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【日記】日記男

 

2005. 7.5

 

プロローグ

 

相互リンクをしているMoon Holicのひなたさんから、

「今度、東京に出張するので、ご一緒に夕食でもどうですか?」

そのような内容が書かれたメールが送られてきた。

彼女は21歳の女子大生で、現在はお花屋さんで働いている。

僕とはメールのやり取りをする仲ではあるが、面識はない。

今後もメールでのやり取りのみが続くと思われていた中、

彼女からの突然の提案に僕は困惑した。

 

「1日に2万ヒットあるサイトはネゲットし放題らしい」

以前参加したオフ会でそんな会話があったのが思い出された。

僕のサイトはちょうど1日2万ヒットを記録していた。

 

 

初めて彼女からメールが来たのは、

先月、日記の更新を休止するように決めた直後だった。

「日記のファンなので再開嬉しかったです」

メールには純粋無垢な応援のメッセージが綴られており、

日記をやめようと思っていた僕はものすごい罪悪感に襲われた。

結果、休止を撤回して日記を続けることにした。

 

次の日、ひなたさんから再びメールがあった。

メールには日記を継続することへの感謝の言葉が綴られていた。

僕も自分の日記を他人に読んでもらえることが純粋に嬉しかった。

「今後ともよろしくお願いします」と返信しようと思ったが、

最後に気になる一文が書かれてあるのを発見した。

 

「お礼にメイド服でも着た私の写真でも添付しましょうか?」

 

思いもよらぬ展開に僕は戸惑った。

メイド服に興味はあった。好きか嫌いかでいうと大好きだった。

だが、露骨に反応して低俗な男と思われるのも嫌だったので、

 

「メイド服を着た写真に関してですが、もし僕の好みのタイプ女性だった場合、

格好よく見せようと日記に「星を見て泣いた」とか、気持ち悪い内容を書く

可能性がありますので、とりあえずは送らなくて大丈夫です」

 

などと適度に距離を置いた返信をしておいた。

しかし、返信した後で、ものすごい後悔に襲われた。

誰も傷つかないのなら送ってもらった方が良かったのではないか。

もっと自分に正直になりたいとその夜は涙で枕を濡らした。

 

次の日、ひなたさんからメールがあった。

「気持ち悪い文章が見てみたいので撮りました」

そう書かれた本文とともに添付ファイルが送られていた。

拡張子は画像ファイルであることを表すJPG。

それを見て、僕はウィルスに違いないと思った。

なかなか手が込んでいるが、そんな見え見えの罠に引っかかるような僕ではない。

 

だが次の瞬間、僕は画像ファイルをクリックしていた。

どんな死体画像が出てくるのか不安になりながら画像が出るのを待った。

しかし予想に反して、出てきたのは普通の女性の画像だった。僕は反応に困った。

お化け屋敷に入ったのに「イッツ・ア・スモールワールド」が流れてきたような心境である。

しかし、女性から写真を受け取って返事をしないのは失礼なので、

彼女が所望していた気持ち悪い返事を書くことにした。

 

「心が君というウィルスに感染したとか気持ち悪い文章を

書こうと思いましたが、血を吐きそうになったのでやめました」

 

女性から写真付きのメールを受け取ったのは初めてだったが、

動揺を悟られないように余裕を持った返信をしようと思った結果、

褒めているのか貶しているのか、よくわからない文章になった。

 

次の日、彼女のサイトの日記を読むと、

僕からメールが来たことに関して書かれてあった。

他人の日記に登場できるのは嬉しいのだが、そこには、

「心が君というウィルスに感染したという返信があった」

とだけ書かれており、後半部が意図的に消去されていた。

これでは僕が普通に気持ち悪い人である。

こうして歴史は捏造されていくのだと実感した。

 

その後も何度かメールのやり取りが続いた。

メールの内容は他愛もない世間話が中心だった。

ある日、いつもと違った内容のメールが届いた。

 

「すごい言いづらいんですけど…今日1日考えて思い切って言います」

 

メールの冒頭にそのような言葉が綴られていた。

その言葉だけで僕は彼女が言わんとすることを理解した。

気持ち悪いのでもうメールは送るなということだろう。

ファミ通への投稿について熱く語ったのが失敗だったと思われる。

ショックだったが、無言で返事が来なくなるよりはマシだった。

僕は別れの言葉を読もうと、メールの本文を下にスクロールさせた。

そこには見慣れない11桁の数字が記載されていた。

 

「これ私の番号です。もし暇だったり、興味あったり云々だったらよかったらかけてみてください」

 

それは彼女の携帯電話の番号だった。

写真に続いてあまりに現実味のない展開の連続に、

「詐欺」という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。

おそらくこの番号に電話をすると、馴れ馴れしい口調の女性が出て、

「ヒロさんは英語を喋れるようになりたくないですか?」

などと言葉巧みに誘導され、高価な学習教材を買わされるのだろう。

上京して一年目の僕なら引っかかってしまうところだったが、

東京に五年も住んでいる都会人の僕は無視することに決めた。

 

しかし、無視をすることに決めたものの、

もしかしたらという感情も僕の頭の中に浮かんできた。

僕はベッドの上で膝を抱えて電話を待つ少女の姿を想像した。

考えた末、住所だけは喋らないようにしようと心に誓い、

僕は緊張した手で書かれてある番号を入力した。

しかし、いくら待っても相手が出る気配がなかった。

もしかして、海外に転送されているのではないかと不安になった。

 

