父のこと

平成14年 3月に体調を崩し緊急入院、その後4月の検査結果で、膵臓癌と判明。主治医からお正月を迎えられれば・・・と宣告された。この日から父はもちろん、家族の癌との戦いが始まった。
父の事をHPに載せようか、とても迷った。あまりにも辛すぎる出来事、綴れるか自信がなかった。しかし、同じような体験をしている方達の少しでもお役にたてれば・・、それから父の事を書き残しておきたいと思い、綴る事を決心した。父にも了解を得た。

写真は入院中父が体調の良い時に作った折鶴や五重の塔

H14年10月26日 午後3時29分、父は他界しました。
辛くてなかなか更新出来なかったけれど、何とか完成させる事が出来ました。
皆様の少しでもお役に立てれば幸いです。




父と母の闘病日記   
私 の 日 記
 H14、2月〜3月・・・・・体調を崩し緊急入院 
      4月〜6月16日・・・・・告知、抗がん剤投与
      6月19日〜6月23日・・・・・手術
      6月26日〜7月・・・・・術後 
      8月〜9月・・・・・最終宣告
      10月〜10月15日・・・・・妹の結婚式
      10月16日〜10月26日・・・・・別れ




H14、2月〜3月・・・・・体調を崩し緊急入院


 2/13(水)  母から手紙が届いた。父が昨年の11月頃から体調が思わしくなく、それにも係わらず仕事が忙しい事を理由に、ちっとも病院へ行こうとしない。ひまわりからも病院へ行くように説得して欲しい。私が言っても喧嘩になるだけ・・・。と言うのが主な内容だった。
胃腸の具合が悪く、下痢が止まらないらしい。
父がそんな状態だったなんて、全然知らなかったし、気が付かなかった。

私は霊能者でも予知能力がある訳でもない。しかし、何故か6年前に大病して以来、時々予知夢などを見るようになった。それがほとんど夢に出てきた人が亡くなるというもの・・・・。昨年、祖母が亡くなったのだが、祖母が亡くなる数ヶ月前に、安らかな顔をして死んでいるとも眠っているとも判らない顔をして横になっている祖母の姿が時々夢に出てきた。今回も数ヶ月前から父のそれと同じような状況が瞼に浮かんだ。祖母の時と違うのは夢ではなく起きているときに何となく頭にその様子が浮かぶのだ。祖母の時と似ていたが、こんなに元気な父がまさか・・・と、それ程気にしていなかった。しかし、母からの父の様子を聞いて(こんなに早く、お父さん、死んだりしないよね。)と、自分に言い聞かせた。胸はドキドキしていた。
この晩、父へTEL。「下痢が続いてるっていうじゃない?4月に九州へ旅行の予定があるんだって?ちゃんと具合の悪い所を診て貰って治して体調が万全になってからにしたら?九州はどこへも逃げていかないよ。」と私。
「この間人間ドックも行ってきたし、かかり付けの医院で胃腸薬をもらってきてるけど、それが効いてるみたいで下痢の方は少し治まってるから大丈夫、大丈夫。旅行は4月だもん。何があっても行くよ。」と父。「対処療法じゃダメだよ。何故下痢になるのかしっかり原因を見つけなきゃー。私の時みたいにもう少し早く発見できてれば・・・はなしだからね。旅行なんか元気ならこの先いつだって行けるじゃん!なんでそんなに死に急ぐの?!」
「あ〜、死に急ぐ!」

母が言う通り何を言っても聞く耳を持たなかった。それでも、今飲んでいる薬が終わってその後も下痢症状が続いたら大きな病院へ行く事は約束してくれた。

父とのTELの後、PCで実家の近くの病院の事や疑われる病気を探しまくった。

 2/15(金) 父に手紙を書いた。もっと自分の身体を大事にして欲しいと言う事、早く別の病院へ行って診てもらうようにと言う事、そして自分だけの身体ではないと言うことなどを書いた。判ってくれれば良いのだが・・・。

 2/18(月) 夕方父へTELした。その後の症状を聞きたくて。相変わらずらしい。22日に以前診て貰っていた今とは別の医院に行く事にしたようだ。別の医者に診て貰うと言う意味では1歩前進。でも、医院じゃなく、周りのものからするとせめて総合病院へ行って欲しいのだが、元々大の医者嫌い。大きい病院は気が引けるらしい。

 2/21(木) 朝、父からTELがあった。薬のお陰で体調はだいぶ良いとの事。このまま下痢が治まって、また元気な父に戻ってくれる事を祈るばかり・・。

 3/23(土) 1泊で久々に私の実家へ夫と帰った。父は以前より少し痩せ、疲れたような顔をしていた。心配で父に体調を聞いてみると、「痩せたのは、下痢が酷かったのでそれ以来お酒を止め食べる量も少し減らしてたせい。まだもう少し体重を落とさないと理想体重にはならない。でも、頑張って随分減ったんだぞ。」と自慢気。
次の日のお昼は父の大好きな蕎麦を食べに、いつも食べに行くお店へ行った。毎日食べても飽きないって言うほど蕎麦が好きらしい。この店へは、私達が実家へ帰ると、必ずと言って良いほど食べに来ていた。まさかこの日がここで父と食べる最後の日だったなんてこの時は夢にも思わなかった。

そういえば、この日の朝食の時に父が体中が痒いと言った事が気になって仕方がなかった。肝炎や癌の種類によっては全身に痒みが出る症状があると以前聞いた事があったから。
実家から帰る車の中で夫が「お父さん、随分顔色が悪かったけど大丈夫かな?」と心配してくれていた。私は父の顔色までは気がつかなかった。今考えると、(父は何の病気でもありませんように)と、祈るばかりで現実を直視出来なかったというか、父の今の状態を知ろうとしなかった気がする。

 3/27(水) 夜、母からTEL.。父が25日に近くの総合病院、私が以前入院した所へ入院したとの事。
私たちが実家へ帰っていたその日に、既に黄疸が出ていてそれに母が気が付き、私たちが心配してはいけないと黙ってはいたが、父には「黄疸が出るなんて普通じゃないから病院へ必ず行くように。」と、きつく言っていたようだ。
父は閉塞性黄疸を起こしていたようだ。これ以上胆汁が体に回らないように胆管から直接管を入れ胆汁をコンスタントに外へ排出されるよう処置をしたとの事。現在安静中、少なくとも3週間は入院が必要と言われたようだ。入院したての時はそう大騒ぎするほどの事ではないだろうとあえて母は私に連絡をしなかったようだ。しかし、3週間以上の入院が必要と医者から言われ、「これはただ事ではない・・・。」と入院して2日目にTELをくれた。

父は何年か前に高血圧のためしばらく薬を飲んでいたり、数年前に1度だけ血糖値が以上に高い数値になったため(後に判ったのだが膵癌の兆候だったようだ)近くの医院に定期的に通ったり、人間ドックへも毎年通っていた。母が食事には随分気を使ったせいもあり最近は血圧も血糖値も安定していた。唯、たばこの吸い過ぎと、仕事の関係で飲み会が多いこともありお酒の飲み過ぎは気になってはいた。 
まだ何の病気かは検査をしないと判らないらしいが、父が緊急入院したと言うこと自体ショックでたまらなかった。
この晩、夫と医学書やPCで病気のことを調べた。


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 4月〜6月16日・・・・・告知、抗がん剤投与


 4/6日(土) 夫と二人で父に会いに行った。初めは二人部屋だったが、父はとっても大きないびきをかくため、それが相手に迷惑になるからと個室へ入れてもらった。食事も摂れるようになり、トイレへも自分で行けるようになったようだ。しかし、まだ白目や肌の色は黄色い。思っていたより元気そうでとりあえず安心。
胆汁を出す処置をやった時、初め胃カメラを使ってやろうとしたらしい。実際カメラを入れたところ、途中腫瘍らしいきものが塞いでいて、それ以上進めず断念したようだ。父自身その時の様子を話してくれたのだが、とにかく痛くて痛くてその痛みに耐えるのにやっとだった、処置後、汗で全身びっしょりになっていたとの事。

 10日(水) 夕方5:30頃、父からTELがあった。「今すぐ帰ってきて欲しい。」と。この言葉が何を意味するのか・・、良い話ではないことは察しがつき、あえて・・・と言うより、逆に電話では聞いてはいけない気がして「どうして?」とは聞けなかった。夫が仕事から帰って来てから高速を使って実家へ帰った。車の中で夫と「お父さんは大げさだから、意外と心配するほどの事はないかもね。」と言いながら、でも心の中では(死ぬような病気じゃないよね、でも、もしそうだったとしても、1番辛いのはお父さんなんだから絶対泣かないようにしなきゃ、話を冷静に聞かなきゃ。)と、覚悟はしていった。
実家へ着くと、既に弟と父の兄の車があった。玄関を開けると母が直ぐ出てきて何とも言えないすがるような目で私に「最悪の結果になっちゃった・・。」とつぶやいた。私はそこで改めて覚悟を決め、父のいる居間へ入って行った。一通りの話は済んだらしく、弟と父の兄夫婦、運転してきたお嫁さん(お嫁さんのだんなさん、いわゆる兄夫婦の息子は6年前に病気で他界)が涙を流していた。
夕方主治医(内科)が父の病室へ来て母と二人、告知を受けたとの事。

膵臓癌(膵頭部癌)V期b、既に腹部、血管への浸潤、十二指腸を含めた腸管へ浸潤している。現状は手術をしてあげたくても現在医学では手術出来ない(してあげられない状態)と判断せざるを得ない状態。余命は1年は難しい、お正月を迎えてくれれば・・。
治療は最近認可が下りたばかりの新薬“ジェムザール”をしようと思う。
セカンドオピニオンを受けるようならレントゲンやCTなどの写真などは貸してくれる。唯、外科的なことで地元の大学病院へセカンドオピニオンを受けるつもりならそれは必要ないかも。検査結果を診て判断した先生は今年その大学病院から来たばかりの先生だから。

告知の際、主治医が病状を説明しながら書いてくれた2枚ほどの用紙のコピーを父から渡された。とても現実の事とは思えなかった。この間まで普通に生活していたのに・・・。ふと父を見ると、直ぐそこに座っているのにとても遠い所にいるような感じがした。父は他の誰よりも穏やかな顔をしているように見えた。
後から母に聞いたのだが、告知を受けたとき、父は顔が青ざめ握ったこぶしはガタガタ震えていたが、取り乱す事もなく落ち着いた様子で主治医の話を聞き、主治医が部屋を出て行った後、母に「悪いな、こんな事になって・・。」と、二人で泣いたそうだ。

