを主に手伝っていた。
尚、出演者の選出方法がオーディション形式になったのはこの年から。
史跡では、能楽堂のハープを聞きに行ったのが最初。ボランティアとしてはまだ参加していない。
○1998年、平成10年。
私にとって、運命の年となる。
星空のコンサートに、ブラスバンドが参加することとなった。所が夏はコンクールがあるため、思うように集まらない。練習らしい練習もできず、ほとんどぶっつけ本番でステージに立たなければならないと言う、ブラスの人にはちょっと酷なデビューとなってしまった。
この日、私はセットチェンジ班のチーフをする事となる。特に星空のコンサートにおいては、ボランティアの中でブラスのことがわかるのが自分だけという事もあり、そのパイプ役も兼ねていたわけだ。
次の日の市民コンサート。
星空のコンサートと違って、入れ替わりが激しいので、セットチェンジ班としては、むしろこっちのほうが忙しかった。しかも、音がうるさくてインカムがよく聞き取れなくて慌ててしまった。
史跡は・・・、パス。
◇金沢市民芸術村にて
○1999年、平成11年。
この年、「市政110周年にちなんで、ブラスを110人でやろう。」なんてプロデューサーが言い出したもんだから、さあタイヘン。前年の反省もあり、この年から4月から月いちで練習する事に。その練習初日には、確か40人前後ほど集まったんじゃなかったかな?徐々に増えて、結局104人となった。110人には及ばなかったが、それでも100人超えたのだ。奇跡だ。
この年から、お城は工事中で使えないため、芸術村で開催することに。
今回は出演者として参加。朝はボランティアとして準備をして、昼のリハーサルからは出演者になり、それが終わるとまたボランティアになって後片付け。タイヘンだったけど、なぜか充実していた。
オープニングファンファーレ、ブラスバンドのステージ、そしてバンダ。ステージ裏は、おちおち休憩しているヒマがないくらい大忙しだった。
次の日の市民コンサート。途中から雨が降ってきて、セットの位置がだんだん変わっていくというハプニングもありました。
忘れられないのが、ギターの太田真佐代さん。オーディションの時の話。出演者側からすると、このオーディションは異様な雰囲気の中で行われていたらしい。そこに1人での参加だったせいか、すごく緊張していた。でも、とても素晴らしい演奏で、それ以降、史跡コンサートに出演することになった。
アトリオで、太田さんとパウダーをゲストにプレキャンペーンをしたのも、今ではいい思い出ですなァ。
史跡は、芸術村の里山の家と尾山神社を客で、東山の真成寺はスタッフとして初めて参加した。
金沢浪漫紀行スペシャルとして、「諏訪内晶子ヴァイオリンリサイタル」を開催。
この時は参加していない。前日の準備だけ。
○2000年、平成12年。
この年、石川県トランペットソサエティ(ITS)が発足。このITSがブラスバンドのステージに参入。トランペットだけで30人くらいになったんじゃなかったかなァ。そんなブラスバンドって、本来ありえない!
また、この年からカラーガードが参加。それ以降、ブラスバンドの演奏に華を添えてくれることになりました。
この年も、出演者としてステージに立たせていただきました。時には出演者として、時にはスタッフとして、忙しかったけど、全然苦にならなかった。むしろ、タイヘンだったからこそ楽しかった。
市民コンサートの方は、駐車場係だった。ステージを横で見ながら、気楽にやっていたような・・・。
史跡は、大乗寺と芸術村にスタッフで参加。
芸術村のホルンアンサンブルに、アレンジを手がけたボブ佐久間さんも来ていた。ボブさんと浪漫紀行との付き合いはここからとなる。
スペシャルとして「アジアの巨匠たち」を開催。これは参加しました。ドア係をしてました。
○2001年、平成13年。
次の年、金沢城に戻ると言う事もあって、一度スタッフの視点で見てみたいと思い、この年はスタッフオンリーで参加。呼び出し班として、各工房の控え室からステージへ送り出す係をしていた。
市民コンサートは、久しぶりのセットチェンジ班。K-CUBICの人達と一緒にやりました。K-CUBICは、芸術村のサポートスタッフとして活動しているボランティアグループ。普段芸術村で鍛えられているだけあって、てきぱきと仕事していたのはさすがでした。おかげで楽しくできました。
史跡では、兼六園に時雨亭が復元され、そのこけらおとしとして史跡コンサートが行われました。また、金石の専長寺は客で、寿経寺の民話と小幡さんとのコラボはスタッフで参加しました。芸術村のマリンバは朝の準備だけ参加。色んなマリンバがあり、中でも木のかたまりのようなでっかいものまであり、「これもマリンバなんですか?」て思わず聞いてしまいました。
今回のスペシャルは、史跡コンサートが通算100回を迎える事になり、史跡スペシャルとして開催。ドア係をしていました。また、色んな展示物を作成したのも、いい思い出ですね。
夏には、沖縄から来た子供たちで『花やから』が行われました。客で見ましたが、子供とは思えないのびのびした演技に感動しました。
ン〜、こうして振り返って見ると、中身の濃い1年だったんですねェ。
◇金沢城にて
○2002年、平成14年。