諦めかけたその時、電話の向こうから女性の声が聞こえてきた。

「ごめんなさい!今、お風呂入ってて!」

それだけを告げると電話は切れた。

まるでマンガのような展開に僕は呆然とするしかなかった。

しずかちゃんのお風呂を覗いたのび太の気分だった。

 

十分後、僕はひなたさんに再び電話をかけた。

彼女も今度はお風呂から上がっていたようで普通に出た。

僕の頭の中ではバスタオル姿の女の子が浮かび、

その女の子のバスタオルがずれ落ちたりしていたが、

それを悟られないように極めて落ち着いた口調で会話をした。

勧誘以外で顔の知らない相手と電話をするのは初めてだった。

だが、顔は知らないのに日記は読まれているという微妙な関係ゆえ、

「ルナマリアが好きなんですよね」

「いいんちょが好きなんですよね」

女性に突っ込まれたくない部分を突っ込まれて困惑した。

「そんなことないですよ」と否定したかったが、おもいっきり日記に書いていた。

僕は現実世界で女性からオタクだと思われることを極端に嫌っていた。

だが、彼女も流川や宗次郎への想いを語っていたので同類だった。

むしろ聞いてもいないのに喋っていた分、彼女の方が重傷に思われた。

 

その後も何度かメールや電話でのやり取りがあった。

そのような紆余曲折があった末の「夕食でもどうですか?」というメールだった。

 

僕は過去に二度ほどオフ会に呼ばれたことはあったが、

どちらも濃い男性テキストサイト管理人の集まりであり、

女性の管理人と会うのは初めてだった。

しかも二人きりで会うとなると、どんな間違いが起こるかわからない。

僕はそのような不純な目的でサイトを始めたわけではないし、

一人を特別視することは、他の閲覧者を裏切る行為になってしまうのではないか。

葛藤しながらも、僕の顔はにやけていた。

 

しかし、冷静になって考えると、やはり何かがおかしい。

空気清浄機に関して日記で熱く語る男に興味を持つ女性がいるだろうか。

どれだけ大気汚染に感心がある女性でもそれはありえない。

一番の可能性として考えられるのは金目当ての犯行だが、

掲示板や日記で何度も無職であることを強調している。

契約書にサインしなければ大丈夫だろうし、いざとなればクーリングオフもある。

消費者金融に連れて行かれそうになったら逃げればいいだろう。

それさえ気をつければ特に失うものもなかったので、

僕は「会いましょう」と返信をした。

 

「待ち合わせはアルタ」という返信が来た。

どこかの宗教施設を指示されるのではないかと思ったが、

意外に普通の待ち合わせ場所だったので安心した。

よく考えてみれば、現代のインターネット社会において、

個人サイトを通じて男女が知り合うというのも、そう珍しい話ではない。

サイトの内容がちょっと偏向してはいるものの、

僕にもその機会が回ってきたと考えるのが妥当と思われた。

 

そう考えると、一気に目の前が明るくなった。

幸せな気分になりながら、もう一度メールを確認してみると、

後半部に見慣れぬ地名が書かれていることを発見した。

 

「待ち合わせはアルタ8階の天使のすみかで」

 

僕はようやく何かがおかしいことに気付いた。

 

 

どうして待ち合わせ場所が天使のすみかなのだろうか。

僕はひなたさんに説明を求めた。彼女が言うには、

僕のサイトに来たのは遊星さんのサイトのリンクからで、

彼女が遊星さんのサイトを知ったきっかけが、

「スーパードルフィー」で検索したからということらしい。

つまり、スーパードルフィーがなかったら、僕たちがこうして知り合うこともなかった。

きっかけはスーパードルフィーという訳である。

 

それを聞いたときは、なるほどと思ったが、冷静になって考えると、

だからと言って天使のすみかで待ち合わせる必要性はどこにもない。

そもそも、何故彼女は「スーパードルフィー」などという単語を検索したのだろうか。

そこら辺を詳しく追求したかったが、女性の過去を詮索するのは失礼なので、

僕は訊かないことにした。誰にでも触れられたくない過去はあるだろう。

ひなたさんの提案通り、待ち合わせ場所は天使のすみかに決定した。

初対面の人との待ち合わせ場所としては前人未到の地だと思われる。

 

待ち合わせ場所が決定したので、

僕は天使のすみかについて調べることにした、

デートの待ち合わせ場所を調べるというよりは、

RPGの難解なダンジョンの攻略法を調べている気分だった。

インターネットの普及はどんな情報でも即座に入手することを可能にした。

しかし時として、知りたくなかった情報を知ってしまうこともある。

調査の結果、ロンダルキアやネクロゴンドに匹敵する難所だということがわかった。

 

新宿アルタの8階にある天使のすみかは、

何故かエレベーターでしか行くことができないという、

下界から完全に隔離されている場所だった。

しかも先日から、まるでタイミングを計ったかのように、

笑っていいともの収録がアルタからお台場に変っていた。

タモさんというアルタの守護神を失ってしまったことによって、

真上に位置する天使のすみかにも異変が起きているのではないか。

僕は深夜に無人のスタジオアルタを徘徊するスーパードルフィーを想像した。

 