「今日は寝られないだろうし、家族とこれからの事を相談したいだろうから外泊しても結構ですよ。」と主治医に言われ、私達に連絡をしてから自宅へ帰ってきたとの事。

父は「抗がん剤治療をする事になるけれど、経験した者としてアドバイスか何かあるか?」と私に聞いた。父のこの現実を受け入れるのがやっとで、頭は真っ白、「ジェムザールって言うのがどんな抗がん剤なのか調べてみるね。」と言うのがやっとだった。
父は父の兄が帰るまで「先に逝く事になって、悪いね。」と何度も言っていた。

父の兄達が帰ってしばらくしてからまだ何も知らされていない妹が仕事から帰ってきた。病院に居るはずの父や私達姉兄が顔をそろえていたので「何かあったのか。」と、びっくりした様子の妹に父は無言で先程のコピーを渡した。しばらくそれを読んでいたが突然「嫌だ〜!!」と大声で泣き出した。側に居た母がしっかりと抱きしめた。私はその様子を見て、今までずっと我慢していた涙が一気に溢れて来た。

この日は実家へ泊まった。涙が止めどなく流れ、夜はほとんど眠れなかった。でも、涙を流すのはこの日で止めよう、悲しんでいる暇があったら、少しでも父が元気になれる事を考えなきゃ・・・と自分自身に言い聞かせた。

 11日(木)  父は次にいつ帰ってこられるか判らないし、平日が休みの弟とはなかなか顔を会わす機会がないので、朝、皆で父を囲み庭の水仙の前で写真を撮った。その後、父は病院へ行くまで家の周りを見て回っていた。庭や庭にある小さな畑をいじるのが生きがいの一つだった。そんな父の姿を見ていられなくて父に涙を見せまいと慌てて家へ駆け込んだ。夕べ、泣くのは止めようと決めたばかりだったのに・・・。
午前中の内に病院へ戻った。お昼頃主治医(外科)からこれからの事の説明があったので私達も一緒に聞いた。前日より細かい病状説明がされた。
CTの結果、腫瘍が太い血管に取り巻くように出来ている。このような状態になっていなければ手術も可能だったかもしれないと説明された。この説明があった時、父は内科の主治医には話してありますが・・と、生まれながら腸に奇形(腸が片側に寄っていて盲腸も普通の人と逆側にについている)がある事を話した。この話は外科の主治医には初耳だったらしく、「もしかしたらCTで血管に取り巻いているように見えた腫瘍は変形している腸かもしれない。では、MRIでもう少しよく調べみましょう。もしかしたら手術が可能かもしれません。」と言われた。絶望状態の私達は一気に明るい気持ちになった。父は涙を流して「良かった。」と喜んだ。(今、1番辛いのは父なんだよな〜)とつくづく思った。良い結果が出る事を祈った。

この日は自宅へ帰った。その車中で、「私達が父にしてあげられる事はなんだろう?」と二人で考えた。夫が「6人乗りの車にすれば、お父さんを乗せ家族皆でドライブに行く事も出来るかもしれないな〜。」と言った。今乗っている車は1500cc、このクラスでは父を乗せるのは辛いかも・・。「それ、良い考えだね。じゃ〜早速あちこち車屋さんをあたってみよう。」と言う事で、あちこちの車屋さんを回りその日の夜9時には契約が済んでいた。夕食後はひたすらPCで“膵臓癌”について調べた。

 13日(土)  1泊で夫と実家へ帰った。父に2泊の外泊許可が下りていた。主治医(内科)が、体調が良い時はなるべく外泊出来るようにしてくれたらしい。しばらくは帰れないだろうと思っていたので私達も嬉しかった。帰る途中、神社に寄って厄除けのお札を祈祷して貰ったりお守りを買ったりした。神社の桜は満開。そう言えば母が言ってたっけ。告知された日、自宅へ父を車に乗せ帰ってくる途中、桜の木の下を通った時、父は「桜の花を見るの、これが最後かな〜・・・。」と言ったそうだ。その時母は涙が溢れてきて「そんな悲しい事言わないでよ。」と言うのがやっとだったと話してくれた。

父も母もこの間よりは少し明るい顔をしていた。父と同じ病気をし余命半年と言われていたがその後仕事が出来るようになるまでに回復し何年も生きていると言う人のHPを昨夜プリントアウトしたのだが、励みになればと、父に渡した。それと、この間皆で撮った写真を病室に飾ってもらおうと写真立てを買ってきたのでそれも渡した。元気が出るように・・・と、黄色い縁取りのものにした。

 15日(月)  妹と千羽鶴を折る事にした。夫は鶴を折った事ないけど・・・と言ったけれど手伝ってくれるとの事。
朝、庭のプランタで育てている行者にんにくと山椒の葉を摘んだ。どちらも、父が育てていたものを分けてもらったもの。父からもらったもの一つ一つが思い出になってしまうかも・・と思うと悲しい。

 16日(火)  約1時間、電車に乗って父の所へ行った。母が駅まで迎えに来ていてくれた。MRIの結果が今日出る予定だったが変更になり、再び検査をする事になったらしい。
14日、食べ過ぎと便秘でお腹が張り、あまりの苦しさに夕食前に急遽病院へ戻ったとの事。この事をこの日初めて聞きびっくり。そう言えば、お昼もそうだけど3時のお茶でも一人でパクパク食べてたっけ。少しでも沢山食べて体力をつけようと父なりに思ったのかもしれない。しかし、限度と言うものが・・・。気持ちは判るけれど・・。病院では腸閉塞を起こしたかも・・・と、随分慌てたらしいが、そうではなかったようだ。ただの食べ過ぎに便秘が重なったらしい。

 18日(木)  家にいて少しでも空いた時間があればインターネットで膵臓癌の検索をするか千羽鶴を折った。
父が宣告を受けてからずーと胃痛が続いている。特に夜痛みが酷くなる。脂っこい物が食べられなくなり食欲もあまりない。体重が減るのは嬉しいけれど、体調だけは崩さないように気をつけないと。

父の所へ行くたびにPCからプリントアウトした膵臓癌関連のものを持って行った。他県で膵臓癌治療に力を入れている病院のHPがあったので、後悔しないためにも1度セカンドオピニオンを受けてみては・・・と、何度か薦めてみた。しかし、答えはNO。「ここの病院の先生を信じる。それにもしかしたらここから転院しなければならなくなるかもしれない。そうすると今までのように少しずつでもやっていた仕事が出来なくなるし、自宅から遠い所へ入院してしまえば今までのように度々外泊できなくなるし、看てくれる人、特にお母さんが大変だ。」と父は言う。話の感じからしてやはり1番気にしているのは別の病院で診てもらってしまうとここの先生を裏切った事と同じになるからもうここへは帰ってこられなくなるのではと思っている事である。今はそういう時代ではないよと言っても、もともと人1倍気を使う性格のため受け入れられないようだ。しかし、父自身がそれで良いと言うのであれば、それを押してまでセカンドオピニオンを受けても、逆にそれがストレスになりかねないし、何と言っても父の体の事なのだから父の気持ちを1番に尊重しなければと思い、セカンドオピニオンはあきらめた。しかし、その後も本当にそれで良かったのか、やはりいろんな選択肢がある事をもっと話した方が良いのでは・・、もしかしたら今より良い状態で延命できる可能性があるのでは・・と、しばらく悩んだ。
 
 19日(金)  今日は放射線科へ3ヶ月に1度の検診の日。胃痛が酷いのでついでに腹部と胃をエコーで調べてもらった。異常なし。主治医に父の事を話すと、精神的なものかも、ガスターを出しておくけど痛みがあまり続くようだったら胃カメラをやろうと言われた。
「やはり膵臓癌は治療が難しいし本人も辛い病気。なるべく家族と過ごしたり、やりたい事をやらせてあげるようにした方が良いよ。」と言われた。ジェムザールや放射線治療の効果などいろいろ聞いてみた。やはりあまり期待できる返事はなかった。でも、不安に思っていた事を聞いてもらえた事で自分自身とても気持ちが楽になった。私の事意外でも親身になって話を聞いてくれてN先生には感謝です。

 20日(土)  父に2泊の外泊許可が下りたと言う事なので夫と実家へ1泊で帰った。
夫は早くにお父さんを亡くしていて、親孝行が出来なかったと言う気持ちがあるようだ。そういう事もあって、夫は父の事では親身になっていろいろと尽くしてくれる。感謝、感謝である。 

妹は3年前からお付き合いしていた人がいる。しかし、なかなか結婚までは踏み切れないでいた。二人の間で、いつかは・・・と言う話はしていたようだが。今回、父がこういう事になり、生きているうちに花嫁姿を見せたいと、今日その相手の人が家に来た。父はパジャマから洋服に着替えた。「私が生きているうちに式を挙げて欲しい。」と父は彼に言った。私たち家族も同じ思いだった。

 21日(日)  ちょっとした‘五平餅ち’パーティーを家族皆でやった。毎年山椒の葉が出るこの時期に炭火を起こし、ご飯を父と私とでつぶし、父が竹の型で抜き、私が串に刺し炭火にかける。夫と妹はそれを色よく焼き、母が作った山椒入りの味噌ダレをつけもう1度火にかけ焦げ目をつける。昨年は庭でやったっけ。今年も庭で出来れば・・・と思ったが天気があまり良くなかったので家の中でやった。父は毎年この五平餅作りを楽しみにしていた。今回父は見ているだけだったが、とても嬉しそうな顔をしていた。来年も出来たら良いな・・・。

 23日(火)  電車に乗って父の所へ行った。宝くじのハズレ券で白鳥を作っていた。これと言って症状がある訳でもなく、暇を持て余している感じだった。とても末期なんて信じられない。今は食事だけが楽しみのようだ。

MRIの結果が出た。最初の判断通り、血管を取り巻いているのはやはり腫瘍だろうとの事。期待していた結果は出なかった。

 26日(金)  今日から抗がん剤(ジェムザール)の投与開始。1週間に1度投与、それを3週続け4週目はお休み・・・・4週間で1クール。
午後5時ごろから投与するらしいと母からTELがあった。ジェムザールは癌細胞を死滅させると言うよりそれ以上広がらないようにする働きがあるとの事。随分広がってしまった癌細胞には焼石に水かもしれないが、やらないよりはやった方が良い。幸いこの抗がん剤は従来のものと違い副作用があまりないらしい。それでもどんな副作用が出るか判らない為、明日から2泊の外泊許可をもらうはずだったが却下になった。

