吉田山(神楽岡)周辺の寺院を巡る

黒谷(金戒光明寺) ・会津藩墓地 ・真如堂 ・宗忠神社 ・吉田神社 


 

  ■吉田神社(よしだじんじゃ)−散策    
 

 平安京の東北、神楽岡(吉田山)に京の都を鎮護する神として貞観元年(859)創建されたのが吉田神社。厄除けの崇敬厚い本宮を始め、全国の神を祀る大元宮、料理飲食の祖神である山蔭神社、菓子業界の崇敬厚い菓祖神社等の摂・末社が多くある。吉田神社は、吉田神道(随一神道)の総家として明治に至るまで神道界に大きな影響をもたらした。
                      
表参道の大鳥居

 京都に住む人なら、吉田神社と聞けば“あぁ、節分のね…”と言う。神社には、夏祭り、秋祭りなど多くの祭事があるが、節分祭が最も有名。祭の三日間は東大路から続く表参道両側は、露店が出て多くの参拝者で賑わう。
 節分祭以外に、あまり知られていない神社の由来など調べて、その凄さを知ることとなった。

 吉田神社へは、市バスの京大正門前で降りて東へ向かう(表参道)う。正面前方に朱色の大鳥居が見える。鳥居の前に京都大学正門がある。この辺りは、神楽岡(かぐらおか)の北辺にあたり、吉田山の西麓。神のおられるところは神座(かみくら)。神座の岡が「がぐら岡」で、神楽岡の地名の由来とされる。この神楽岡(平安京の東北)は、平安京の北辺を守衛する形で、船岡山(平安京の北)、双ヶ岡(平安京の西北)とともに、古くから祭・葬礼が行われた地。このような地を利用して、平安遷都から65年、貞観元年(859)中納言藤原山蔭が平安京の鎮守神として、また藤原一族の繁栄を祈って、藤原家の氏神である奈良の春日社四神を勧請(移し)したのが始まり。今から一千百余年にもおよぶ昔のこと。
 藤原家は、都が大和(平城京:奈良)にあった時は都の東に春日神社を建て氏神を祀り、長岡京(京都府長岡京市)に遷都した時は近くにあった大原野神社に氏神を祀った。そして、平安京では吉田神社 を建て奈良の春日神社の神を移しているのである。

 大鳥居をくぐり砂利道を進み、石段を登りきると境内となり、左手に見える鳥居の奥に本宮がある。慶安年間(1648〜52)再建の春日造り。この他、四脚中門、御廟、神供所などがある。祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いはひぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)の四神を祀っている。
 本宮のほか
内には、若宮社、神楽岡社の摂社のほか、山蔭神社、菓祖神社など末社が多 くある。

 吉田には、古くから代々の社家、吉田家があった。吉田家は、もと卜部 (うらべ)氏で、朝廷に仕え陰陽寮(おんみょうりょう)において占いのことをつかさどる古い家柄。以来、創始から年を重ねて、祭事も厳かに執り行われきたことで、朝廷との関係も深まり信頼されることとなった。さらに室町時代の中期頃、神官吉田(卜部)兼倶が神社の南に斎場所大元宮を造営し、吉田家の学問を発展させた吉田神道(随一宗源神道)を樹立。吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権厳を 持つこととなった。「宗」とは万法一に帰し、「源」とは一切万物の基を指すの意味。
 吉田家は、吉田兼延を祖とし、鎌倉時代以降、一族には学者・文人が多く輩出されている。「徒然草」で知られた吉田兼好もその一人。

 吉田神社の多くの祭礼のうち、節分祭(毎年節分の当日を中心に前後三日間にわたって本宮及び大元宮で行われる)は、疫神祭(えきじんさい)、追儺式(ついなしき)、火炉祭(かろさい)の三部に分かれ、室町時代以来の伝統を誇る神事で、数十万人の参拝者で賑わう。

 


本宮
参道石段を登り、左手に見える



さざれ石(学名:石灰質角礫岩)
 日本の国歌でも出てくる「さざれ石」。
 石灰石が長い年月、雨水で溶解され、粘着力の強い乳状液が小石を凝結し巨岩となり、苔むしたものをいう。
 世を重ねるたびに益々盛んに繁栄する意味を象徴する、めでたい石である。
 ここに置かれている石は、竹下内閣の時の「ふるさと創生」記念事業の一環として、岐阜県春日村から奉納されたもの。


神鹿像
 
昭和32年(1957)、吉田神社御鎮座千百年記念事業の一つとして、境内の一角に鹿を遊ばせたが、鹿の増加と周辺地区への配慮から打ちきられた。
 その後、昭和60年(1985)、神鹿として鋳造した。


若宮社 (摂社)
 祭神は天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、例祭は毎年4月18日。水徳の神様で、後醍醐天皇の延元元年(1336)吉田兼熈(かねひろ)が社殿を造り奉祠した。


神楽岡社 (摂社)
 祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、高オカミの神(たかおかみのかみ)の三神。
 神楽岡社は地主神として、また雪除神である。例祭は毎年9月23日であるが、氏神の神輿(みこし)巡行の祭礼は10月の第四日曜日。

  ○主な末社

     

 