様々な不安を抱えながら、当日の朝を迎えた。

僕たちは待ち合わせの時間を特に決めていなかった。

ひなたさんは茨城に住んでいるので、彼女が家を出るときに、

僕に待ち合わせの時間を連絡するという段取りになっていた。

時間を持て余した僕は部屋の掃除を始めた。

これは、あわよくば部屋に連れ込もうという卑しい気持ちではなく、

試験勉強中に何故か部屋の掃除をしたくなるのと同様で、

追い詰められた人間が行う現実逃避の行動だった。

 

掃除機をかけた直後、ひなたさんから僕の携帯電話にメールが届いた。

『もう電車に乗っております。12時にアルタでお願いします』

時計を見ると、時刻は10時30分だった。

移動に1時間はかかると見積もると、そろそろ出発する時間だ。

僕は家を出た。風呂掃除はあきらめることにした。

 

駅のホームで新宿へ向かう電車を待っていると、

僕の携帯電話に再びひなたさんからメールが届いた。

『やばい、緊張してきた、死ぬかも』

明らかに僕を美化している内容に不安を覚えた。

彼女は日記の読者なので僕の情けなさは理解しているはずだが、

人間は放っておくと自分に都合のいいように妄想してしまう生き物だった。

このまま彼女の妄想が膨らんだ状況で対面するのは避けたかった。

「こんなのアスランじゃない!」

さすがにそんなことを言われたら、僕も立ち直れない。

僕は自分を卑下する内容のメールを送った。

自分は緊張に値するような人間ではないこと、

自分の方こそ会うのに緊張しているということを告げた。

 

『……やめる?』

とても重い言葉が返信されてきた。

僕もきっとそれが一番正しい選択だと思った。

夢を見ている女の子に現実を突きつける行為は非情すぎる。

しかし電車は僕の意志を無視して新宿に到着した。

僕は夢を見ている女の子を現実の世界に帰すためにアルタへ向かった。

 

僕はアルタに到着すると、エレベーターに乗り込んだ。

いきなり8階のボタンを押す勇気はなかったので、

事前に立てた作戦通り、まずは6階のトイレで呼吸を整えることにした。

 

エレベーターの中にはアジア系の外国人の集団が乗っていた。

彼らは僕を取り囲むように立つと、聞いたことのない国の言葉で会話を始めた。

僕は金を脅し取られるのではないかと不安になった。

「マジデスゲエナー」

何故か外国人の一人はカタコトの日本語を喋っていた。

お前ら全員外国人なんだから、日本語を喋る必要はないだろう。

異様な光景に僕は思わず笑ってしまいそうになったが、

それが原因でトラブルが起きる危険性もあるので、何とか笑いを堪えた。

僕は彼らが天使のすみかに行かないことを祈った。

スーパードルフィーを吟味する彼らの姿を見て、笑いを堪えられる自信はなかった。

 

6階のトイレから出られずに悩んでいると、

僕の携帯電話にひなたさんから電話があった。

彼女は既に天使のすみかで待っていることを告げた。

もはや引き返せる段階ではなくなっていた。

僕は覚悟を決めて、エレベーターのスイッチを押した。

静かな音を立ててドアが開いた。

他に誰も乗っていなかったのがせめてもの救いだった。

僕はエレベーターの中に入ると、Gと書かれたスイッチを押した。

閉のスイッチを押すのに悩んだのは生まれて初めてだった。

エレベーターはゆっくりとした速度で上昇を始めた。

 

天界のドアが開いた。

わずかな距離の廊下の先に天使のすみかはあった。

僕は冷静を装って店内に入った。店内には4人の客がいた。

そこでネット関係者と会う際の最大の問題が発生した。

ひなたさんが誰なのかがわからなかったのだ。

メールで写真を一枚もらってはいたものの、

顔のアップだったので全体像がいまいち掴みきれてなかった。

事前にどんな有名人に似ているかを聞いていたが、

久米田康治の「かってに改蔵」の羽美ちゃんや

乙一の小説「GOTH」の森野に似ているということだった。

どちらも二次元の世界の住人なので参考にならなかった。

森野に至っては完全に抽象表現である。

共通項は長い黒髪と白い肌と殺人が好きだということだ。

殺人が好きかどうかを見た目で判断するのは難しい。

 

客の一人一人に声をかければ必ずわかるが、

天使のすみかで人違いをするのは危険だと思ったので、

僕は携帯電話を取り出してひなたさんの番号を入力した。

その瞬間、僕を見る店員の目が鋭く光ったような気がした。

入り口には「携帯電話の使用は禁止」と書かれた張り紙があった。

僕は死を覚悟した。すぐに店の奥から大天使ミカエルが現れて、

規則を破った僕に天罰を与えるのだろうと思った。

 

しかし、ミカエルが現れるよりも早く、

僕の目の前で冊子を読んでいた女性が、

僕の方を振り向いて、きょとんとした視線を向けた。

「あ……」

送られてきた写真で見た顔に気付いて僕は声を上げた。

店の風景と完全に同化していたこの女性がひなたさんだった。

 

ひなたさんは写真よりも目が大きかった。

小柄な身体をピンクのティアードワンピースで包み、

上に五分丈の黒いパーカを着て、ハイカットのスニーカーを履いていた。

その服装から、ファッションに関心がある女の子といった印象を受けた。

ファッションに関心がない僕とは基本的に接点がないように思われたが、

そんな彼女が僕のサイトを見ているのだと考えると不思議な気分になった。

 