 27日(土)  2泊で夫と実家へ帰った。その途中妹からTELがあり、父の副作用が思っていたより出なかったので2泊の外泊許可が下りたとの事。副作用が少ないとは聞いていてもやはり心配だったのでそれを聞いて「ほっ。」とした。もしかしたら帰れるかも・・・・と父の好きなホタルイカと大根の煮物を作って持ってきていて良かったと思った。
実家へ帰ると既に父は家にいた。多少の頭痛と37度前後の微熱がある程度との事。とても抗がん剤の治療後の顔とは思えない元気そうな顔をしていた。

 28日(日)
  父が「〇〇亭のちらし寿司を1度食べてみたい。」と言い出した。そこは父行きつけの割烹。いろんな料理をここでは食べたけれど、ちらし寿司だけは食べた事がなく以前から食べてみたいと思っていたそうだ。早速お願いして夕方取りに行った。ホタテやまぐろの刺身がこれでもか〜って程のっていてとても豪華なものだった。父が「おいしい、おいしい。」と言って食べている姿を見て涙が出そうになってしまった。

 5/12(日)  お昼を近くのコンビニで買って、病院で父と一緒に食べた。この日の病院食はサンドウィッチにクリームシチュー、ジョアなど。普段父があまり好きでないものばかり。元気で家にいたら絶対食べないだろう。しかし、食事だけを楽しみにし、少しでも体力をつけ癌と戦おうとしている父は好き嫌いは二の次になっていた。一生懸命食べている父の姿が何だかとっても可愛く見え、思わず父が持ってきていたデジカメで食べている姿をパチリ♪

 14日(火)  今日の父はとても良い顔をしていた。本人も「自分が癌なんてとても思えない。それにお父さんには夢がある。それは今の仕事は後2、3年で辞めて、裏庭の畑をつぶし、そこへ掘っ建て小屋を作ってそこで彫刻をしたい。既に昨年の内から練習用にと干してある木があるんだ。そろそろ彫ろうと思っていたんだけど・・・。抗がん剤治療が外来で出来るようになったら観音様を彫ってみたい。せめて死ぬ前に1つだけでも完成させたいと思っている。それから今年土手にラベンダーを植えようと思っていたんだ。」
「そっかー、せめて木彫りが出来たら良いね。でも、あまり無理しないで。」と私。
そんな父の話を聞いていると父がとっても可愛そうに思える反面、もしかしたらこまま癌が消えてまた元気な父に戻れるんじゃないか・・・と思えてくる。癌が憎いと思った。

 18日(土)  最近は自宅から病院へ直行するのでほとんど実家へは帰っていなかったので、母とはTELで話すぐらいで会っていなかった。久しぶりに実家へ行き母に会った。父の事があってから母はすっかり老けてしまったように見える。
父の最近の様子など聞いた。今日の採血の結果、白血球が2000と少ないので病室へ入るときは手など消毒して入るように言われたそうだ。
ひとしきりしゃべってから父の所へ。少し下痢気味との事。横になっていると思ったが起きて鶴を折っていた。

 19日(日)  今日の父はよく寝る。白血球も少ないし体がだるいのかな。

 21日(火)  ステントのサイズを知るため、お腹の中をあちこちいじられたらしく水分と抗生剤の点滴をした。
ステント・・・・・人工胆道のようなもの。黄疸を軽くするために胆汁を排出する管の代わりになるもので、小さな網状のものをいく通りにも組み合わせて、癌のために細く狭窄してしまった所を貫通させるもの。

結局父はこれを入れる事はなかったが・・・。

 22日(水)  昨日お腹をいじられてから食事の許可が下りず、朝から37.5度と熱もあった。お昼頃には36.5度にまで下がった。白血球は6800。・・・・私よりあるな〜。とりあえず安心(私は4000前後)
検査の結果消滅した腫瘍もあるらしい。少しでも抗がん剤の効果があるのは有難い。

 25日(土)  外泊の許可が下り朝から自宅へ帰っていた。昨日の夕方抗がん剤をした影響で体がだるいようだ。胆汁の出がほんの少し良くなり正常の6分の1通るようになったらしく、様子をみるため、胆汁を外へ出すためのお腹から入れている管を外してもらっていた。主治医から「もし黄疸の症状が出てきたら病院へ直ぐ戻ってくるように。」と言われたようだ。

 29日(水)  やはり管を外していたのは無謀だったらしく、体中黄色身を増し、昨日はその炎症で37.9度の熱が出たようだ。その為食事はしばらく食べられないらしい。しかし、父自身わりと元気で宝くじのハズレ券で孔雀や鶴を作っていたが、それに飽きたらしく、私にプラモデルを買ってきて欲しいと言った。気持ちが落ち込んでいないのが救い。

 6/1(土)  昨日の夕方2クール目の2回目の抗がん剤の投与をし、今朝調子が良ければ外泊の予定だった。しかし、副作用がひどく、絶食も続いていて許可が下りなかった。

 5日(水)  今日、父のところへ行って初めて知ったのだが、金曜日の抗がん剤投与後ひどい嘔吐をしたと言うのだ。血も混じっていたらしい。検査の結果、十二指腸が狭窄しているらしく、水分や胃液などが胃から流れなくなくなっていようだ。その為、食べたものなどが腸の方へ流れていくように、バイパス手術をする事になった。そのついでに胆管のバイパス手術と、採れるだけの癌を採る予定だと主治医から説明があったとの事。

告知を受けてからも、先天性の腸の変形の影響もあるのか、はっきりした状況が開腹してみないと先生たちにも判らないようで「こうなっていると思われる。」「多分・・・だろう。」と言われることが事が多かった為、実際癌細胞が父の体の中でどのくらい蔓延しているのか、もしかしたら癌ではないんじゃないのか、とすっきりしない気持ちのままここまで来た。だから私達にとっては開腹する事で病状がはっきりするのだと、手術する事を喜んだ節もある。父自身は辛い思いをする訳だが・・・。
開腹したら思っていたほど癌が広がっていないのではないか・・。と言う気持ちが強かった。
相変わらず絶食が続いているが、それが手術後まで続く事になる。絶食が続いているせいで、すっかり痩せ細りいかにも病人と言った風に見える。でも、気持ちの方は元気そうでとりあえず安心。

 9日(日)  手術予定日6/19と決まった。抗がん剤投与は先週の金曜日から中止、外出は良いが外泊はしばらく無理と言われたようだ。

 12日(水)  今までは水分点滴しかしていなかったが、24時間の高カロリー輸液に変わっていた。食事が摂れないのがとても辛そうだ。鶴作りもそろそろ飽き、退屈のようだったので、近くのスーパーへプラモデルを買いに行った。ガンダム・・・・。ほんとはボンドを使わないで作れるお城や5重の塔のようなのがあればと思っていたのだがここにはなかった。それを見て父は「なんだこりゃ?」と言っていたが、説明書を一生懸命読んでいた。
食事を摂れないせいか疲れやすく横になっている事が多くなった。

 16日(木)  今日は父の日。妹と3人で父にやっと出来た千羽鶴と外泊の時に着てもらおうと買ったハウスウエアーを渡した。全く食事が摂れない父は精神的に相当限界が来ている様で目だけが鋭くギョロッとしていた。表情も暗く笑顔はみられなかった。
この間買ってきたガンダムが完成し病室に飾ってあった。
昨日から外科病棟の個室。今度の部屋は今までと違いトイレもお風呂もついていない。
手術の開始時間は1時の予定との事。


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 6月19日〜23日・・・・・手術


 6/19(水)  手術当日
私が病室へ着くと既に手術着に着替えベットに横になっていた。母は朝早くから来ていたようだ。そのうちに仕事を午前中で切り上げてきた妹が到着。母はお守りを握り両手で父の手をずっと握り閉めていた。午後1時過ぎに麻酔の筋肉注射をしてもらう。午後1:30、「そろそろ行きましょう。」看護婦さんが迎えにきた。手術室の前まで父についていった。別れ際に一人一人父と「頑張ってね。大丈夫。」と声をかけながら握手した。腫瘍が採れる事を祈った。
その間に父の兄、そのお嫁さん、そして弟が来た。
手術は3時間ほどで終了。時間の短さが腫瘍を採る事が不可能だった事を教えてくれた。悲しかった。手術直後執刀してくださった主治医から簡単に説明があった。「バイパス手術の方は成功したが、思っていた以上に腫瘍の広がりがひどい。手のほどこしようがなかった。」と言われた。残酷な事実にショックを受けたがとりあえず予定通りバイパス手術が成功し何日か経てば以前のように食事が採れるようになるであろう事、父の状態が安定している事にはほっとした。
酸素マスクをし、チューブだらけの父はとても痛々しかった。
父は「痛い、痛い。」と何度となくつぶやいて、苦しそうだった。皆で代わる代わる汗をぬれタオルで拭いてやったり、タンがうまく出せないのでそれをティッシュでとってやったりした。
午後8時過ぎ、再び主治医が説明してくれると言うので、妹に父の事を任せナースステーションへは母、弟、私の3人で出向いた。PCに取り込んだ父の開腹された腸の映像を見ながら説明を受けた。初めにどのようにバイパス手術をしたかの説明を、その後現在どれだけ腫瘍が広がっているのかの説明をされた。肝臓への転移は見られないが、小腸、大腸のいたるところに播腫が出来ていた。その播腫が映像からもよく見れた。私達が思っていた以上に癌は広がっていた。私は勇気を出して「余命はどのくらいですか?」と主治医に聞いた。「本人の努力と抗がん剤の効き方で変わってくるが、余命は3ヶ月位でしょう。」と主治医。
しばらくは、最初に宣告された余命より短くなった事、既に腹部播腫が出来ていた事は本人には黙っていてもらう事にした。そうでなくても今年いっぱい生きられれば・・と辛い宣告を受けているのだから。しかし、言わなければならない時がきたらその時の成り行きで話す事になるだろうと言われた。もともと父は病状は全て隠さず話して欲しいと主治医に言っていた。
父が少しでも明るく前向きに癌と戦っていけるよに、少しでも免疫力がアップするように、体調の良い時は外泊、それが無理ならせめて外出許可をなるべく取れるように主治医にお願いして父のいる病室へ戻った。
この晩、母が病室へ泊まった。私は実家へ泊まった。