今宮社
 
今宮社・木瓜大明神(こうりだいみょうじん)の鎮座起源は不明らしい。
 祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)、大雷神、建速須佐之男命の三神。牛頭(ごず)天王(建速須佐之男命)を木瓜大明神と称するのであるが、その木瓜大明神が御神祭にないのが不思議。
 木瓜大明神は、その昔から吉田の産土(うぶすな)の神であり、諸病・災難除けの神として崇敬されていた。今宮社は、紛れもなく吉田一円の守護神であったことは確か。祭神は、豊穣の神・大己貴神(おおなむちのかみ・大黒様)と水の神・大雷神である。
 元来、この吉田には、本宮の境内に五穀豊穣の神「今宮社」と、疫病・災難除けの神「木瓜社」とが別々に鎮座していた。ただ、鎮座時期は「今宮社」のほうが早いことが推測される。しかし、度重なる火災や災害による荒廃、やむなき事由による遷座などにより、何らかの契機により、文化13年(1816)合祀となったと推測できる。例祭は毎年10月の第二土曜日

 

大元宮中門
 斎場所大元宮。吉田神道の根本道場。正式名称は「日本最上神祇斎場所日輪大神宮」という。
もと吉田家(卜部(うらべ)家)私邸にあったのを文明16(1484)に吉田兼倶(かねとも)が移建し、今の斎場所大元宮と伝承された。
 

 

大元宮(国重要文化財)
 斎場所大元宮の本殿で、平面八角形の社殿が特徴で、南向き亀腹の土台。
 なぜ「八角」なのかはわからないが、文献では中国には古く(前2世紀頃)から八角形の宗教哲学が成立していることから、中国古代の宗教思想の影響を受けているものと推測出来る。
 本殿背後に八神殿があり、外宮宗、内宮源はじめ全国の神様
3,132の神体を祀る。
 「外宮宗」の宗とは万法一に帰すること、「内宮源」の源とは一切万物の基を指すの意味。
 
八神殿とは、天皇の身を守護する八柱の神々で、神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしらぬしのかみ)をいう。

 

   
 

神龍社(かみたつしゃ)
 通称百段と呼ばれる、この石段を登りつめたところに、南を向いて鎮座する。祭神は従ニ位卜部(吉田)兼倶朝臣。後奈良天皇から神龍大明神の号を賜る。 祭日は2月19日。

 

三社社
 神楽岡に鎮座、境外末社とされる。
 祭神は多紀理毘売命(たきりひめのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)、多岐津毘売命(たきつひめのみこと)、金山毘古命(かなやまひこのみこと)、金山毘売命(かなやまひめのみこと)、菅原神(すがはらのかみ)の六神を祀る。

 

竹中稲荷社
 境外末社とされる。
 祭神は宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)の三神を祀る。鎮座および由来は余りわからない。歴史書に「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍ら・・・」とあることから、天長年間には既に存在していたと推測できる。

天満宮
 祭神は菅原道真(すがわらみちざえ)公。
稲荷小社
 祭神は宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)の三神を祀る。
 以前は、吉田山の東麓にあったのを明治5年に、この地に遷座した。
(竹中稲荷社(正面)の左側に小さく見える鳥居の後ろに天満宮がある)
菓祖神社
 祭神は田道間守命、林浄因命のニ神を祀る。昭和32年(1957)、京都菓子業界の総意により創建。兵庫県の中島神社、和歌山県の橘本神社、奈良県の林神社の祭神を鎮祭する。
境内を菓子業者の石柱が囲む。
 例祭は、春は4月29日、秋は11月11日。
山蔭神社
 祭神は藤原山蔭卿、相殿は恵比須神。
 藤原山蔭卿は、吉田神社創建の大役を果たした人。
また、山蔭卿は、我が国においてあらゆる食物を調理、調味づけられた料理飲食の祖神で、四条流包丁道の元祖としても知られている。昭和32年(1957)全国の料理関係者が創建に協賛。例祭は毎年5月8日。生間流包丁式が厳粛に奉納される。
 

  ○吉田山(神楽岡)周辺、古跡(一部)

     
  霊元法皇御幸跡
 眺望絶景の山頂やや北寄りにある。
 法皇が修学院へ御幸時に立ち寄られた記念。
 享保10年(1725)9月16日、同15年11月16日、同16年10月18日の事と碑の裏側に記名されている。
  山頂から大文字山(東山)を望む
 毎年8月16日に行われる「五山の送り火」には大文字山中腹の「大」に火が灯る。
 先祖供養の行事で、京の人達は夏の終わりを感じます。
  吉田山の三角点
 山頂西側中央にある。
 北緯35度1分17秒。東経135度47分19秒724。標高105.12m。
      軒端の梅
  在原業平の墓
 竹中稲荷社・天満宮の後方の林の中ににひっそりとある。在原業平は、天城天皇の孫で、平安時代の歌人。「東山吉田の奥に収めて廟をつくる」という遺言により、ここに墓がある。
 しかし、京都市西京区大原野にある
「十輪寺」本堂後ろの山にも業平の墓がある。
  後一条天皇菩提樹院陵・皇女章子内親王墓所
 吉田山一帯の神楽岡は、古くから神のよります神座の岡として、深い信仰に支えられた霊地。平安時代前期から天皇家の陵墓地とされ、神楽岡周辺は一般庶民の埋葬などはかたく禁じられていた。
  東北院
 時宗で聞名寺(もんみょうじ)に属する。
 本尊は弁財天女。脇に左・毘沙門天王、右・摩迦羅天、いずれも伝教大師作。他に、関白道長公像もある。寺内には、平安時代の代表的女流歌人である和泉式部の塔、軒端の梅がある。軒端の梅は、本堂の前にあり和泉式部遺愛の梅と伝える。和泉式部の塔、軒端の梅は、京都市中京区新京極の誠心院にも同じものがある。
 

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