僕たちは廊下の椅子に座って会話を始めた。

電話では饒舌だったひなたさんだが、どうもテンションが低かった。

おそらく理想と現実のギャップに落胆しているのだろう。

僕も僕で現実味のない展開にどうすればいいのか戸惑っていた。

そもそも天使のすみかで会話を続けるのは無理がある。

僕たちはエレベーターに乗って、天使のすみかを脱出すると、

どこか座れる場所で会話をするためにファーストフード店を探した。

 

「この辺にマックがあったはずなんだけど……」

ひなたさんは道に詳しそうだったので僕は彼女に道案内を任せた。

しかし、道に詳しそうな割には来た道を行ったり来たりしていた。

もしかして道に迷っているのではないかと思ったが、

会って5分で喧嘩別れするわけにはいかないので黙っていた。

ふと横を見ると、ロッテリアがあったが、彼女は反応しなかった。

僕としては座れればどこでもよかったのだが、

女の子はファーストフードにも色々こだわりがあるのだと察した。

「おっ、ケンタ見っけ!」

道を曲がると、彼女はそう言って、ケンタッキーへと入っていった。

ロッテリアはダメだけどケンタッキーはいいのか。

乙女心の複雑さに僕は困惑するばかりだった。

 

「髪長い……」

ケンタッキーで向かい合わせの席に座りながら、

ひなたさんは僕の髪の長さを頻りに気にしていた。

どうやら僕の髪が長いことを彼女は許せなかったようだ。

まるで酢豚に入っているパイナップルを忌み嫌う人のように髪への不満を語った。

彼女の言葉に僕はどう答えればいいのかわからなかった。

まさか「今から切りに行きます」とは言えない。

二人の間に重苦しい空気が流れた。

 

「よし、今から切りに行こう!」

沈黙を打ち破るようにひなたさんが言った。

僕は彼女が何を言っているのかがわからなかった。

彼女の説明によると、僕はこれから原宿の美容院に連れて行かれるらしい。

美容院といえば原宿だと彼女は強く主張した。

僕にとって原宿はメガネを買うためだけに存在する街だった。

 

ケンタッキーの2階から1階への階段を降りていると、

突然、ひなたさんが残り二段の階段をぴょんと飛び跳ねた。

僕はその小学生のような行動について彼女に説明を求めた。

「あ、これ、癖なの」

彼女は言った。指摘されるまで気にしてもいなかったようだ。

僕はスカートの中身が見えてしまうのではないかと心配した。

これから階段があった場合は僕が先に降りようと決心した。

 

新宿駅に向かって2人で歩いた。

僕は予想だにしていなかった展開に混乱していた。

ふと横を見ると、混乱の元凶であるひなたさんと目が合った。

「なんだか電車男みたいで楽しいね」

そう言って、彼女は初めて笑顔を見せた。

僕はその笑顔に胸がドキッとした。

その感情が恐怖なのか、ときめきなのかはわからなかった。

 

 3

 

美容院は原宿駅を出てすぐの所にあった。

僕は未だにこれから髪を切るという実感はなかったが、

ひなたさんは既に料金表を眺めて何やら考え込んでいる。

完全に彼女のペースだった。だが彼女は僕より一歳年下である。

最初に年上の男性としての威厳を見せ付けておいた方が、

今後の二人の関係を有利に進めていけるだろうと僕は判断した。

「でも、あまりお金を持ってきてないんだけど……」

僕は高額な料金を理由に、髪を切るのを考え直すように訴えた。

もっと強く主張すべきだったが、何故か弱々しい口調になってしまった。

「大丈夫だよ、社会人がカンパしてあげるから」

僕の主張をひなたさんはあっさりと受け流した。

人間の序列を決めるのは、年齢ではなく社会的地位である。

社会の底辺である無職の人間が勤労者に逆らうことなど不可能だった。

 

「う〜ん、カットとパーマもしよう」

ひなたさんはまるでラーメンのトッピングでも頼むかのように、

僕の髪をどうするかを受付の店員に告げていた。

彼女の髪を切るのなら、どうしようと何も問題はないが、

実際に切るのは僕の髪なので、もう少し悩んでもらいたかった。

金髪にしよう、などと言い出したらどうしようかと不安だった。

スキンヘッドという単語が飛び出したら即座に逃げようと思った。

 

「じゃあ、私は行くね。終わったら戻ってくるから」

注文を終えると、ひなたさんはそう言って美容院から出て行こうとした。

僕は焦った。彼女が僕の元へ戻ってくる保証などはどこにもない。

最悪の可能性としては、彼女はこの美容院の関係者か何かで、

僕が騙されたということも考えられる。絶対に彼女を行かせる訳にはいかない。

だが、美容院で男性が女性に行かないでとすがり付いている様は、

詳しい事情を知らない周囲から見ると、かなり情けない光景である。

僕は周囲に動揺を覚られぬように、彼氏気取りで彼女を見送った。

そして原宿の美容院に一人取り残された。

 

