
安井金比羅宮
(やすいこんぴらぐう) (旧社名:安井神社、崇徳天王社)
崇徳上皇ゆかりの安井金比羅宮
安井金比羅宮は、東山区祇園の建仁寺から東へ徒歩3分ほどのところにある。縁切り・縁結びのご利益で知られている。私が訪れたときも、ちょうど二十歳前後の女性三人組、深刻な表情の中年女性、年配のご夫婦などが参拝に訪れていた。
社務所前に高さ1.5mほどの「縁切り・縁結びの碑(いし)」がある。碑の中央には人ひとりが通り抜けられる円形の穴がある。その穴へ神様の力が上部から亀裂を通して注がれているとの説明。願掛けは、神札(しんれい)(100円以上の志納)に願いを書いて、心に祈りをこめて「縁切り」場合は碑の表から裏に、「縁結び」場合は裏から表へ碑の穴を潜り抜け、後に神札を碑面に貼り付けると願いが叶うという。祓いの碑(いし)
は表面が見えないほどたくさんの神札(願いを記したお札)が張られている。
この神社でこのような風習が生まれたのは、崇徳上皇を主祭神として祀っていることにある。崇徳上皇は讃岐国へ配流されたとき、金刀比羅宮(香川県)にいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されており、この故事に倣い「何かを断つ」ことの祈願所として信仰されはじめるようになったとか。やがて近年になり、悪縁を絶ち良縁を結ぶご神徳は、男女間の縁はもちろん、学業、社運、病気、酒、煙草、賭事など、すべての縁切り・縁結びの神として篤い信仰を集めている。
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| 「縁切り・縁結びの碑(いし)」 | 願掛けをする若い女性 | 願いを込めて書かれた絵馬 |
ところで、神にお願いするとき絵馬を奉納する風習が古くから残っている。絵馬が使われる以前の往古の人々は、祈願の際には生馬を奉納していてという。例えば、平安時代に盛んに行われていた降雨止雨祈願では、日照りの時(祈雨)は黒馬を、長雨の時(祈晴)は白馬又は赤馬が奉納されていたというように。こうした風習は何らかの事情(多分、経済的)によって、生馬→ 土馬・木馬→ 板立馬→ 板絵へと変化し、やがて絵馬が発生したといわれる。安井金比羅宮には、奉納された大小さまざまな絵馬を掛ける絵馬堂が本殿の東側にあった。現在、その旧来の絵馬堂を損なわないよう改築(昭和51年)し「こんぴら絵馬館」として、江戸時代から奉納されてきた絵馬が多数展示してある。その中での傑作は、明治22年(1889)に奉納されている「男断ち」を願った絵馬。
「わたし儀、是まで男さんを持って困りました故、此度心を相あらため、男さん一切御断り、私の心あかすため、男さん相立ち候ゆへ、口で申候はば心の内が知れず、これより右次第を私の心ならびに髪を奉納し、今日より改心いたし候、これ但し三ヵ年間之事。 五十四歳の女」。
安井金比羅宮が鎮座するこの一画は、祇園廓に接続する特種な一画。待合(席貸し)が多く、雇仲居という芸者まがいの女が多く、このような絵馬が奉納されていても不思議でない。他にも、「女房以外の女 三年断ちます」、「禁酒一年間」、「花カルタと賽に錠をおろし心、○年禁」など、酒、女、賭博の三道楽を断つ誓いを立てた明治・大正期の小絵馬が見られる。また近年の絵馬では、漫画家の手塚治虫さんや水木しげるさん、芸能人の藤山寛美さんなどの絵馬もかけられている。
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| 本殿東の「こんぴら絵馬館」の前には藤棚もある | 奉納・展示されている「牛若と弁慶」を描いた絵馬 | 古くなった櫛(くし)の供養塚。隣接する祇園や宮川町の芸子・舞妓さんが参拝する。9月第四月曜日が例祭。 |
ところで安井金比羅宮の創建は、「略縁起」によると平安京が造られる以前という。第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668〜671)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が家門の隆昌と子孫の長久を祈願してこの地に一堂宇を設け、藤の木を植え藤寺と号したのが始まり。藤はここの名所となり、花の寺とも言われたとの伝えがある。その後、第43代聖武天皇の御代(724〜748)に詔勅により堂塔を改修増築、規模を拡大し「観勝寺」と改名されている。特に、ここの藤を好まれたのが第75代崇徳(すとく)天皇(鳥羽天皇の第一皇子で、顕仁(あきひと)親王)。天皇は近衛天皇へ譲位し上皇となった久安2年(1146)、堂塔の一部を館に修造して寵愛の阿波内侍を住まわされ度々御幸されていたという。