 20日(木)  昨日よりは落ち着いた様子だがやはり昨日の今日、まだまだ辛そう。酸素マスクは午前中のうちに外された。
胃から出る排泄物を鼻から管を通して外へ出すようにしているが、ドロドロしているせいかなかなか自然には出にくいようで、看護婦さんに時々注射器で吸い取ってもらっていた。吸い取ってもらってしばらくは良いようだが、胃にそれが溜まってくるとしゃっくりが出始め、胃が焼けたようになるとかで、それが辛いようだ。
母がもう1晩父の所へ泊まるというので私ももう1日心配なので実家へ泊まった。夫へは度々父の様子をメールで報告した。

 21日(金)  朝8時ごろ病院へ出掛け、母とバトンタッチ。父は痛み止めの座薬を入れたとかでウトウトしていた。
午後、看護婦さんに手伝ってもらって談話室までの20M先まで歩いてみた。談話室で一休みして再び病室まで歩いて戻ってきた。あまりにも父がスタスタと歩くので看護婦さんたちがびっくりしていた。少し無理してるような気がして「慌てなくても、もっとゆっくりゆっくり歩けば良いのに。」と私が言うと「ヨボヨボ歩いてたらかっこわるいじゃん。」だって。

父の容態が安定してきたので、この日は自宅へ帰ることにした。

 23日(日) 尿管が取れ、歩行練習をしても一昨日以上にスタスタ歩けるのには驚いた。点滴スタンドや体から出ているチューブがなければ、普通の人と何ら変わりないように見える。

入院して間もない頃、父が「献体しようと思っている。お前はどう思う?」
私は「体を切り刻まれるのは悲しいけれど、お父さんが誰かの役に立つためにって思って望むなら反対はしないよ。」と言う会話をした事があった。この時この話はこれっきりで深くは話さなかったが、たまたま「献体」について書かれているサイトを見つけたので、この日それをプリントアウトして父に渡した。
「手続きもいるし、何人もの親族に承諾を得なきゃならんのか・・・。少し考えてみる。」と父。

その後、この話は父の口から出る事はなく、私もすっかり忘れていた。
結局献体をする事はなかった。


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 6月26日〜7月・・・・・術後



 6/26(水)  鼻の管が外され、流動食が食べられるようになっていた。随分元気も出てきたようだ。この日私は、退屈しのぎになれば・・・と300枚入りの折り紙を買っていった。それを渡すと早速折り始めた。が、やはりまだ体力がないため、少し折っただけで「疲れた・・・。」と言って横になってしまった。「無理をしたら駄目だよ。」と私。

 30(日)  昨日から又絶食になったらしい。食べる時は美味しく頂けるのに、その後吐いてしまうようだ。手術さえすれば、直ぐにでも食事が出来るようになると思っていただけにかなりショックの様子。
午後、父の体を拭いた。筋肉質のガッチリしていた父の大きかった背中は思っていた以上にガリガリ・・体も一回り小さくなっていた。以前の父の体の面影など全くなかった。子供の頃、よく父の背中を洗った事を思い出し、涙が出そうになった。
フッと見ると手術した縫い目から血が染み出てきているのに気づいた。慌てて看護婦さんを呼んで処置してもらい、パジャマや下着を着替えさせた。
何もかも良い方向へ進まない苛立ちもあり、父はその後布団の中へもぐったままだった。

 7/3(水)  同じ階の別の部屋へ引っ越した。今までのところよりお値段が少し良いだけあって殺風景だがわりと良い感じの部屋だ。窓からは木々の緑が生い茂っているのが見え、鳥のさえずりもよく聞こえる。トイレも完備されている。そう言えば私もここの階の父が入った病室の並びに入院してたっけ・・。あの頃私が見ていた景色と同じ景色を父は見て過ごすんだな〜って思った。この病院、5、6年程前に改築してすっかり病室が綺麗になっているけれど、私がここへ入院してた頃はこの個室は薄暗い部屋だった。自分が入院していた時の事が思い出される。

 7日(日)  父の体からいくつものチューブが出ていたけれど、今は高カロリー輸液と胆汁の二つだけになった。食事を摂れる見通しは“0”。手術してから随分経つのにいったいいつから食べられるようになるんだろう?そのために、あんなに父は辛い思いをしたのに・・・。
時々、胸焼けがしたり苦いげっぷが出るようだ。

 9日(火)  夜、母からTELがあった。昨夜病院からTELがあったらしい。父は自分でTELが出来なかったので、看護婦さんにお願いしたようだ。今まで経験した事が無いくらいの酷い腹痛におそわれ、座薬を入れても治まらず、痛み止めの注射をしてようやく痛みがなくなったようだ。母は心配だったので今朝の4時まで父の側にいたとの事。
「一人で抱え込まないで、お母さんが倒れたらそれこそ大変なんだから、病室へは私が泊まったって良いんだから、無理しないで・・・。」と私。これは私の口癖のように母にずっと言ってきた言葉。しかし母は「お父さんは私じゃないと駄目だと思う・・・。」といつもの返事。母の気持ちも判るけれど決して健康とは言えない母の体がとても心配だった。
食事は相変わらず摂れないようだ。父は「死ぬまで食べられないのかな〜?」と母につぶやいたそうだ。
食事さえ摂れれば、破れかぶれになっている父の気持ちがもう少し落ち着いて、もっと病気とも前向きになれるのに・・・。

 14日(日)  11日に抗がん剤投与。今回はいつもに比べ吐き気や発熱などの副作用がきつく出たようだ。
手術をしたり食事が摂れなかったりするせいだろうか。
父自身、益々気弱になってきた。「冬までは生きられない・・。」とまで言うようになった。
手術直後は「来年にはゴルフが出来るかな〜、今年の冬には予定していた旅行に行きたい。」と、とても前向きだったのに・・・。
現実が父を後ろ向きにさせてしまう。

 17日(水)  手術後初めて見せる父の明るい顔。今日は調子が良いようだ。少しなら水分を摂ったりガムを食べたり出来るようになったらしい。体は以前にも増して痩せていたが、父が病気である事を忘れるくらい久々に沢山おしゃべりが出来た。
明日は抗がん剤投与の予定。

 21日(日)  抗がん剤の副作用の微熱と、腸の動きをよくする薬の副作用で腹痛があり辛そうだった。
父が食事を摂れなくなってからは父のいる病室では食事はしないことにしていた。今日もお昼を食べに夫と談話室へ。食事をしていると、どこかの病室でなにやらバタバタと看護婦さんらしい足音が聞こえる。(もしや・・・)と思い父の病室へ二人して慌てて向かった。父はベットに腰を下ろしていたが特別変わった様子はない。しかし、時既に遅かったようだ。賑やかだったのはやはり父の病室。洗面所で大量に胃液を吐いたようだ。その後始末に看護婦さんを呼んだらしい。
私たちがいる間に起きた事なのに、肝心な時は全く役に立てない自分が情けなかった。
父に聞くと、1日に何度も大量の胃液を吐くらしい。これはどう考えたって普通ではない。
今週、この理由を調べるため、検査をする予定との事。

 24日(水)  昨日、胃カメラをやったとの事。胃液が胃に随分溜まっていたようだ。今日は11:30〜造影。今日も胃液が大量に溜まっていたので、鼻から通した管からそれを出し、その後検査をしたようだ。その分いつもより余計に時間がかかり、いつもなら30分で終る所が1時間かかった。父は疲れたようで、ぐったりして検査から帰って来た。

 27日(土)  朝、妹からTELがあった。母がだいぶ疲れているようで、先日行った検診で著しい体重減少、貧血、栄養失調と言われたとの事。急遽実家へ1泊する事にした。最近では、私達が実家へ泊まると逆に母が疲れてしまうのではと思い、寄る事はあっても泊まる事は避けていた。逆効果だったのかな・・。
実家近くのスーパーで冬瓜やオクラ、鶏肉など買ってスープやサラダを作った。「やっぱり皆で食べる食事は美味しい。これからは食欲がなくても薬だと思って頑張って食べるね。」と言ってくれた。もう少し私が近くに住んでいたら食事くらい母の分も作ったり一緒に食べたり出来るのに・・。出来ない事を愚痴っても仕方ないけれど・・。

今日の父の調子はまーまー。久し振りに父が笑う顔を見た。

 28日(日)  昨日とは、打って変わって見るからに具合が悪そう。抗がん剤の副作用で発熱があるようだ。
この日は少し早めに病院を出てお墓がある飯田市に向かった。ご先祖様に「父が元気になれますように・・・。」とお願いをしてきた。
「こんな時ばっかり・・・。」 ご先祖様は言っているに違いない。

 31日(水)  昨日は内視鏡と造影をやったとの事。造影は全身麻酔で2時間かけてやったらしい。今日はその副作用で下痢、発熱、吐き気があり辛そうだった。検査をするだけで体力を随分消費してしまう。

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  8月〜9月・・・・・最終宣告


 8月1日(木)  夜8時過ぎ、母からTEL.。父が食べられるようになるには手術しかないかも・・・と主治医に言われたとの事。父も母もすっかり落ち込んでしまった様子。

いったいこの間の手術は何のための手術だったんだ!!

 4日(日)  胃液や胆汁が溜まり過ぎて、胃拡張を起こしているから、鼻から管を入れてそこから胃の中の物を出し、胃を元の大きさに戻して様子を見ることになったようだ。鼻に管を通すのは明日やる予定。
鼻から管を通すのを随分父は嫌がった。喉に違和感を感じ、なおかつ喉に痛みが出るらしい。それはそうだろう、気持ちが良いものではないと容易に想像は出来る。でも、吐いてばかりいたら体力も早く消耗するし、父自身も吐く事の方がずっと辛いと思う。「鼻に管を通すのは辛いと思うけど、嘔吐がなくなった方がもっと楽になると思うよ。」辛い説得・・・。父は私の説得を黙って聞いていた。
嘔吐は毎日数回あるが、最近は今まで以上に吐く回数が増えたので、何故下のほうへ流れていかないのか検査する事になった。

母や夫とも嘔吐のことではいろいろ話したけれど、胃の分泌物が落ちていけないほどの大きな腫瘍が出来てしまっているんだろう。そうでない事を祈るしかない。主治医は検査の結果が出るまでははっきりとした事は言ってくれないようだが・・。

 5日(月)  妹から「お父さん、今日鼻から管を通したよ。」とメールがあった。
昨日は私が帰るまで「管は通したくない。」と言っていたので随分心配していたが・・・、良かった。

 7日(水)  鼻に管を通したため、続いていた嘔吐はなくなったようだ。そのためかこの間までと比べ顔色も良く元気に見えた。でも、それとは逆にとっても弱気な父。「良い父親だったんだろうか?」「何のために苦労して家を建てたのか・・。」「結婚式には出られそうにない。」 etc.