「どんな感じにしましょうか?」

担当になった男性美容師が訊いてきた。

「どんな感じに……」

僕は言葉に詰まった。そんなことを事前に決めているはずはなかった。

美容師も困惑しているようだったが、状況を説明する気は起きなかった。

結局、特にこれといった髪形は指定しないまま、ひなたさんの注文通り、

短めにカットしてストレートパーマをかけることになった。

「三時間半ぐらいかかりますけど、大丈夫ですか?」

予想以上に長い時間を提示された。どうやらパーマに時間がかかるらしい。

僕は美容師に少し待ってくれるように言って、ひなたさんの携帯に電話をかけた。

そんなに待てない、寂しくて死んじゃう、そんな言葉が返ってくることを期待した。

しかし僕の期待に反して、電話の向こうから聞こえてきたのは、

電波が届かない場所にあることを告げる機械的な女性の声だった。

やはり彼女に騙されたのではないかと不安になった。

 

「大丈夫ですか?」

僕の電話が終わったのを見て、美容師が再び訊いてきた。

電話には出なかったが、まだ騙されたと決まった訳ではない。

ひなたさんが何らかの都合で電源を切っただけという可能性もある。

デートの最中に女性を三時間半も待たせるわけにはいかない。僕は力強い口調で答えた。

「はい、大丈夫です」

ひなたさんには時間が掛かるという旨のメールを送っておくことにした。

 

僕が美容院で一番苦手なのが、美容師相手の会話である。

彼らは僕のような無口な人間にも、気安く言葉をかけてくるので困る。

以前通っていた武蔵野の美容院では『真・三国無双』の話が通用したが、

原宿の美容師となれば、僕と会話が噛み合わないことは必死である。

考えた末、僕は雑誌に逃げることにした。手にした映画雑誌には、

『スターウォーズの名シーン・トップ100』という記事があった。

僕はスターウォーズに関しては全くの無知であったが、

100位から1位までを読めば、かなりの時間を消費できるだろう。

僕は読書に夢中になっている人間特有の話し掛けられたくないオーラを

体の全面に出しながら、ランキングを100位から順に読み始めた。

 

「エピソード3見ましたか?」

話し掛けられたくないオーラを感じ取れなかったのか、

96位を読んでいるときに美容師が気安く言葉をかけてきた。

当然のことながら見ていなかったが、会話を盛り上げるためには、

スターウォーズのファンだと言って話を合わせた方が良いのだろう。

しかし残念ながら僕は、そこまで機転の利く人間ではなかった。

「いや、スターウォーズは全然見てないですね」

「あっ、そうですか……」

僕の返答に美容師は明らかに落胆していた。

「いつか見ようとは思うんですけど……」

僕は慌ててフォローしようとしたが、言葉が続かなかった。

会話のきっかけを失った美容師は無言で作業を再開した。

明らかに前髪を切りすぎている感があったが、

それを指摘することができないような重い空気に包まれていた。

先ほどまで、ひなたさんの機嫌をどう取るかを画策していたのに、

どうして今の自分は美容師の機嫌を取るのに悩まなければならないのか。

居た堪れない気持ちになったその時、ひなたさんからメールが返ってきた。

『長っ!大丈夫、ちゃんと待ってるよ』

どうやら彼女は僕を騙した訳ではなかったようだ。

僕を気遣っている返信を読んで、なんて優しい女の子なのだと思った。

彼女のせいでこんな状況になっていることを一瞬だけ忘れそうになった。

 

髪をある程度切られた後、パーマ剤を塗付された。

自分の髪にパーマをかけるのは初めてだったが、

美容院でパーマをかけている女性の姿は何度も見ていた。

加温機で髪を温めながら、のんびりと雑誌を読んでいる姿は、

エレガントなセレブといった印象で、多少の憧れを持っていた。

僕の頭にもラップが巻かれ、頭上に加温機が設置された。

加温機はゆっくりと回転を始め、そのまま僕の後頭部に命中した。

痛くて涙が出そうになった。どうやら低い位置で設定されていたようだ。

すぐに位置を直してもらいたかったが、周囲に美容師の姿はなかった。

そのとき、引きこもり特有の被害者意識が怒涛のように押し寄せてきた。

もしかしたら、美容師が嫌がらせでわざと低い位置に設定したのではないか。

加温機が後頭部にぶつかるのですが、などと訴えるのはかなりの屈辱である。

結局、亀のように首を引っ込めて加温機の回転が止まるのを待った。

エレガントなセレブからは程遠い体勢だった。

 

数十分後、パーマ剤を洗い流すため、シャンプー台に連れて行かれた。

今日は女の子との楽しいデートをするはずだったのに、

どうして自分は原宿の美容院でシャンプーをしているのだろうか。

ありえない展開の連続に、これは日記のネタになるなと思った。

自らの不幸を喜ぶのは、テキストサイト管理人の悲しい性だった。

 

シャンプーの後、二度目のパーマ剤を塗付された。

この段階で髪を切り始めて1時間半が経過していた。

『忘れられてないよね、忘れないでください』

僕はひなたさんに再びメールを送った。

迎えに来てくれることを懇願するような内容だった。

しかし、いくら待ってもひなたさんからの返信はなかった。

 

パーマ剤を再びシャンプーで洗い流した後、

軽く髪を切って、スタイリングをして作業は終了した。

「予定より早く終わりましたね」

美容師が自慢げにそう言った。

時計を見ると、始めてから3時間も掛からずに終了していた。

僕は鏡に映る自分の姿を見た。

生まれ変わった自分の姿がそこにあった。

そして、早い仕事よりも良い仕事をして欲しかったと強く思った。

新しくなった自分の髪型、それを形容する言葉を僕は知らなかった。

少なくとも日本の有名人でこれと同じ髪型の人物は存在しない。

強引に例えると、イギリスの売れないパンクバンドのベーシストのような

やる気のなさそうな短い前髪に、サイドは中途半端な長さに切り揃えられていた。

僕はこれが原宿で流行っている髪形だと強引に解釈した。

そうでも思わないと、とてもじゃないがやっていられなかった。

 