この年から、夏に行われる星空のコンサートと市民コンサートを「MUSIC WAVE」として開催。場所も金沢城に戻りました。更に、昼に市民コンサート、夜に星空コンサートと一日で行いました。
この年、私は出演者として参加。「お城のステージに立ちたい」というかねてからの夢が実現しました。この頃から、大勢でのお祭り騒ぎ的なものではなく、吹奏楽としてしっかりした演奏をしようという方向になっていく。人数も50人弱になり、その意味では本来の吹奏楽のスタイルになった。
そういえば、フリーマーケットもやりましたね。この日は暑かったので、タイヘンだったみたいです。
史跡は、金石の本龍寺は客で見に行きました。それだけ?みたいです。
余談ではありますが、この年、芸術村にパフォーミングスクエアが誕生。それまでドラマ工房でしていたブラスの練習も、ここでするようになりました。(もちろん、合唱やオケの練習も)
ちなみに設計をしたのは、海野洋司先生です。多才な方ですねェ。
○2003年、平成15年。
これまでは、星空のコンサートの次の日に市民コンサートをやっていました。前年は、それを一日でやりました。 この年は、星空のコンサートの前に市民コンサートをやろうと言う事に。ブラスバンドは、その市民コンサートのゲストとして演奏する事になりました。
なので、まずは市民コンサートから。
ずっとお城の中のステージでやっていたのを、今回は文化ホールで行いました。私はスタッフで、二階席のドア係でした。一階席に比べて、特に神経を使う場面もなかったので、二階席からじっくり演奏を聞かせていただきました。(もしかしたら、特等席?)
事件(?)が起きたのは、星空のコンサートの時。
台風の襲来。前日までかなりの激しい雨と風。壊れた家も出たんじゃなかったかな?これまで、少々の雨でも実施してきた星空のコンサートですが、初めて観光会館に変更することになりました。
毎年、1〜2万人くらいは見に来てくれているこのコンサート。観光会館では2000人くらいしか入らない。当然、入れない客も出てくる。客の対応にはタイヘンだったことと思います。私はホールの中で、ロープを張って客を誘導する係をしていました。
当日は一転して晴れましたが、機材の移動や出演者、スタッフの連絡。何よりも、お客の足(お尻?)も濡れてしまう事なども考えると、晴れたからと言っても、お城での開催は難しかったかもしれないですね。こうした野外のコンサートは、晴れればいいけど、雨が降るといかにタイヘンか、実感させられました。
ゲストは奇しくも前回と同様、森山良子さん。それをネタに笑いを取るあたりは、さすがですね。
史跡は、金石の大野湊神社のハープは、楽器運びのお手伝いもあってスタッフで参加。
湯涌創作の森は宗次郎さんでしたが、諸事情で参加できませんでした。ちょっともったいなかったかなァ。
◇変革期
○2004年、平成16年。
この年から、夏のコンサートは星空のコンサートのみとなり、市民コンサートは、翌年の2月開催となった。
今回は、史跡から話さないとつながらないので、まずは史跡から。
史跡は大乗寺と深谷温泉のみ。大乗寺はスタッフとして、深谷温泉は客で見に行った。
深谷温泉の時の話。
その時の出演は、富山で活動しているスティールドラムのグループ。この深谷温泉には能舞台があり、当初はここでやる予定だったらしい。ただ、この日は雨が降ってあいにくの天気と言う事もあり、中のお座敷でのコンサートとなった。途中、能舞台を使って演奏すると言う演出もありましたが。
とにかく、すごく盛り上がった。特に後半、スティールドラムのリズムに合わせてみんな踊り出してしまうほど。アンコールは「上を向いて歩こう」で、大盛況のうち終わった。私自身、この興奮がしばらく消える事がなかった。こんなに心に残ったコンサートは初めて。
で、星空のコンサート。星空のコンサートに、ブラスバンドが再び参加。
ブラスの練習の時、演奏曲目の中に「坂本九メドレー」があり、練習中からこの曲を聴くたびに、あの史跡でのスティールドラムの興奮が蘇ってきた。
今回は、観客導線という係を担当した。観客をステージへご案内したり、また、立ち入り禁止の所に入っていかないように警備するという所を担当する事になった。復元された菱櫓の近くで、観光客の写真サービスもしていた。
そこからはステージは殆ど見えなかったけど、音はすごく鮮明に聞こえた。ステージからは結構離れているはずなのに、こんなによく聞こえるとは思わなかった。
驚いたのが、遅くなっても入ってくる客がいる事。9時近くになって、そろそろフィナーレの時間なのにまだ入ってくる人がいる。別の角度から見てみると、今まで気がつかなかった事もわかってきますね。
年が明けて、市民コンサート。
餅つきと言うアトラクションもありました。
ゲストとして、桜ヶ丘高校の吹奏楽部と、遊学館高校のバトントワリング部が参加。この遊学館高校のバトンは、実は一回目の市民コンサート(市民ステージ)に出ている。この時は金城高校という女子高だったのが、共学となったのをきっかけに、校名も変わった。高校生とは思えない素晴らしい演技を披露してくれました。
この時はドア係でした。客を客席に誘導したり、写真を撮る人や携帯電話の音などを注意するお仕事です。本番は中で警備をしながら(本当はいけないんだけど)見させていただきました。
○2005年、平成17年。
この年から、ブラスバンドの出演はなくなりました。(寂しい!)