管のせいでとても喉が痛そう。声もかすれ、小さな声しか出せないようだ。

 8日(木) 夕方母から「◯◯さん(夫の名前)が帰り次第、病院へ来て欲しい。相談したい事があるんだけど。」とTELがあった。
夫が帰り次第、高速で病院へ。
病院へ着くと既に父の兄が来ていた。
今日造影の検査をし、その結果が夕方出たとの事。胃の直ぐ下にあった播種がやはり大きくなっていて腸を塞いでいたようだ。もう、抗がん剤は効かない。もう、手のほどこし様がない。後、やれる事は食べられるようにするためにもう1度手術をするか、食べる事はあきらめて、胃に分泌物が溜まらないように、胃に直接穴を開けそこへ管を通し、そこから分泌物を外へ排出する処置をするかだ。そのどちらにするか考えて欲しいと主治医から言われ、父と母だけでは答えを出せないと言う事で私達を呼んだとの事。辛い選択・・・。
主治医がいなくなってから「そんなに悪くなっていたのか・・・。」と絶望しきった顔をしていたようだ。母と二人声を上げて泣いたそうだ。
私達が着く頃には何とか落ち着きを取り戻していたようだ。この話を後で母から聞いたのだが、この時の私達と話す父は落ち着いていてとても穏やかで、数分前までそんな状態だったなんてとても想像できなかった。
父自身、「出来ればもう1度賭けてみたい。もう1度食べられるようになりたい。」と言う気持ちが強かった。しかし、主治医からは手術して食べられるようになる可能性はとても低いと言われたとの事。母は手術は反対だった。前回手術した時より体力はずっと落ちている。可能性の低い方に賭けて、やっぱり食べられなかった、娘の結婚式にも出席できないではあまりにもお父さんが可愛そう・・・、と言うのが母の意見。
父の兄も夫も私も母の意見と一緒だった。しかし、父の人生、私達がとやかく言えることではない。
ほんとに、ほんとに辛い選択。どっちに転んだって父の病気が治るわけではないのだから。父の気持ちを考えたら胸を締め付けられる思いだった。
「もうあなたは死ぬのを待つだけです。」とはっきり宣告されたのだから。

父に私の気持ちを尋ねられ正直に答えた。「今回の選択が◯◯(妹の名前)の結婚式の後だったらまた違っていたかもしれないけれど、あまりに低い可能性に賭けるのは・・・と思う。でも、お父さん自身悔いのない選択をして。お父さんの人生なんだから。」

父は妹の結婚式までは何とか生かさせて欲しいと以前から主治医に何度もお願いしていたようだ。

しばらく考え込んでいた父が「そうだよな〜、この間の手術の時はまだ体力があったけれど今回はそうじゃないから、もし、今手術したら歩けるようになるまでに回復するには相当時間がかかりそうだ。◯◯の結婚式ではどうしても自分の足でバージンロードを歩きたい。それには手術は無理だな〜。」
この言葉を聞いて、私達が手術しないでと言わんばかりの意見をしてしまったから、父はほんとは手術をしたかったけれどあきらめちゃったんだろうか・・・?
「お父さん、ほんとに自分がしたいようにすれば良いんだからね。私達の気持ちを聞きたいって言うから正直に答えただけで、お父さんがそれでもやっぱり手術をしたいって言うのならそれに賛成だからね。」と何度も父に言った。しかし、もう2度と手術をしたいとは父が言う事はなかった。

帰りの車の中で(最初にお父さんは手術をしたいって言ってたんだから素直にそれに賛成していた方が良かったのかな〜、私が自分のほんとの気持ちを言ってしまったばっかりに、皆がそれを望むならって、自分の気持ち、押し殺しちゃったのかな〜?)と、ほとんど後悔に近い気持ちだった。

 9日(金)  午後2時ごろ母からTELがあった。昨日、父が決断したように、手術はせず胃に直接穴を開ける方法をとる事にしたようだ。その後、在宅で看護できればそうしたいとの事。

 11日(日)  父の外出許可が下りたので朝7時ごろまでに病院へ夫と行った。皆で旅行したり、父が横になったまま乗れるようにと買った車がやっと役に立つ日が来た。点滴や体からチューブが出ているのでそれに気を配りながら何とか父に横になって車に乗ってもらい、点滴スタンド、車椅子なども車へ乗せた。まず向かった先は父の仕事場である事務所。必要な書類などを探したり、時間が許す限り簡単に整理したり・・。
父が私に「このデジカメのプリンター、お前にやる。デジカメは病室にあるから後で持っていけば良い。」と言った。デジカメもプリンターも持っていたが、「ありがとう。じゃあ〜もらうね。」と私。(父の形見になるのかな〜)
父は車椅子に乗るのももどかしい様でうろうろと事務所の中を動き回った。目はきらきらと輝いていた。元気な時の父がそこにいた。この姿、目に焼き付けておこうと思った。
その後、実家へ帰った。手術後初めての帰宅。しばらく、庭を眺めてから自分の部屋のベットに横になった。随分体力を使ったようで、少し疲れた様子。顔に汗が薄っすら光っていたのタオルを濡らして来て拭いてあげた。
少し休んだ方が良いと思い父をおいて皆で居間へ移った。父は休むかと思っていたが携帯であちこちTELしまくっていた。元々父は電話魔、特にお酒が入ると所かまずあちこちかけていた。私が結婚したばかりの頃は酔ってよくかけてきたものだ。私が煙たがるのでそのうちかけてくることはなくなったが、今思うとちょっと可哀想だったかなと思ったりもする。
後で叔父さん自身に聞いた話だが、父はこの、12歳離れた弟である叔父さんには毎週1回は必ずTELしていたようだ。

一通り電話が済むと、皆と一緒にお茶を飲むと言って居間へ来た。飲むと言っても父はほんの少し口に含む程度しか飲む事は出来ない。飲んだお茶は間を置かずに管から出てくる。

私が一人で家にいる時はお茶など飲む事はないが、実家へ帰ってくると必ず午前10:00と午後3:00には皆でこの居間でお茶を飲むのが習慣になっていた。これが出来るのは、今日が最後ではありませんようにと祈らずにはいられなかった。

外出して2時間半後に病院へ戻った。疲れたのか病院へ戻ってからはほとんど寝ていた。心配していた熱は出なかった。
精神的にはまだあの最終宣告の時のショックから立ち直れていないようだった。私たちは元気づける言葉も見つからなかった。下手な事を言っても気休めにしかならないから。

 12日(月)  胃から外へ出す管をつけるための手術を全身麻酔でやった。心配だったのでとりあえず2泊分の着替えを持って病院へ行った。手術は午後1:45〜3:15。手術中、母と父の事、妹の結婚式の事、これからのその他もろもろの事を話した。

手術が無事終わり病室へ戻ってきた父は5時過ぎまでウトウトしていた。状態も安定し大丈夫そうだったので、私は5:30の電車で自宅へ帰った。

 14日(水)  傷が病むようで今日の父は少しイライラしていた。「俺はもう長くは生きられないんだし・・・。」と、投げやりな事をしばしば口にした。父の気持ちを考えたらとても「そんな事言わないで。」とは言えなかった。父にかける言葉が見つからない。唯、父の不満、不安を聞く事しか出来ない。

 17日(土)  父の兄弟夫婦、叔母さん、友達、今日は沢山の方たちがお見舞いに来て下さった。父の兄弟達には私達夫婦が病室へ入ろうとした時、丁度帰る所だった。父から「もう長くは生きられない」と聞いたのだろう。皆、泣いていた。「ひまわり、お父さんの事お願いね。それからひまわりも身体大事にね。」と言われた。
会いに来てくれた父の兄弟は皆東京に住んでいる。会いたくてもなかなか会えない。それでも、度々顔を出してくれた。父にはそれが随分励みになっているようで、皆が来てくれた時の父の顔はとっても良い顔になる。

 21日(水)  熱37.5度、看護婦さんに座薬を入れてもらった。
最近、度々熱が出るようだ。1日2回、あまり上がらないうちに座薬を入れてもらっているらしい。
つい最近までやぶれかぶれになっていたけれど、「せっかく与えられた時間があるんだから、少しでもたくさんの人に会って、あまり迷惑をかけないように1日でも元気に生きたい。」と父。一時、面会も、兄弟以外会いたくないと言っていた。仕事柄、1日に何人もの人がお見舞いに来て下さるので、しばらくなるべく病室へは来ないように母がお願いしていた時期もあった。
病院の改装工事のため、下の階からドリルのようなすざましい音が聞こえてきた。あまりうるさいようならその間だけでも別の個室に移動しても構わないと病院側から言われているようだ。

外泊最後の日、「うなぎが食べたい。」と父は母に言ったらしい。その日の晩御飯はうな丼。「上手かったな〜。」父がそんな話をしてくれた。 

この日ぐらいから父はあまりイライラしなくなり穏やかな事が多くなった。しかし、その分、以前ほどおしゃべりをしなくなり、何を考えているのか判らない事が多くなった。 

 25日(日)
  夫の母がお見舞いに来てくれると言うので実家の長野市まで母を迎えに行き、その足で父の所へ。この日、近くに住んでいる義姉夫婦もお見舞いに来てくれた。
下の階の工事の音がとてもうるさいので別の病室に移っていた。
熱、37.5度。相変わらず熱があり、身体がえらそう。帰り際、義母が「頑張って・・。」と父に握手をすると、「頑張る・・・。」と父は涙を浮かべ、その手を握り返していた。

 27日(火)  妹からメールがあった。「お父さん、相変わらず熱があるみたい。この分だと結婚式に出てもらうのは無理かも・・・。」と、いつも前向きな妹が弱音を吐いていた。
「お父さんに何もして上げられなくてもせめて、結婚式に出られるように祈ろうよ。」と返信メールを送った。

 29日(木)  相変わらず37度以上の熱。貧血もあるためフェジンの点滴をしていた。少しずつ、体調が良くない日が増えているみたい。それでも、気分が良い時は鶴を折っているようでまた一つ、鶴が増えていた。