理想からは程遠い髪型にされてしまったものの、

髪を短くしたことで、僕はどこか吹っ切れた気分になった。

最初はよそよそしかった美容師とも次第に打ち解けていた。

既にひなたさんよりも美容師と会話した時間の方が長くなっていた。

美容師にレジに案内され、店員からカットとパーマの料金が告げられた。

「一万八千円に消費税を合わせて、一万八千九百円になります」

僕が普段髪を切るのに出せる金額は五千円までなので、通常の三倍以上の額だった。

原宿の美容院の相場がいくらなのかはわからないが、

少なくとも『通常の三倍』と聞いて、真っ先にシャア専用ザクが思い浮かぶような

ダメ人間の髪を切るのに用いる金額でないことは用意に想像できる。

財布の中身を確認すると、一万円札が一枚、千円札が七枚あった。

合計で一万七千円、提示された金額には約二千円足りなかった。

僕は背筋に寒いものを感じた。

「ちょっと待って下さいね……」

僕は携帯電話を取り出して、ひなたさんの番号を入力した。

先ほどまで穏やかだった美容師の表情が険しいものに変った。

 

 

僕はひなたさんが電話に出るのを待った。

これでもしも、彼女が電話に出なかったらどうなるのだろう。

無銭飲食のように、無銭断髪として警察に捕まるのだろうか。

足りないのは二千円だけなので、どうにか許してもらえないだろうか。

しかし、帰りの電車賃を考えると、五百円は手元に残しておきたい。

二千五百円も足りないとなると、さすがに許されないだろう。

やはり皿洗いは覚悟しなければならないのだろうか。

美容院には皿はないので何を洗えばいいのだろうか。

美容師の代わりに客のシャンプーをやらされたりするのだろうか。

もしも女性客に嫌がられたらどうしよう。僕が泣いてしまう。

持ち前のマイナス思考をどんどん膨らませていると、

電話の向こうからひなたさんの声が聞こえてきた。

 

「あ、終わった?」

絶体絶命の危機に瀕している僕をよそに、

電話の向こうのひなたさんはのんびりとした口調だった。

彼女は髪を切る作業が終わったかどうかを訊いたのだろうが、

どちらかというと、僕の人生が終わりそうだった。

「お金が足りない、助けて」

僕は誘拐された子供が親に助けを求めるように懇願した。

年上の男性としての尊厳が完全に失われてしまっているが、

僕の置かれた状況がどれだけ切羽詰ったものであるか、

電話の向こうの彼女にも理解できるだろう。

 

「ぎゃははははは!」

直後、電話の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

女の子らしい笑い声ではなく、爆笑といった感じの笑い声だった。

笑いたくなる気持ちもわかるが、元々の原因を作ったのはひなたさんである。

その声に軽く殺意を覚えたものの、ここで彼女の機嫌を損ねでもしたら、

「じゃあ帰る」と言い出しかねない。殺すのは金を受け取ってからだ。

 

「うん、だから早く戻ってきてくれないかな」

僕は怒鳴りつけたい感情を押し殺して彼女に告げた。

「えっとねー、今、青山にいるんだけど」

そんな山は一刻も早く下山して僕を助けに来てほしい。

僕は原宿近辺の地理に関しては全く知識がないので、

青山から原宿駅までの所要時間がよくわからなかったが、

とにかくすぐに来てくれるように頼んで電話を切った。

 

後ろを振り向くと、店員たちが冷たい目で僕を見ていた。

これから店の奥の部屋に連れて行かれるのだろうと思ったが、

なぜか腫れ物に触るような優しい対応になった。

おそらく警察に突き出すタイミングを計っているのだろう。

出口に向かって走り出そうものなら、すぐに取り押さえられるに違いない。

僕は手渡されたロッキンオンを死刑囚が聖書を読むかのように、

神妙な面持ちで読みながら、ひなたさんが戻ってくるのを待った。

美容室の入り口はエレベーターに直結しているので、

客が入ってくればすぐにわかるような構造になっていた。

エレベーターのドアが開くたびに視線を向けるのは、

迷子センターで親を待つ子供の気持ちのようだった。

 

二十分ほどの待ち時間が永遠のように感じられた。

幾度ものドアの開閉を経て、ようやくひなたさんが現れた。

数時間前に別れたままの姿の彼女は、

数時間前と別人になった僕を黙って見つめた。

「変わったねえ」

第一声がそれだった。

「カッコよくなった」ではなく「変わった」だった。

髪が長いことで存在していたマイナス要因は消えたが、

髪を短くしたことで、新たなマイナス要因が発生したようだ。

しかし、もはや髪型などたいした問題ではなくなっていた。それよりも金だ。

僕はひなたさんから五千円を受け取ると、すぐにレジへと向かった。

本当に連れの女性が来るとは思っていなかったのか、店員は意外そうな顔をした。

「いちおう予約制なんで、今度からは予約してくださいね」

僕を担当した美容師が苦笑いを浮かべながら名刺を渡した。

美容院のシステムがわかっていない田舎者のような扱いをされたが、

初対面の女性に美容院に連れて行かれることを想定できる人間がどこにいるのだろうか。

この美容院には二度と来ることはないだろう。

降りていくエレベーターの中で僕は心に強く誓った。

 

