[ひとりごと]

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横浜ドリームランド@

1964年 昭和39年8月1日開園。
2002年 平成14年2月17日閉園。

○回顧
 
この横浜ドリームランドは、僕にとって、因縁浅からぬものがある。なんと言っても、ミッチのステージを初めて見たのがここなのだ。まだ16〜7の頃。わけあって、東京の親戚の家にいた。東京ならどこかでやっているだろうと、コロムビアに問い合わせて見に行った。そして、そのドリームランドでミッチのステージを見ていると、その横を音楽隊がパレードして通って行った。ブラスバンドをしていたこともあり、「ああいうのやってみたいなあ。」と、思いながら見ていた。それから紆余曲折の後、このドリームランドに晴れて入社。音楽隊の一員として、9年間勤めることとなる。このドリームランドがなければ、今の自分はない、と言っても過言ではない。
 そんなドリームランドが閉園となった。これも時代の流れと言ってしまえばそれまでだが。やはり、何か寂しいものを禁じ得ない。そんな中、このドリームランドの歴史を残そうというHPがあった。社員でもなかなか知らないような事まで記されている。又、閉閻間近のコラム等々。それらを見ていて、当時を懐かしく思い出す。

○ドリちゃん、ランちゃん&イメージガール。
 
ドリームランドのマスコットである。僕が入社した時は、まだいなかった。その翌年だったと思う。業者に委託せず、自主制作でイベントを行う。つまり、中間マージンをカットし、費用を押さえようというような事だったのではないだろうか。
 
例えば、イメージガールの起用。プロ(新人)、アマから募集し、オーディションを行い、次の年一年間、イメージガールとしてイベントをする。キャンペーンガールのようなものだろうか。
 
夏の夜に、ドリちゃんバンドとして、ライブのような事をしていたのも、この頃だった。音楽隊は、殆どがアルバイトで、社員は数人しかいない。その社員だけで何かできないか、ということでやっていた。なんとその横では、まだ売り出し中だった“太郎次郎の猿回し”をやっていた。“反省ザル”の次郎くんである。太郎さんも若かった。その次郎くんも他界し、今は3代目と聞く。そんな所でも、時の流れを感じる。
 
そして、マスコットのドリちゃんが誕生する。イメージガールと、ドリちゃんと、そして当時人気だったキン肉マンと。声を聞いてびっくり。本物の神谷さんの声である。更に音楽隊も加わり、ゲームをしたり、クイズをしたり。音楽隊の演奏でイントロ当てクイズもした。懐かしい〜。まだ、ランちゃんはいない。ランちゃんは次の年、ドリちゃんの妹として誕生する。
 そういえば、名前の由来知ってる?感のいい方は気がついてるかもしれないけど、ドリ(ーム)ちゃん、ラン(ド)ちゃん。最初聞いた時は、なんて安易な名前だろうと思ったけど、それも今では愛着さえ覚える。

○山にそびえるドリームランド
 ドリームランドは、小高い山の上にある。結果的に、これが自分の首を絞めることとなる。
 
例えば、土曜のオールナイトや、年末のカウントダウン。回りがドリームハイツや民家が建ち並ぶ町。又、山手にあるため、さえぎるものがないので、けっこう遠くまで響く。そのため、ナイター営業が出来ないのである。夏の風物詩の花火と、冬のスケート場だけ。こうした遊戯施設にとって、ナイター営業が出来ないのは致命傷である。ドリームランドが長年赤字を解消できなかった、大きな要員かもしれない。皮肉なことであるが。

○映画
 
実は、「ドリームランドの映画」が存在する。大船に撮影所があることもあり、松竹が制作している。宣伝用の、言わばプロモーション映画である。松竹が制作しているだけあって、俳優陣が凄い。岩下志麻。すごくキレイ!中村晃子。カワイイ!そしてナ〜ント、菅原文太。まだ新人の頃なのだろう。背広を着て、さわやか好青年って感じ。
 
そして、そこに映し出されているドリームランドは、まさに“夢の楽園”。まず、その広さに驚かされる。それこそ、1日では遊び切れないと言っても過言ではないくらいの広さである。音楽に合わせて7色に変わる噴水ショーがあったり。音楽隊のパレードも。アトラクションももちろん充実している。それこそ、和製ディズニーランドである。と言うより、日本にディズニーランドを作りたかった、という意図がよくわかる。何とも豪華なプロモーション映画があったものである。と同時に、当時を物語る貴重なフィルムでもある。あのドリームランドであれば行ってみたいと、誰もが思うだろう。