父の所から帰ると残暑だと言うのに松本はとても暑かった。今年1番の暑さだったらしい。今日の最高気温35.4度。

 30日(金)  毎日、毎日、父のことを考えない日はない。自分の体のこともあるのでなるべく考えすぎないようにしているのだが、気が付くと父のことばかり考えている。
胃、肝臓の裏側辺り(多分)が痛む。

 31日(土)  今日は妹の結納。父が、少しでも良いからこの席に顔を出したいと言っていたので、病院から父を乗せるため今日はいつもより早めに夫と病院へ行った。
しかし、相変わらずの37度以上の熱があり、とても外出できる状態ではなかった。今、無理して、肝心の結婚式に出られなかったらもともこもないので、おとなしく寝ていることにしたようだ。腹水が溜まり始めたようで、身体はすっかり痩せ細ってしまったけれど、お腹だけプックリ膨らんでいた。

 9月3日(火)  夫が昨日から東京へ1週間、研修に出掛けたので、私は今日から2泊3日で実家へ帰った。
父の症状は目に見えて悪くなる一方。
肺に水が溜まり始め肺を圧迫し、咳が出るため、咳止めの薬を1日3回、腹部にも溜まっている水を排出するため、利尿剤の注射を注入、熱があるので1日2階の座薬投与。
父の身体はすっかり薬漬けだ。
利尿剤を入れて30分ほど経つと、15分おきにトイレ通いが始まる。その度にトイレまで行くのは病室にあるとは言え、身体に負担がかかるので時にはトイレから尿瓶を持ってきてベットに腰掛けてやるようにしたが、下痢を伴う事が多いらしく、心配だからとその度にトイレまで通った。病室に付いているトイレのドアはとても重く、なかなか手前に引けない。健康な人なら「少し重いドアだな。」と思う程度だが、ベットに寝てばかりの父にはちょっと辛そう。私がいる時だけでも・・と、父がトイレに行く度に、代わりに開けたり閉めたりした。夫がいる時は夫がよくそれをやってくれた。
1度、トイレに入るとなかなか出てこないので、その間に、シーツを整えたり、水枕を代えに行ったりした。
今日は帰りのことを心配しなくて良いので、夜まで父のところに付いていた。そのうちに、母や仕事帰りの妹が来たので8時過ぎ、皆で帰宅。一人、父をおいて行くのがとても可哀想だった。

 4日(水)  朝食後、7:30前に母が父の所へ行った。母は毎朝この時間には父の所へ行き、その時の体調で入浴させたり、頭を洗ったり、清拭などし、10:30頃1度帰宅しているようだ。その間私は食事の片付けや掃除をした。11:00過ぎから午後7:30過ぎまでは私が父のところにいた。
今日は利尿剤を使っても尿の出が悪い。

 5日(木)  せきがよく出る。父はだいぶ気弱になっていた。「こうやって少しずつ弱っていくんだなぁ。」と言われた時には返事に困ってしまった。一緒にいた母が「何、言っとるんな。○○(妹の名前)の結婚式までは頑張らにゃ〜。」と父に言った。

 10日(火)  妹からメールが入る。「結婚式の時、父に二人の看護婦さんが付き添ってくれる事になったようだ。」と。
ここの病院の看護婦さんは婦長さんをはじめ、ほんとによくやってくれる。
末期の患者さんの事が書かれている本などで「そう長く生きられないと判った患者さんには先生をはじめ、看護婦さんが事務的でとても冷たくなった。治療が出来なくなった患者は退院を勧められる」などと書かれているのを時々目にする事があった。だからその事に関して特に母が心配していたようだった。
しかしここの病院の看護婦さんは、治療のスベがなくなった父にも入院した時と変わらず、親切で優しく接してくれる。そんな看護婦さんが病室に来てくれるのをいつも父は楽しみにしていた。いつも元気で明るく、時には冗談を言ってくれる看護婦さんが来てくれると、それまで落ち込んでいても、父の顔から笑顔がこぼれる。父はそんな看護婦さんから元気パワーをいっぱいもらっていたようだ。 
 11日(水)  
水枕を作るため、父の病室を出て給湯室へ向かう途中、母がこちらに来る所だった。そこで少し立ち話。
母は前日、父のいない所で主治医に実際父の身体の状態はどうなっているのか、いろいろお話を聞いたとの事。
「先日撮ったレントゲンでは胸水が溜まっていて肺全体が写真に写らなかった。腹部は既に大きくなってしまった腫瘍で硬くなっている。直腸診をしても腫瘍が以前より大きくなっているのが判る。結婚式当日、腹水が溜まって本人が辛いようなら水抜きをするかも。最近腹痛があるのは腫瘍が神経を圧迫しているせい。」
母は主治医に「もう、治療の術がないという理由で退院させられる事はないですよね?最近本人は死に対する恐怖が出てきているようなのですが、家族としてはどう本人とこれから接していけば良いのでしょうか?」と聞いたとの事。
主治医「退院させるという事はないので安心して下さい。」
側にいた婦長さん「ホスピスに力を入れている先生がいるから、あまり不安があるようならその先生にお話してもらうようにしますよ。それと、本人が辛い時だけでなくてもいつで病室へ家族が泊まっていって頂いても結構ですよ。言ってくれればベットを用意します。これからも、不安があればいつでも言って下さいね。」
と、とても暖かい言葉を頂けたと母は言っていた。

今日の父はテレビをボ〜と見ているだけであまりしゃべる事はなかった。時々ぽつん、ぽつんと「もう、お腹の中は腫瘍でぐちゃぐちゃになってるのかな〜。」とか、CMを観ながら「もつ煮が食いたい。」「カップ麺が食べたい。」後、「お腹・・、痛いだけじゃなくて何とも言えない嫌な感じがある。」とつぶやくように言っていた。

 14日(土)  私の運転で初めて父の所へ行った。もちろん、助手席へ夫に乗ってもらって。緊張の連続だったので父の所へ着いた時にはすっかり疲れ果ててしまった。父に「私が松本から運転してきたんだよ。」と自慢して言ったのだが、「気をつけろよ。」と何度も言われ、随分心配をかけてしまった。帰りは夫の運転で帰った。

 15日(日)  今日は朝から熱もなく、昨日より良い顔をしていた。滋賀県から父の友達がわざわざお見舞いに来て下さった。家にいる母に連絡したら妹と婚約者も一緒に病院まで来たので久々に友達とゆっくり話がしたいだろうと思い、妹達と私達夫婦は談話室へ行った。
式場へは私達の車で父を連れて行く予定なので、その事も含め、妹達と結婚式の打ち合わせなどした。

 18日(水)  昨日レントゲンを撮ったとの事。その結果、以前より胸水が減っている事が判ったらしい。そのため咳が以前より出なくなった。しかし、お腹のキリキリした痛みが前にも増してあるようだ。痛み止めの量が今までの倍になった。
父は「こうやって少しずつ悪くなっていくんだな〜。」としみじみつぶやいた。私は返す言葉がなかった。

 21日(土)  父の病室の直ぐ下で工事の「ガガガガガ・・・。」と言うもの凄い音がするので、別の病室へベットごと移動。ベットごと・・・と言っても、車椅子、貴重品、時々父が口を湿らすために使っているお茶の入った吸い口の付いた入れ物、尿瓶なども持っていかなければならないので、結構大変。
父の病室からそう遠くはないこの病室、しかしとっても静か・・。ちょっとの事で・・と少し驚いた。しばらくこの病室にいたが、居心地が悪いのか、うるさくても良いから自分の病室へ戻りたいと言うので、1時間もしないうちにまたまた大移動。
父はベットに寝たまま移動するのだが、それでもあちこち行くのは疲れるらしく、病室は相変わらず工事の音でうるさかったがよく寝ていた。

 22日(日)  結婚式の当日、父に付き添って下さる看護婦さんが病室へ来たので、時間の事など打ち合わせをした。父を寝かせて車に乗れるか、明日看護婦さんに見てもらうようお願いした。

自宅の様子を知りたいだろうと思い、昨日あちこち写真を撮ったのでそれを父に見せた。しばらく食い入るように見ていたが「裏庭はすっかり荒れちゃったな〜。」と寂しそうにつぶやいた。元気な頃は毎日庭の手入をしていた父。裏庭は撮らない方が良かったかな〜?ちょっと後悔。

 23日(月)  看護婦さん(主任)の手が空いた時間に、父が寝ながら車に乗って行けるか見てもらった。後ろの座席を倒してみたり真中の座席を横へ移動させてみたり・・。何とか乗っていけそうだ。唯、車椅子はどうしても一緒に乗せることが出来ない。「病院の方で1台車を出すから車椅子はそれに乗せていきましょう。」と看護婦さん。当日二人も付き添って下さるのに車まで出してもらっては・・・、ほんとだったらこちらで出さなければいけないのに。「こちらで用意するから気にしなくて良いですよ。」と何度も言って下さった。有難い事だ。感謝、感謝である。

 26日(木)  
二日前に胃から出ている胆汁を出すための管にカスが溜まっていた事が原因で38度以上の熱と黄疸が出てしまった。生食塩水を注射器で入れたり出したりして管の掃除をしてもらった。その後、熱が下がり黄疸も少しづつ取れてきたようだ。今日もまだ少し白目が黄色かった。その時の処置の影響で胃に炎症が出来、痛そう。痛み止めの座薬が3回に増えた。

父からデジカメとそのプリンターをもらった。形見になるんだな〜。

10月1日には父の事務所の電気を止める事になったようだ。とても寂しそう。
告知を受けてからも「仕事が生きがい・・」と、出来る仕事は入院中もしていた。何とか元気になってまた仕事をしたいとずっと言い続けてきた。病室のベットの中でも仕事の書類に目を通す父の目はキラキラ輝いていた。顔だけ見ていればとても病人には見えなかった。しかし、それもあきらめなければならない時が来てしまった。
思いつめたように無表情でじっと天井を見つめている事が多くなった。
この間まであんなに元気だったのに・・。そう思わずにはいられない。

 28日(土)  病院の廊下で結婚式に付き添って下さる看護婦さんとすれ違ったので改めてお願いをした。

父の事務所はたたむ予定だったが、同じ仕事仲間の人がこの事務所を使ってくれる事になったようだ。父自身、仕事は出来なくなったけれどこの事務所はなくならず残る事がちょっと救いだったようで今日の父の顔は明るく見えた。体調も安定していた。
背中が痛いと言うのでシップを貼ってやった。背中を触るとボコボコとこぶのような物が触れる。腫瘍なのかな?そう思ったら悲しかった。1番辛いのは父なのだけど・・。
 