美容院から出た僕たちは、これからどうするかについて相談した。

すでに時刻は十六時を過ぎ、しかも僕は散髪したばかりという状況で、

今さら普通のデートコースに戻るような雰囲気ではなくなっていた。

特に目的地は決めないまま、とりあえず新宿まで戻ることにした。

「電車賃がもったいないから歩いていこう」

原宿駅に向かおうとする僕にひなたさんがそう提案した。

すでに僕の財布には四千円しか入っていなかったため、

タクシー移動を強要されたらどうしよう、と思っていたので安心した。

彼女は服などには金を使うが、無駄な散財はしない女性のようだ。

しかし、百三十円の電車賃を節約しようとする気持ちがあるのなら、

一万九千円もする美容院に連れて行くのはやめて欲しかった。

 

僕たちは新宿へ向かって歩き出した。

すっかり忘れていたが今はデートのようなものの真っ最中である。

女性と一緒に歩くからには何か会話をしなくてはならない。

僕の身に何が起こったかは髪型を見てもらえばわかるので、

僕はひなたさんに今まで何をしていたのかをたずねた。

「原宿の母に会ってきた」

いきなり複雑な家庭環境を話し始めたのかと思ったが、

ひなたさんの説明によると原宿で有名な占い師のことらしい。

彼女は原宿に行くと、その占い師に占ってもらっているらしく、

今日は彼女と僕との相性もついでに占ってもらったらしい。

「その人とはダメだって」

いきなり存在を全否定された。原宿の母は僕に恨みでもあるのか。

そもそも会ってもいない人間をどうやって判断できるのだろう。

原宿の母はニュータイプか何かなのだろうか。

「それでね、運命の人が年末に現れるんだって!」

その後も、ひなたさんは夢見る少女の瞳になって熱く語っていたが、

僕は占いというものを全く信じていないので、内心は冷めた気持ちだった。

しかし、何かを妄信している人を説き伏せるような元気もないので、

特に突っ込みを入れることもなく、黙って彼女の話を聞いた。

「あと、ナンパされて、缶コーヒーもらった」

さすがにそこには突っ込みを入れた。

 

夕方とはいえ、初夏の東京は暑い。

ひなたさんはスターバックスに寄って休憩することを提案した。

僕も美容院で嫌な汗をかいて喉が渇いていたのでそれに賛同した。

しかし、ここで重大な問題が発生した。

僕はスターバックスに入ったことがなかったのだ。

注文の仕方が複雑らしいという噂を聞いていたので、

意図的に接触を避けていた。もし間違った注文の仕方をすれば、

店員が苦笑いを浮かべて僕を田舎者扱いにするに違いない。

僕は緊張しながらレジに並んだ。美容院の悲劇は繰り返したくない。

カップのサイズを表す語句が特殊であるという噂だった。

それがわからず戸惑うことを僕は危惧していたのだが、

偶然にもそれが僕の知っているアニメキャラの名前と同じだった。

「えっと、アイスカフェモカを……トールで」

脳内でスカイグラスパーを数機墜落させながらも、

何とか無事に注文することに成功した。

東京に来て五年目にして、ようやく都会人になれた気がした。

 

「私、二十時になったら帰るね」

席に座ってアイスカフェモカを啜っている僕にひなたさんが告げた。

彼女は茨城に住んでいるので、あまり遅くまではいられないのだという。

残された時間は三時間。何かを成し遂げるにはあまりに少ない時間だった。

三時間で出来ることといえば、美容院に行ってパーマをかけることぐらいだ。

 

新宿に着いた僕たちは、食事を取ることにした。

食べ物に対する好奇心を僕に対する好奇心と勘違いさせるという、

吊り橋理論にも似た恋愛の常套手段を使用することにしたのだ。

しかし僕の財布には既に三千円少々しか入っていなかったので、

高級ホテルでの夜景を見ながらのディナーは不可能だった。

そもそもそんな店は知らないのでどうしようもなかった。

僕たちはサブナードにある焼肉店に入った。

ひなたさんは牛タンを食べると意気込んでいたが、

メニューを見た瞬間、彼女の表情が突然曇り始めた。

何事かと思いメニューを覗き込むと、原因はすぐに判明した。

狂牛病騒動の余波で牛タンの価格が急騰していたのだ。

僕は焼肉も牛丼も特に好んでは食べることはないので、

狂牛病騒動は自分には関係がないと思っていた。

それがまさかこんなところで影響してくるとは。

僕はアメリカ農務省の管理の甘さに怒りを覚えた。

結局、ひなたさんは牛タンではなく、なぜか豚ロース定食を頼んでいた。

牛タンが食べられないことで、牛自体に憎悪を抱いているようだった。

 

