
相国寺
(しょうこくじ)
足利義満が発願し夢窓疎石
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| 慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建された法堂(はっとう)は重要文化財 | 経堂 | 開山堂枯山水庭園 | ||
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| 慶長元年(1596)に再建された浴室 | 天保14年(1843)に再建された鐘楼(洪音楼とも)。 | 後水尾天皇の頭髪歯塚 |
しかし、相国寺は創建間もない応永元年(1394)の堂宇焼失に始まり、応永10年(1403)に落雷で100mもの高さの七重塔を焼失するなど再建と焼失を繰り返す歴史をたどっている。中でも「応仁の乱(1467〜77)」の兵火による焼失は甚大であった。境内に細川晴元(東軍)の陣地が置かれたため、山名宗全率いる西軍の激しい攻撃に遭うとともに、西軍に買収された僧の放火で堂宇を焼き尽くしている。この応仁の乱で「室町殿」(花の御所)も焼失している。
この後、相国寺は再建されたが、天文20年(1551)に細川晴元と松永秀久の争いにより再び全焼。天正12年(1584)、西笑承兌(さいしょうしょうだい)が入寺し、豊臣家や徳川家そして後水尾天皇の援助を得て復興されたが、天明の大火(1788年)で
再び伽藍の多くを焼失している。現在の伽藍は概ね文化年間(1804〜18)に再建・整備されたものである。
境内、鐘楼東北側の宗旦稲荷社は、伝承によると茶人千宗旦に化けて近所の茶人にお点前をしたなど、境内に棲む白狐を祀る。また墓地には、足利義政・伊藤若冲・藤原定家の墓。東門を出たところに禁門の変・伏見鳥羽の戦いで亡くなった薩摩藩士の墓がある。なお、義満が建造した金閣寺(鹿苑寺)と、八代将軍足利義政が建立した銀閣寺(慈照寺)のいずれも相国寺の境外塔頭である。
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| 茶人の千宗旦に化けて近所の茶人宅で点前した白狐を祀る宗旦稲荷社 | 左から藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓 | 禁門の変・鳥羽伏見の戦いで戦死した72名の薩摩藩士の墓 |
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◇相国寺の所在地など |
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| 放生池は蓮池になっていて6月下旬から7月下旬にかけ、順次開花する |