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 10月・・・・・妹の結婚式

 10月2日(水)  以前から痛みがあった背中の左上の辺りが最近、日によってもの凄く痛みが出る事があるとの事。シップを貼ってもらっていた。
昨日、吸入をしていたら、突然ひどい吐き気に襲われ、嘔吐。口から出たものは痰や唾液の塊でそれが結構大きかったらしい。その後は楽になったようだ。
主治医が来た時にその旨伝えたが、そういう状況はあまり聞いた事がないと言われたとの事。
それ以来、吸入はやらなくなった。

午後、父の兄が来てくれた。私は伯父より先に帰宅した。父が亡くなってから伯父や母から聞いたのだが、私が帰った直後母が病室へ行ったそうだが、たまには兄弟だけで話したい事もあるだろうからと別の用を足しに帰ったとの事。この時、伯父達は久し振りに子供の頃の思い出話などをしたようだ。そして最後にお互い感謝の言葉を掛け合ったとの事。二人で思い切り泣いたそうだ。
あの時最後に兄弟二人きりでいろんな話が出来て本当に良かった。と何度も伯父は私に話してくれた。そんな思い出が出来た伯父が少し羨ましかった。

父の前では絶対に泣くまいと我慢して、涙をそそるような話は極力避けてきた。でも、1度くらいは私も伯父のように、今までの父との思い出話をして「今まで有難う。お父さんのお陰で今は幸せに暮らせてるよ。お母さんの事は心配しないで。」って思いっきり泣いて話したって良かったのに・・・。もしかしたら父はそう言ってもらいたかったかもしれないのに。
今となっては唯々後悔・・・。

 4日(金)  いよいよ明日は妹の結婚式。
明日は渋滞や事故に巻き込まれる事無く時間通り父を式場まで連れていけるだろうかとか、教会と披露宴会場が少し離れていて、教会では着替えをする場所がないため、車の中もしくは外でしなくてはならないが、天気は晴れてくれるだろうかとか、心配しても仕方の無い事ばかりつい考えてしまい、1日中落ち着かなかった。

 5日(土)  妹の結婚式当日。 天気・・・・晴れ
父は「こんなに体調が良いのは久し振りだ。自分でも信じられないくらい調子が良い。」と、ニコニコしていた。私もこんなに元気で生き生きしている父を見たのは久し振りだなと思った。
父はこの日だけを楽しみに、そして生きる目標として頑張ってきたのだ。

予定通り 車に父を乗せ、式場へ向かった。心配していた渋滞もほとんどなく予定時間より早く着くことが出来た。
早速父の着替え。あちこち管がぶら下がっているので、それに気を配りながら二人の看護婦さんと私で父の着替えを手伝った。(あんなにかっぷくが良かったのに枯れ木のように痩せちゃった・・・)と、礼服を着せて改めて思った。ズボンはサスペンダーを使った。
看護婦さんが、24時間の点滴袋と胆汁を溜めておく入れ物のカバーをブルーの共布で作ってきてくれた。点滴台のついた車椅子は「今日はおめでたい日だから」とわざわざ赤い物を選んで用意してくれ、その背もたれに飾るように小さな花束を「これは看護婦からの気持ち。」と言って両側に一つずつ付けてくれた。
看護婦さんたちの暖かい気持ちが言葉では言い表せないくらい有難かった。

お式の間だけはバージンロードを歩くため邪魔になるからと、24時間点滴をはずした。
いよいよバージンロードを歩くため、父がドアの外で待機している時、「ちゃんと歩けるかな。」と準備体操と言って、屈伸運動をしたと、後から聞いてびっくりしたのだが、まわりにいる式場のスタッフなどもその様子を見てびっくりしたようだ。父は妹としっかりした足取りで入場してきた。私は思わず涙が溢れて来た。
父の希望通り、バージンロードを自分の足で歩く事が出来て本当に良かった。
その間、看護婦さんは外でずっと待機していてくれた。

父は披露宴中しばらくはテーブルに着いていたが、最後の両親への花束贈呈には出たいと言うので、体力が消耗しないように控え室に、持っていった布団を敷いてそこに横になり、看護婦さんと披露宴の様子をテレビで観ていた。途中、痛み止めの座薬をしてもらっていた。
時々、会場に父を連れて来たりしたが、何も食べられない父が可哀想であまりパクパクと料理を食べる事は出来なかった。
私は披露宴の間、暇さえあれば泣いていた。特に妹の子供の頃からのスナップ写真が何枚も大きく映し出された時は涙が止まらなかった。
最後のお色直しに妹は黄色のドレスを着た。母がそれに合わせて点滴袋と胆汁の入れ物のカバーを黄色のドレスと同じような柄のもので作ってきていたのでそれに付け直した。
妹の両親への言葉の時は、会場が涙で包まれた。
私も泣いた。父のことがあって以来、極力涙をこぼさないようにして来たが、その分を今日、1度に流した気がした。

結婚式に、車椅子でも、食事が摂れなくても、父が出席できた事は本当に良かった。良い主治医、看護婦さん達に恵まれた事に心から感謝した。

 7日(月)  生きる目標だった結婚式が終ってしまい、がっくりきているのでは・・と不安だったが、逆に1日結婚式に出席出来た事が自信につながった様で元気そうな良い顔をしていてほっとした。最近は病室のトイレに行く時や検査の時以外、ほとんど体を起こしている事などなかったのだが、病室に置いてある車椅子に時々座ったりしているようだ。
毎日している痛み止めの筋肉注射の影響で、腕がその部分だけ硬くなり痛みが取れなくなってしまったので、最近はでん部にやってもらっているとの事。
結婚式に付き添ってくださった看護婦さんが来たので、その時の写真を渡した。早速、ナースステーションの前に貼ってくれた。

 12日(土)  父はよく自分の生まれ育った実家の夢を見ると言っていた。実家へも帰りたいと言っていた。妹の結婚式が終るまでは体力を温存しておきたいので、その後、皆で父を実家へ連れて行こうと話していた。実家へは父がどんなに体調の悪い状態であろうと、行った事で命が縮もうと生きているうちに1度は連れて行ってあげたかった。
父の体調も天気も良さそうなので、明日皆で行く事にした。
この日も体調が良いそうで、夫と父、私の3人でいろんな事をおしゃべりした。こんな事は久し振りだった。唯、この時どんな話をしたのか、残念ながら覚えていない。

食事が摂れなくなってからの父は異常なまでに旅番組、料理番組ばかり観ていた。今年、兄弟夫婦達で北海道旅行、OB会のメンバー夫婦達と九州旅行の予定をしていたため、「ここへ行く予定だったんだ。」「ここではこの食べ物が美味しい。ここへ行くのなら乗り物はこっちの方が良いよ。」と、こんな話題が多かった。いつも目をキラキラさせて話してくれた。しかし、やはりどこか寂しげだった。

日本画が好きだった父は伊那文化会館でやっている「日本画名品展」へもとても行きたがっていた。父の実家へ行ってきてからまた予定を立てようと話していた。

 13日(日)  父の実家へ父を連れて行った。多少の腹痛はあるものの、まーまーの体調。
ここへは私が子供の頃、お正月やお盆はもちろん果樹園農家なので、そのお手伝いなど度々両親に連れられ来たものだ。
家に入ってから点滴を吊るしたり父が座り心地が良いように布団など用意してもらったりの大騒ぎ。落つけるころまでに随分時間がかかった。
お吸い物なら少しくらい飲めるだろうとマツタケのお吸い物を父に出してくれた。「あ〜、良い香り、上手い、上手い。」とほんの少しすすっていた。
しばらく皆でお茶を飲みながら話してから、沢山のご馳走を、父がいる隣の部屋で頂いた。そこからは父の様子が見えるのだが、私たちがご馳走になっている間、伯父さんと父はず〜と話をしていた。そこには元気な頃の父がいた。思わずその姿をカメラに収める。

父が疲れるといけないのでそう長くいるつもりはなかったが、1時間以上はいたと思う。皆複雑な思いはあったに違いないが笑顔が絶えなかった。
帰り際私が「居間へも行ってみる?」と尋ねると「うん。」と言って居間の方へ皆に手を借り歩いて行き、仏壇にお線香を上げそれから車に乗り込んだ。
見送ってくれる伯母さんに「またおいないよ。(また来てね)」の言葉に「これが最後だな。」と父。伯母さんはたまらず涙をこぼしていた。「またお父さんを連れてくるね。」と私は伯母さんに言った。
今、丁度りんごの最盛期。伯父さんの付き添いでりんご畑へ寄っていった。
この日は日差しが強かったので父は妹のだんなさんから帽子を借り、車椅子で畑の中を歩いた。
日陰に車椅子を止め、私達がりんごを採ったり食べたり写真を撮ったりしてる姿を父は微笑むような顔で眺めていた。気が付くと私や妹は、父のその姿をパチパチとカメラに収めていた。
この時、父はどんな事を考えていたんだろう。自分の子供の頃からの事など思い出していたんだろうか。りんご畑では父はとても口数が少なかった。今でもこの時、父は何を思っていたのだろうと考える事がある。考えても答えが出るはずもないのだが・・。
りんご畑からの帰り、伯父さんは車に乗り込んだ父に「頑張れよ。」と、しっかり握手していた。父は涙ぐんでいた。伯父さんは車が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

帰りはさすがに疲れが出たようで父、それから母もほとんど車の中で寝ていた。実家だけは何が何でも連れてきてあげたいと言っていた母、とりあえず「ほっ。」としたのだろう。

病院のベットに横になると父は私達に「今日はありがとう。もうこれであそこへは帰ることは出来ないと思う。」と言った。「何言ってるの!まだ、まだ、2回でも3回でも帰るんだよ。」と夫と私が言った。それに対し父は黙っていた。
今日は天気もよく、具合が悪くなる事もなく実家へ連れて行く事が出来、本当に良かった。

 15日 (火)  昼間、叔父さんから妹の結婚式の写真が出来たと送ってきてくれた。それを見て一人、泣いてしまった。午後、拉致被害者の帰国シーンをテレビで観て、又泣いてしまった。今日はよく泣ける日だ。
13日に実家へ行った時の写真が出来ていたので、叔父さんに御礼の手紙と一緒に送った。
送った写真は父がりんごを採ろうとしている写真。叔父さんはそれを見て涙が出たと後から聞いた。