なんでこんなにあいているかと言うと、2ページにするつもりだったんですよ。でも面倒くさくてこうなっちゃいました。




横浜ドリームランドA

○2度の危機
 
1度目は、某デパートの火災事故。100人を越える犠牲者が出る大惨事となった。同じ系列会社として、その賠償をするため、土地の一部をを売却。そこに、今のドリームハイツが建つ。その結果、規模の縮小を余儀なくされ、みんながよく知るドリームランドになった。
 
2度目は、本家ディズニーランドのオープン、と思うかもしれないが…。全く影響がなかったかと言えば嘘になるが、少なくとも、横浜から千葉までは以外と遠い。むしろ、ディズニーランドが出来たことで、日本の遊園地にもスポットが当たる。更に、俗に言う“バブル景気”の到来。近くて安く遊べる遊園地として、ドリームランドにも少し活気が出てくる。所が、その後…。多摩ピューロランド、八景島シーパラダイス、みなとみらい、等々。それほど遠くない所に、新しいテーマパークが次々と誕生する。むしろ、こっちの方が打撃を受けたと思う。
 そんなおり、ダイエーが買い取り、とりあえず一件落着。その際、いわゆる企業再編ということになるのだろう。まず、音楽隊が廃止。僕は、園内の係員になった。それでも半年はいたかな?その後退社。そのため、それ以降の詳細はわからないが、イメージガールも10代目を機に終了したようだ。残ったのは、マスコットのドリちゃんとランちゃんだけとなった。

○ワンダーホイール。
 
揺れるゴンドラがある観覧車。オープン当初からある、ドリームランドのシンボル的存在だった。その観覧車が解体されているらしい。今ごろはなくなっているかも。遊園地はなくなっても、このワンダーホイールだけは残して欲しいと思っていたけど。やはり、それもムリだったようで。そういえば、老朽化が激しく、たびたび止まっていたもんなあ。しかも、大きいのでかえって危ないかもしれないけど…。でも、やっぱり寂しいね。

○音楽隊
 
園内の係員をしていたとき、聞いたことがある。音楽隊は、従業員にとっても楽しみだったと言う。どうやら音楽隊は、単にお客を楽しませるためのアトラクションとしてだけでなく、従業員にとっても、一服の清涼剤的な役目を果たしていたようだ。もしかしたら、お客さんの中には音楽隊を楽しみに来ていた人もいたかもしれない。音楽隊は、数字には現れないけど、大事な役割をしていたのだと、今更ながら思う。
 
最後に復活したらしいが、予算の関係か、小規模で寂しいものだったらしい。それでも復活させたのは、それだけみんなに愛された証拠であり、最後のこだわり、願いだったのかもしれない。

○宮廷庭園
 閉園からほぼ1年半。HPに、いろんな写真がUPされている。開園当初は噴水と芝生だけで、凄く広い。こんなに広かったっけ?でも規模は変わってないみたいだけど?どうやら僕が入社した時には、既に遊戯施設がいくつか入っていたため、それほど広く感じなかったみたい。晩年の写真を見てびっくり。施設がぎっしり詰め込まれていて、その面影は全くない。とにかく、詰めるだけ詰め込んで、なんとか賑わいを取り戻そうとしたのかもしれない。しかし、それも焼け石に水だったようである。
 もし…はないと言うが。もしそこに施設ではなく、逆に、ピクニック気分でくつろげる憩いの場として残していたとしたら…。もはや、知る由もない。

○エピローグ
 
昭和39年と言えば、東京オリンピックが開催され、新幹線が開通した年。そんな年に、横浜ドリームランドはオープンしている。更に遡ること3年前。昭和36年には奈良ドリームランドがオープン。時代はまさに高度成長期。とはいえ、そんな時代によくあれだけの遊園地を作ったものである。もしかしたらこの頃は、夢に投資していた時代だったのかもしれない。そして、夢を失った楽園は、37年の歴史にピリオドを打った。
 ドリームランドだけではない。その1カ月後、向ヶ丘遊園地が閉鎖。他にも、宝塚ファミリーランド、御殿場ファミリーランド、行川アイランド、等々。歴史のある遊園地が、次々と姿を消していく。奈良ドリームランドはまだ健在のようだが、このままではここも時間の問題かもしれない。
 この後この地は、
緑が多いこともあり、公園として残るらしい。出来ることなら、これからはみんなの憩いの場として、みんなに愛される公園として残っていくことを願う。遊園地としてのドリームランドは終わるが、心のドリームランドとして。


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