甘い生活は長く続かず、10年後の保元元年(1156)に自ら仕掛けた「保元の乱」により上皇は(弟の後白河天皇など)敗れ、讃岐へ流されて8年を経た長寛2年(1164)8月26日、都へ戻ることなく46歳で崩御されている。その遺骸は、野沢井池において朝廷から指示が出される20数日の間、塩漬けにされていたという。朝廷の指示は京へ戻すことなく白峰山で火葬・埋葬の指示であった。その地を白峯陵とされ、高松藩主頼重(初代)に始まり、江戸時代になっても歴代高松藩主が手篤く祀ってきた。香川県坂出市青梅町にある白峰寺に隣接して白峯陵がある。
崇徳上皇の死後、都では疫病の流行や大火、ついには源義朝(保元の乱で後白河側に付いた)などの死がが相次ぎ、人々は崇徳上皇の呪いだとささやき始める。朝廷も怨霊を鎮めようと、死後3年目に「崇徳院」の諡号を贈っている。また、悲嘆にくれた阿波内侍は、崇徳院を弔うため館を寺に改築して願勝寺としたが、都では憚る(はばかる)ところが多く母の生国である阿波に寺を移した。その寺は現存する徳島県美馬市にある枯山水庭園で有名な宝壷山・願勝寺である。
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| 本殿/中央に崇徳天皇が祀られている | 安井金比羅宮から北へ100mほどのところにある「崇徳天皇御廟」 | 表の格子から中を覗くと「崇徳天皇御廟」 |
その後、阿波内侍は剃髪して名を仏種尼と改め、密かに観勝寺境内に廟を造ったとされる。安井金比羅宮の北に土塀に囲われた「崇徳天皇御廟」の石柱が立つ一画(観勝寺御影堂の跡)があ
る。この崇徳天皇御廟の背後(西側)が祇園甲部歌舞練場で、その裏庭に阿波内侍の供養のために建てられたと伝える、小さい五輪塔があるとされるが五輪塔の確認はできていない。
余談だが、「阿波内侍」って、どこかで読んだ記憶のある名前?と考えたところ、思い出したのが高倉天皇妃の建礼門院に最後までお世話していたのが阿波内侍である。よく知られている平家最後の戦いとなった壇ノ浦で、平家は敗れ、建礼門院は入水したが救われ、後、尼となって大原・寂光院(文治元年(1185)9月)に篭られた。この建礼門院を最後までお世話していたのが阿波内侍である。同一人物なのか?ただの同姓なのか?
本題へ戻る。治承元年(1177)、崇徳院の崇を恐れた後白河法皇の詔により、崇徳院を手あつく奉るため神殿を建て光明院観勝寺と称され、そこへ崇徳院ご自筆の御尊影を手厚く奉った。応仁の乱(1467〜)の兵火により荒廃し、古址のみが残った。元禄8年(1695)に太秦(京都市右京区)にあった安井門跡蓮華光院(中絶していた寺院)を現在地に移建し、その際、鎮守社として讃岐国象頭山金比羅大権現の分霊(祭神である大物主神(おおものぬしのかみ)と源頼政(鵺退治で有名))を相殿に奉齋したことで安井金比羅宮とも呼ばれるようになった。そして、明治4年(1871)の神仏分離で寺仏像一切は北嵯峨の大覚寺へうつされて院から独立して安井神社と改称した。更に第二次大戦後に安井金比羅宮と復元し現在に至っている。
なお、明治天皇は、慶応4年(1868)の戊辰戦争に際し、崇徳院の怨霊を鎮め、朝廷の守護神となって貰うため、現在の京都御所の西に白峰宮(現白峰神宮)を造営し、崇徳院の命日に白峯陵(香川県坂出市)から神霊を迎えた。すなわち崇徳院は、死後700年にして都(京都)へ帰ることができたのであるが、怨霊への恐怖は近年まで残っていたといえる。
「保元の乱」については、多くの著書や資料があるので、説明は簡略とする。保元元年(1156)、京都で起きた皇位継承と家督争いが結びついた内乱。皇室では崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)との皇位継承が、摂関家では藤原頼長(左大臣・弟)と藤原忠通(関白・兄)との家督争い。この二つの争いが絡み合い、上皇は藤原頼長と源為義(父)・平忠正(叔父)を、天皇は藤原忠通と源義朝(子)・平清盛(甥)らを集めて戦い、上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死、為義と忠正は斬首。これが保元の乱。この乱は武士の政界進出を促し、後の平治の乱を経て武家政権成立の発端をなした。
◇安井金比羅宮の所在地など
・住所:605-0823 京都市東山区東大路松原(清水道)北西 ・電話:075-561-5127
・拝観:境内自由
・金比羅絵馬館:開館時間 10:00〜16:00 大人500円、高校生以下400円 (ガラスの部屋の入館も含む)。休館日は月曜日(祝日の時は翌日)、盆と年末
・アクセス:JR京都駅前から市バス206系統にて約15分、「東山安井」下車すぐ。
・安井金比羅宮のホームページ:http://www.yasui-konpiragu.or.jp/