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 10月16日〜10月26日・・・・・別れ

 16日 (水)  痛みが強くなり、今までのように座薬をしても効かなくなってしまったので、モルヒネの投与が昨日から始まった。モーターを使い、24時間体制で注入。昨日は吐き気や38度以上の発熱などの副作用があったが、今日は吐き気の方はないらしい。しかし、微熱があるため、氷枕を作ったり額に濡れタオルをのせた。
本人もモルヒネの投与が始まった事を知っていた。
モルヒネの投与が始まったからといってもう長く生きられないという証ではない。でも、いよいよこれを使わなくてはならなくなってしまったのか・・・と、悲しかったのは事実だ。

 19日 (土)  土、日は必ず夫も父のところへ行ってくれていたため、夫の実家へは5月の連休以来、全く帰っていなかった。そのため、実家から用事を頼まれていた事もあり、夫は実家へ帰った。
妹の嫁ぎ先で法事があるため、母も一緒に出掛けた。
父のところへは、休日には珍しく、私一人。
しかし、こういう時に限って今日は病院祭。皆で行ければ楽しかったのに・・と思った。父のお気に入りの看護婦さんの一人が院内の煎茶クラブに入っていて、そのお点前をやるらしく、父はそれを見に行きたいと言っていた。いつも父が使っている点滴棒のついていない普通の車椅子で父が点滴台を持ちながらの移動。あちこち見てまわりながら煎茶を立てている5階へ行った。お点前をする時間を確認しないで父の体調がよくなってから出てきたので、既にその看護婦さんのお点前は終ってしまっていた。父の姿に気づくと直ぐその看護婦さんが側に来てくれ、「残念だったね。」としばし会話をした。それでもせっかくここまで来たのだからと、次のお点前が始まるのを待つ事に・・。看護婦さんもしばらく着いていてくれた。しかし、点滴台を持つために、ずっと前かがみの姿勢でいたせいで腹部が圧迫されていたらしい。父は腹痛がすると言い出した。煎茶を頂くのはあきらめてその看護婦さんに点滴台を引いてもらい、私は車椅子をおして病室へ戻った。
検査に行くくらいならともかく、長時間車椅子であちこち歩き回るのだから、点滴台を持っての移動が父には凄い負担だったって事に何で気がつかなかったんだろう、出掛ける前にそれに気づいて、点滴棒のついた車椅子を借りていれば、腹痛なんか起きなかったのに・・・、と自分を責めた。父に可哀想な事をしてしまった。

モルヒネの副作用で3日程便秘が続いているようだ。

 23日 (水)  いつものように電車で病院まで行き、父のいる部屋へ行くべく廊下を歩いていると、丁度父の病室から結婚式の時に付き添ってくれた看護婦さんが出て来た。それで少し廊下で立ち話。「○○さん(父の名前・・・看護婦さん達が苗字ではなく名前で呼んでくれると父が喜んでたっけ)がモルヒネの投与が始まったけれど車に乗って「日本画名品展」を見るために伊那文化会館まで行けるか、今訪ねられた。でも、この間実家に帰れたし、距離的にはあそこより近いから大丈夫、行けますよって言っておきましたよ。唯、モルヒネの投与にモーターを使っているからバッテリーに接続出来るように出来れば良いんだけど・・。」と看護婦さん。「父の状態が今のままなら、バッテリーが何とかなれば行けますよね?まだしばらくこの状態は保っていられますよね?」と私。休日はきっと混むだろうからと思い、来週の平日に行ければと考えていた。「大丈夫でしょう。また細かい事は一緒にいろいろ考えましょうね。」と暖かく、頼もしい返事を頂いた。

昨日からまた油汗をかくほどの痛みが出るようになったため、今朝からモルヒネの量を強くしたとの事。幻覚を見ることはなかったが、ウトウトして過ごす事が多くなった。
OB会のメンバーの一夫婦がお見舞いに来てくれた時には父はしっかり起きていた。この間OB会で旅行(父がとても行きたがっていた旅行)に行った時、皆で書いたという励ましの色紙を下さった。その夫婦が帰ってから色紙をおもむろに読み始めた。涙を流しながら・・・。そこにいたら私も一緒に泣いてしまいそうだったから丁度お昼時間だったので昼食を摂りに休憩室へ行った。

午後になって妹が病室に来た。そのうち父が腰が痛くてたまらないと言い出したので腰をさすりながら、ナースコールを押し、看護婦さんにシップを持ってきてもらった。
モルヒネの影響もあるだろうが、また一段と父の状態が悪くなってきているのを感じずにはいられなかった。

 24日 (木)  父がもしも・・・、と言う事になった時、妹夫婦と上手く協力してやって行けるように、これから先も仲良くやって行けるようにと、26日に松本に1泊して夕食会をする予定であちこち予約をしていた。父の体調が安定している少しでも早い時期に・・と思っていたがなかなかお互いの予定が合わず、この日になった。
しかし、昨日の父の様子を考えるとそんな呑気な事をやっている気にはなれなくなり、今日の父の様子を妹に電話で聞いてみた。

昨日、夜になって痛みが増してきたのでモルヒネの量を増やし、レントゲンを撮ったらしい。母は心配で病室に1泊したとの事。
今朝になって父は苦しいと言いだし、時々呼吸が10秒くらい止まる。あまりにも苦しくて辛い時などは体を起こしたほどだとか。そのため鼻にチューブが入れられた。そのうち、モルヒネの副作用で幻覚を見るようにった。「天井に煙が出ている。」と言ったり、母が「誰だかわかる?」と聞いても「わからん。」と答えたり。
痛みを感じなくなってからはモルヒネの量を減らした。
排尿が全くないので、尿道へもチューブを入れた。

今すぐどうこうと言う事はないようだが、夕食会はキャンセルした。
直ぐにでも父のところへ行きたかった。しかし私は明日自分の体を診てもらうために病院の予約をしてあった。最近頻繁に不整脈があって時々苦しくなるためだ。父の様子からキャンセルしてもう少し先へ伸ばそうとも考えたが、父のこの状態がいつまで続くか判らないし、先へ伸ばしたばっかりに大変な事になったり、父のことでまた病院へ行かれなくなる可能性もあるから・・と考えやはり明日は病院へ行く事にした。

 25日 (金)  病院から戻ると妹からTELがあった。依然として父の様態は良くないようだ。
昨夜は一晩中、目を開けたままだったとか。
痛いと言わなくなったのでモルヒネの量を減らした。その影響かそれまであまり反応がなかったが、妹が父に声をかけると妹だと分かった様子。
今日は息を止めることはなかったが、大きくゆっくり呼吸をしているらしい。
妹が病室から帰るとき手を振ったら父はいつものように手を振ってくれたらしい。
私は妹に「考えたくはないけれどこの調子だとお父さんいつ何があってもおかしくないよね。『もしも』のために明日そっちへ行く時3、4日分の着替えなど持ってくね。」と言って電話を切った。

 26日 (土)  23日から母はずっと病院へ泊り込んでいるのでその母と交代するため早朝に家を出た。高速を使おうか迷ったが、事故に巻き込まれれば身動き取れないからと普通道路で行った。気がせっているせいか丁度ラッシュに入ってしまったのかいつもより道が渋滞しているような気がした。諏訪湖沿いの道に差し掛かろうとした時、妹からTEL.。「ドキッ。」とした。「様態が急変、覚悟して来て。」との事。信じられない。水曜日の昼間はまだまだそんな感じ全然なかったのに。まだ大丈夫だって言ってたのに。だから金曜日には父のところへ行くのを我慢して自分のために病院へ行ったのに。といろんな事が頭の中でグルグルまわり始めた。しかし、落ち着かなければ・・・とこの先の事を車の中で夫と考えた。少しでも早く着くように途中から高速に入った。事故に巻き込まれませんようにと祈りながら・・・。
病院へ着くと駐車場はいっぱい、先に私だけ下ろしてもらい慌てて病院の玄関へ向かった。すると妹のだんなさんも走って病院へ入って行く所だった。まだ何の悪い知らせも受けていない事をお互い確認しながら病室へ向かった。既に父の兄夫婦が来ていて、病室の前で母と話をしていた。早とちりの私は父は息を引き取ってしまったのかもと思い、慌てて病室へ入っていった。後から判ったのだが、処置中で皆廊下に出されたらしい。(誰か止めてくれても良さそうなものだが、後でそう言ったら凄いけんまくで入っていったから止められなかったと言われた)
「お父さん、お父さん」と何度も叫んで頬を叩いた。何の反応もなかった。水曜日に会った時の父とは別人のようだった。その時にも増し痩せ細り、ピクリともしなかったが目だけは薄っすら開いていた。
処置が済み主治医や看護婦さんが病室を出て行った。
父の手を触ると薄っすら汗ばんでいた。入院して以来父の前ではずっとこらえていた涙が止めどなく流れ落ちた。父の手や足を「お願いだから意識が回復して。」と祈りながらずっとさすり続けた。
父の誕生日プレゼントにと買っておいた、小さな水晶5つ入った小さな巾着袋を父の手に握らせた。
お昼をコンビニで妹夫婦が買ってきてくれたので、食欲はなかったが父の側で皆で食べた。
その後、主治医から「少しでも長く生きていられるようにチューブなど挿入しますか?」と尋ねられたが、これ以上辛い思いはさせたくなかったのでそれは断った。

父の右手は母が、左手には私達兄弟達がしっかり父の手を握った。「もう頑張らなくて良いからね。無理しなくて良いよ。」と皆で父に声をかけた。
全く反応がなかった父が突然「ん〜〜。」と少し顔を歪めてうなり、私達が握っていた左腕の肘から先を上に上げた。「お父さん!!」夫達も加わり皆でしっかり父の手を握りしめた。
多分、これが父のさよならの合図だったのだろう。元気な時も別れる時はいつも肘から先を軽く上げて「じゃ〜。」と言うのが父の癖だった。
午後3時29分、父は帰らぬ人となった。
私は父の顔を目だけではなく肌でも覚えておきたくて「お父さん、36年間、有難う。」と言って両手で父の頬を覆った。

人工呼吸やマッサージをする事もなく、きちんと自然の形で父との最期の別れをさせて下さった事を主治医には深く感謝しました。


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