食事を終えた僕たちがやって来たのは公園だった。

ゲーム(探偵神宮寺三郎)では何度も訪れたことのある場所だが、

実際に訪れるのは初めてだった。僕たちは公園の奥に進んだ。

ダンボールで作られた家が出現してきたのですぐに引き返した。

安全そうな場所にベンチを見つけたのでそこに座ることにした。

夜の公園というと妖しく危険なシチュエーションをイメージしていたが、

実際はランニング中の中年男性やサラリーマンが通る微妙な雰囲気だった。

それでも時々誰も通らないで二人きりになる時間があり、

僕は彼女に緊張を悟られないように明るい声で話を続けた。

話の内容はサイト運営に関する熱い思いや愚痴だった。

「日記なんか誰も読んでない」「連載企画はやらない方がいい」

「遊星さんが「かってに改蔵」をネタにしたのはどうかと思った。あれは山田さんのものだ」

そんな話を彼女が帰る時間になるまで続けた。

 

「サイトの話しかしないね」

ひなたさんはベンチから立ち上がるとうんざりするように言った。

どうやら僕の話は彼女を失望させてしまったらしい。その言葉に僕は戸惑った。

サイト外で知り合った女性との会話ならそう言われても仕方がない。

しかし僕たちはサイトをきっかけに知り合った関係である。共通の話題はサイトしかない。

それでサイトの話しかしないと言われても何の話をすればいいのだろうか。

他に僕ができる話はマンガかアニメかゲームかスポーツの話しかない。

どれも夜の公園で女性と話すには相応しくない話題に思えた。

 

新宿駅へ向かう帰り道、ひなたさんによる徹底的なダメ出しが始まった。

彼女は自分を慕っている男性が複数いることを告げると、

僕がいかに他の男性に比べてダメであるかを指摘した。

まるで期待していたゲームがクソゲーだった時のような批判ぶりだった。

その指摘はどれもが真っ当なものであり、それゆえ僕は地味にへこんだ。

しかし、自分の知らない男性と比較されるほど気分が悪いことはない。

僕も自分を慕ってくれる女性の名前を出して対抗したかったが、

思いつくのはルナマリアやメイリンなど架空の女性ばかりだった。

おそらくそういうところがダメなのだろうと思った。

「これはオフ会だ」

彼女は今日のデートのようなものをそんな言葉で総括した。

全くその通りだ、と僕は思った。

 

僕たちは新宿駅から山手線に乗った。

僕の降りる駅は高田馬場なので乗車時間は数分しかない。

二人の間に漂う気まずい空気をどうにか晴らしたかったが、

ひなたさんは僕を残して一つだけ空いていた席に座った。

それはつまり、僕との会話を放棄するという合図だった。

それでも諦めずに僕の方から話し掛ければ良かったのだろうが、

僕はもう全てが面倒になっていた。黙っていれば愚痴も言われない。

結局、何も話し掛けることもないまま電車は高田馬場に停まった。

 

最後に気の利いた言葉の一つでも掛けられれば、

彼女も僕のことを少しは見直すかもしれない。

もしくは彼女の降りる上野まで見送ってあげるべきだろう。

しかし残念ながら、僕はそこまで器の大きい人間ではなかった。

「じゃあ、オフ会、お疲れ様でした」

僕は自嘲と皮肉を込めて言った。

ご期待に添えるような男性でなくてすみませんでした。

その言葉にひなたさんは無表情のままだった。

数時間前に天使のすみかで会った時と違って、

別れる時は非常に淡白なものだった。

電車は僕をホームに残して走り始めた。

やがて小さくなる電車を見送りながら、

僕はようやく我慢していた溜め息を吐いた。

 

一人になった帰り道は気楽だった。

居心地の悪さを感じた原宿の美容院とは違って、

帰り道に寄ったゲオはまるで桃源郷のように感じられた。

僕は一万九千円があったら買えたであろうゲームやDVDを眺めた。

 

家に帰ると僕は電源の入っていないパソコンを見つめた。

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

ひなたさんは顔も知らない相手に何を期待していたのだろうか。

素適な男性に会いたいのなら出会い系サイトにでも行けばいい。

僕のサイトはテキストサイトなのでそんなことは想定していない。

それをわかっていない彼女に理不尽な怒りを覚えた。

同時に何かを期待していた自分への嫌悪感でいっぱいになった。

サイトを通じて異性と会うものではないな、そう思った。

きっと彼女も同じことを思っているのだろうな、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エピローグ

 

それから四ヶ月が経った。

あれだけ短かった髪の毛もかなり伸びてきた。

僕は今さらながらあの日の出来事を日記に書いていた。

 

あのまま終わってしまっては一生のトラウマとなってしまう。

あの後、僕はパソコンを起動させるとひなたさんにメールを送った。

実際の僕は何の魅力もないつまらない人間だが、

ネット上での僕は自分でも気持ち悪いぐらいに紳士的な人物だった。

思ってもいない美辞麗句を並べるのは得意中の得意である。

メールの内容は自分でも寒気がするほど気持ち悪いものだったが、

その言葉にひなたさんはまんまと騙されてくれたようだ。

ネットが原因でこじれた関係はネットによって修復された。

やはり僕にはネットしかないことを実感した。

 

そして、実際に会ったことで彼女も現実を見たようだ。

ブログでの僕の扱いが会う前会った後で全く違っていた。

勝手に素適な男性に想像されるよりはその方が全然良かった。

 

しかし実際の僕も少しは成長しなくてはならない。

僕は先日からアルバイトを始めた。これでもうニートと貶されることもない。

給料をもらったら彼女に借りていた五千円を返そうと思う。

すっかり休んでしまっていたがつまらない日記も再開したい。

実際の僕はともかく、日記の僕はまだ嫌われてないらしいので。