星空のコンサートでは会場班をやりました。ブルーシートを敷いて客席(?)を作ったり、客をあいているスペースに案内したり。思っていたより忙しかった。気がつくと、後ろには人がい〜っぱい!芝生に座って聞いている人がこんなにいるとは。やっぱり、星空のコンサートは野外に限りますねェ。
史跡は、この年は個人的に密かな記録を作りました。
史跡の完全制覇。実行委員会主催のものはスタッフで、そうじゃないものは客として。自分のHPで、携帯用を作ったらミョーにハマってしまって。この年はちょっと頑張りました。だから私のHPでは、この年のものが一番充実しているのです。
年が明けて、市民コンサート。
金沢浪漫音楽祭として開催。今回も餅つきがありました。
ゲストに根上中学校の吹奏楽部(パーカッションアンサンブル)が出ました。
今回は呼び出し班で、この吹奏楽部の担当でした。この年は近年にないくらい寒く、この日も大雪が降っていました。中学生の中にも風邪を引いている人が多く、ちょっと辛そうでした。体調も万全とはいえない状態なのに、一生懸命演奏している姿には、心を打つものがありました。お餅の差し入れには喜んでもらえたようです。(ヨカッタ!)
○2006年、平成18年。
市民コンサートがなくなった。(ザンネン)
星空のコンサートも、「金沢浪漫音楽祭〜夏まつり〜」として、観光会館で行われた。
今回の係は、出演者の受付と楽屋の警備。要は、出演中の楽屋の荷物番。
毎回、フィナーレは『北斗』、『小さな世界』そして花火を上げて終わる。今回、初めてフィナーレに『北斗』をやらなかった。観光会館なので花火は無理だとしても、『北斗』のないフィナーレがこんなにしまらないものだとは。今思えば、すでに兆しはあったのかもしれない。
史跡は、この年は実行委員会主催ものはスタッフで参加しましたが、それ以外は見に行く事ができなかった。(2年連続の完全制覇はできなかった。ザンネン。)
芸術村では、日本古来の楽器(尺八)を外国人が演奏。まさに和洋折衷。ジャズアレンジにした事もあって、新鮮で楽しい演奏でした。
◇エピローグ
今回で、14年間続いたこの浪漫紀行はいったん幕を閉じる事となりました。改めてこの話を知った時は、やはり一抹の寂しさはありましたが、でも同時に、本当にこのまま終わるのか?とも思った。
長年、縁の下で頑張ってきた事務局(財団)、プロスタッフ、そしてボランティア。でも、この浪漫紀行はそれだけではない。この事業に協力して頂いた商店街や自治会の方々。また、出演して頂いた数々の出演者。なんと言っても、足を運んでくれた多くのお客さん。星空のコンサート以外では特に有名なタレントが出ているわけでもないのに、大勢の人に支えられてきたこれらのコンサート。それが、ホントにこのまま終わってしまうとはとても思えない。
浪漫紀行がスタートした14年前は、芸術村もない、音楽堂もない、何もなかった。それが今は、21世紀美術館やおもてなしドームもでき、まず金沢が変わった。また、その中から新しい力、新しい芽が確実に育ってきている。今はバラバラに活動しているこの小さな芽をひとつにできるのは、浪漫紀行しかないと思っている。
その意味で、14年前の古い浪漫紀行が終わる。今の新しい近代的な金沢と、古い歴史的な金沢とを融合した、新しいタイプの浪漫紀行。そんな新しいプロジェクトが必要なのではないのか。そんなことを思ったりする。
それはさておき、私は何をしようかな。
「1991年、平成3年10月末日。」私の日記によると、金沢に帰ってきたのはこの頃のようだ。まるで、この浪漫紀行のために帰ってきたかのように。縁と言うのか、運命とでも言うか、不思議なもので。しかもスタッフだけでなく、出演者としてステージに立つこともできて、いい勉強&経験をさせていただきました。
とりあえずはここでひと休みして、いわゆるリセットするのもいいかも。そして、次へ進むために、一度空っぽにして充電し、鋭気を養うのも時には必要かもしれない。