吉田山(神楽岡)周辺の寺院を巡る

黒谷(金戒光明寺) ・会津藩墓地 ・真如堂 ・宗忠神社 ・吉田神社 


黒谷(金戒光明寺)

 黒谷さん(金戒光明寺)の奥に「会津藩戦士の墓地」を見た古い記憶があった。なぜか思い出してしまい訪れる気となった。その気になったのは 別にもあり、子供の頃、吉田に近い聖護院に住んでいた懐かしさがあった。
 今回は、市バス「熊野神社前」で降り、丸太町通りの一本北側の春日上通り(黒谷の表参道)を東大路から歩いて黒谷へ向かった。直ぐに、代表的な京都名物「八ツ橋」の老舗が道を挟んで両側にある。そして、左手(北側)に「聖護院門跡」。更に行くと、今度は右手「須賀神社」となる。古い京都の面影を残す、懐かしい道をのんびりと歩く。昔の姿を残す家は数えるほどしかなく、殆どが 建替えられていた。もう目の前に黒谷が見える。
 今日は、この黒谷(金戒光明寺)からスタートして、紅葉で有名な真如堂(真正極楽寺)、宗忠神社、節分の追儺式には参拝者で賑わう吉田神社など、吉田山(神楽岡)周辺の寺院を巡ってみる。
 その昔、吉田山一帯は「神楽岡」と呼ばれており、これは平安時代以前からの呼称だったそうだ。その表記も「康楽岡」や「賀楽岡」と書かれ、神のよります神座(かみくら)の意味。この神座が次第に神楽岡と呼ばれるようになったと伝えられてる。南北400mほど、標高100mほどの山ですが、現在では「吉田山」と呼 び、東山三十六峰の第十ニ峰である。

 

 

 平安神宮北側の丸太町通と、東側の岡崎通とが交差するところの「岡崎道」バス停から徒歩8分ほどの所に「黒谷」と呼ばれるお寺がある。平安神宮からみて、ちょうど東北の位置。 桜の名所。
                             

 東大路から表参道(春日上通り)を東へ約10分ほど歩くと、この高麗門の前に来る

 

 

 

 

 「黒谷」は通称である。正式には紫雲山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)という浄土宗の大本山。通称の黒谷があまりにも知られ、“こんかいこうみょうじ”と言って尋ねても正しく教えられる人は少ない。タクシーを使って行く人は、運転手さんに「黒谷 まで・・・」と言った方がよいかも?
 「黒谷」を創庵したのは法然上人。上人は、少年の頃は比叡山で天台学を学んでいたが、十八歳で隠遁(いんとん)して比叡山西塔の念仏別所である黒谷の慈眼房叡空の庵室に入り、法然房源空と名乗って念仏三昧の日々を過ごしていた 。しかし、天台学に疑念をもち比叡山を降りている。その比叡山西塔の黒谷に倣って承安
5(1175)、この地に あった禅舎・白河禅房(しらかわぜんぼう)を譲り受けて草庵。これが黒谷の始まりと伝えられている。

 高麗門から入り参道を行くと左手に三門が見える。三門を抜けて石段を登りきると、視界が開け360度パノラマで見渡せる。正面に御影堂その横が金戒光明寺、右手に豊臣秀頼が再建した阿弥陀堂。左手に鐘楼、瑞泉院がある。黒谷は、塔頭(たっちゅう)が18院もある広い境内。後ろを振りかえると、その位置が高台のため、いま通り抜けた三門を上から見下ろせ、 目の高さで見る三門は、また違った景色だ。
 阿弥陀堂の裏(東側)の坂道を降りると蓮池があり、そこは黒谷墓地の入口にあたる。墓地の中を文殊塔へ続く石段を登る。途中に「会津藩士の墓地→」の石標があるが、まずは文殊塔のある頂上まで登る。文殊塔の本尊、文殊菩薩像は運慶作と伝えられ、日本三文殊の一つ。振り返ると木立の間から市街が見えるので、登りの石段で乱れた呼吸を整えるためにも眺めてみては。

 一息ついたら、文殊堂を一回りして、筝曲(そうきょく)八ツ橋流創始者八橋検校(やつはしけんぎょう)の墓の前を通りすぎ、途中で見た石標「会津藩士の墓地→」の矢印にしたがい北へ向かう。この道は、京都でも屈指の紅葉の名所とされる真如堂へ続く道。その途中の西雲院(さいうんいん)の奥に、会津藩士の墓地がある。この墓地は、文久2年(1862)から鳥羽伏見の戦いまでの、幕末の動乱で命を亡くした会津藩士352名が眠る「会津藩殉難者墓地」。辺りは木が濃く生い茂り、野鳥のさえずりしか聞こえず、街の騒音を受けつけない静かな一画となっている。
 この墓地を参拝した後は、いま来た道を戻るもよし、真如堂へ向かうもよし。


黒谷墓地入口の橋のたもとに「会津藩墓地参道→」の石標

 


三門

本堂(御影堂)

阿弥陀堂


三門を上から眺める


経堂


文殊塔


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