相国寺(しょうこくじ)
臨済宗相国寺派大本山 相国寺(正しくは、萬年山相国承天禅寺)
京都市上京区今出川通烏丸東入る相国寺門前町
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足利義満が発願し夢窓疎石開山
 相国寺は京都御苑の北側、今出川通に沿って並ぶ同志社大学舎の間に総門へ続く参道口がある。総門までの舗装路は、両側に大学のシンボルとなっている赤レンガの建物が続く。
 相国寺の本尊は釈迦如来。開基(創立者)は室町幕府三代将軍の足利義満で、開山は夢窓疎石。南北朝の争乱を経た天授4年・永和4年
(1378)、義満は政庁を兼ねた邸宅「室町殿」を年の歳月をかけて完成している。北は上立売通、南は今出川通、東は烏丸通、西は室町通に面した南北に細長い敷地ながら当時の土御門内裏(だいり・天皇の住居。儀式や執務なども行われた)の約2倍の広さであったという。邸宅には常に多くの花が咲いていたことから「花の御所」と称された。現在の相国寺の西側一帯がそこに当たり、今出川通と室町通が交差する北東角に「足利将軍室町殿跡」と書いた石碑がある。
 永徳2年(1382)足利義満は「室町殿」の東隣に 自らの仏道修行の場として禅寺の創建を発願。造営は義満の禅の師匠である春屋妙葩(しゅんおくみょうは)と義堂周信(ぎどうしゅうしん)であるが、春屋は開山始祖を固辞。30年前に亡くなっている師匠の夢窓疎石(むそうそせき(1275-1351))を第一世とし、自身は第二世を条件に引き受けたという。春屋は夢窓疎石の甥で、弟子である。建設開始10年後の明徳3(1392)に落慶したが、春屋は伽藍完成を待たず嘉慶2年(1388)に没している。春屋が亡くなった後、義満は義堂を師と仰ぎ、たびたび相国寺へ参禅していたという。
 余談だが、相国寺建立前の康暦元年・天授5年
(1379)、義満24歳のとき、夢枕で『今年は大病を患う恐れ有り、ただし、堂を一つ建てることで救われるだろう』のお告げにより春屋妙葩を開山として、嵯峨に宝撞寺(ほうとぷじ(現鹿王院)を建立。また、応永元年(1394)将軍職を息子の義持に譲って出家した4年後、公家西園寺家の山荘を譲り受け北山第(山荘)を造営。荘内に造った舎利殿が現在の金閣寺(正しくは鹿苑寺)。なお、義満は応永15年(1408)に病死している。

   
慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建された法堂(はっとう)は重要文化財   経堂   開山堂枯山水庭園
         
   
慶長元年(1596)に再建された浴室   天保14年(1843)に再建された鐘楼(洪音楼とも)。   後水尾天皇の頭髪歯塚

 しかし、相国寺は創建間もない応永元年(1394)の堂宇焼失に始まり、応永10年(1403)に落雷で100mもの高さの七重塔を焼失するなど再建と焼失を繰り返す歴史をたどっている。中でも「応仁の乱(146777)」の兵火による焼失は甚大であった。境内に細川晴元(東軍)の陣地が置かれたため、山名宗全率いる西軍の激しい攻撃に遭うとともに、西軍に買収された僧の放火で堂宇を焼き尽くしている。この応仁の乱で「室町殿」(花の御所)も焼失している。
 この後、相国寺は再建されたが、天文20年(1551)に細川晴元と松永秀久の争いにより再び全焼。天正
12(1584)、西笑承兌(さいしょうしょうだい)が入寺し、豊臣家や徳川家そして後水尾天皇の援助を得て復興されたが、天明の大火(1788年)で 再び伽藍の多くを焼失している。現在の伽藍は概ね文化年間(180418)に再建・整備されたものである。
 境内、鐘楼東北側の宗旦稲荷社は、伝承によると茶人千宗旦に化けて近所の茶人にお点前をしたなど、境内に棲む白狐を祀る。また墓地には、足利義政・伊藤若冲・藤原定家の墓。東門を出たところに禁門の変・伏見鳥羽の戦いで亡くなった薩摩藩士の墓がある。なお、義満が建造した金閣寺(鹿苑寺)と、八代将軍足利義政が建立した銀閣寺(慈照寺)のいずれも相国寺の境外塔頭である。

   
茶人の千宗旦に化けて近所の茶人宅で点前した白狐を祀る宗旦稲荷社   左から藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓   禁門の変・鳥羽伏見の戦いで戦死した72名の薩摩藩士の墓

◇相国寺の所在地など
京都市上京区今出川通烏丸東入る

電話075-231-0301
拝観:境内自由
交通:地下鉄烏丸線「今出川」下車、3番出口から東へ徒歩約5
相国寺ホームページ 

 
  放生池は蓮池になっていて6月下旬から7月下旬にかけ、順次開花する


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