
白峯神宮(しらみねじんぐう)
主祭神 崇徳天皇、淳仁天皇 / 例祭
4月14日(淳仁天皇祭)、9月21日(崇徳天皇祭)

悲運の崇徳・淳仁両天皇を祀る
白峯神宮(しらみねじんぐう)は、堀川今出川を少し東へ入ったところにある。旧白峯宮で、昭和15年(1940)に官幣大社に昇格し、神宮号の宣下を受けて白峰神宮となった。正面鳥居の前に立つと、背後に門と土塀があるのが他の神社とは違っている。今出川通に面した交通量の多い市街地にありながら、境内は静かで広い。門を潜ると東側に、名水・飛鳥井がある。その東側に境内社の三社(潜龍社、伴緒社、地主社)が並んでいて、その一番南の地主社の祭神は精大明神。蹴鞠道の神様。元々白峯神宮の社地は蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の邸跡で、飛鳥井家の屋敷神だったもの。表の鳥居背後に門と土塀があったのは、屋敷跡を神社としたため。地主社は現在サッカーの守護神として、日本サッカー関係者をはじめ球技関係者の参詣も多い。
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| 蹴鞠道の神様を祀る「地主社」 | 蹴鞠の碑 | 拝殿横にある鞠場 |
白峯神宮の創建は、140年ほど昔の明治元年(1868)。主祭神は崇徳天皇と淳仁天皇。
崇徳天皇は、元永2年(1119)、鳥羽天皇の皇子として誕生。保安4年(1123)に第75代の天皇に即位。保元の乱(1156年)の戦いに敗れ、讃岐(香川県)へ配流されている。天皇は京への還幸を願われたが思いは叶わずその地で崩御。白峰山稜に白峯陵(
さらに明治6年(1873)には、奈良時代に起きた「藤原仲麻呂の乱」で淡路に配流され、そこで崩御された淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路(兵庫県南あわじ市賀集)から迎えて合祀し官幣中社とされた。淳仁(じゅんにん)天皇は、天武天皇の孫。奈良時代・天平5年(733)、天武天皇の皇子・舎人親王(母・大夫人山背)の七男として生まれる。名は大炊王(おおいおう)。孝謙女帝の皇太子として、次いで天平宝字2年(758)に第47代の天皇に即位。藤原仲麻呂をして管制の改革租税の軽減・通貨鋳造・窮民救済などに当たるが、天平宝字8年(764年)に起きた藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱ともいう)で連座(弓削道鏡らの謀略により廃位となる)、淡路島に配流された天皇。天平神護元年(765年)逃亡を図るが捕まり、翌日亡くなった。公式には病死と伝えられる。墓は淡路国三原郡(南あわじ市の天王森丘とされる)に造られ、宝亀9年(778年)に山陵扱いとされたが、称徳天皇の意向によって天皇とはされず古文書では長らく廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれていた。第47代天皇『淳仁天皇(じゅんにんてんのう)』とは明治天皇によって明治3年(1870)に追号されたもの。このとき、第39代弘文天皇(こうぶんてんのう/大友皇子)、第85代仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)も追号されている。昭和15年(1940)には官幣大社に昇格し、神宮号の宣下を受けて白峯神宮とされ、現在に至っている。
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| 崇徳天皇、淳仁天皇を祀る本殿 | 源為義・源為朝を祭神とする「伴緒社」 | 境内に立つ「崇徳天皇欽仰之碑」 |
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| 水・醸造の守護神を祀る「潜龍社」 | 「潜龍社」前の名水・潜龍水 | 祇園甲部歌舞錬場裏(東側)の「崇徳天皇御廟」 |
なお、境内社の伴緒社は「保元の乱」のとき、崇徳上皇についた源為義(父)と、敵対する後白河天皇についた源為朝(子)の父子が祀られていて、武道・弓道上達の神とされている。また潜龍社は、水・醸造の守護神とされていて、祠の前には名水の潜龍井がある。
白峯神宮では離れた場所にある「崇徳天皇御廟」も管理している。祇園花見小路の甲部歌舞錬場の裏(東側)の楠の巨木の元にある御廟は、崇徳天皇の寵愛厚かった阿波内侍が、遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き亡き天皇の霊をお慰めしたと伝承されているところ。祭日は毎月21日で、白峯神宮の神職が奉仕し、祇園の女将も参列されて御廟祭が斎行される。この御廟の数十メートル南に崇徳天皇を祭神とする「安井金比羅宮」がある。
保元の乱は、鳥羽法皇の二人の息子である崇徳上皇とその弟の後白河天皇との主導権争いから生じた。鳥羽法皇は亡くなるときに、祖父(白河法皇)の子との疑念がある崇徳天皇を疎み、没後は崇徳天皇の弟の後白河天皇に国政を行うように遺言した。崇徳天皇は、これに不満を持ち武力で後白河天皇を除こうとした。これが保元の乱(1156)。しかし、戦いに敗れた崇徳天皇(第75代)は
失脚、讃岐国へ配流される。京都への還幸を願われたが叶わず、憤怒の姿のまま長寛2年(1164)、46歳にてその地で崩御された。遺体はその地の白峯山陵に奉葬されました。その後、朝廷は天皇が葬られた白峯陵の前に、天皇を白峯大権現として祀る御影堂を建立し、高松藩主に管理の奉仕をさせている。また、上皇から寵愛されていた阿波内侍は、御遺髪を請い受けて館(現安井金比羅宮の近く)の片隅に塚を築き霊をお慰めしたと伝承されています。このころ京都では、多くの異変が相次いで発生。これらは失脚された上皇の怨念による祟りとされ、怨念を鎮めるために上皇の御影を祀る御影堂や粟田宮(建久3年(1241))を建てて慰霊に努めました。粟田宮は長い年月の間に幾度も水害や戦火に遭いながらも再建され室町時代まで存続しているが、応仁元年(1467)に焼亡以後
に荒廃した。時代は下って、明応6年(1497)、現在の東山安井の光明院の住持・幸盛上人が院内に「崇徳天皇御廟」を再興。これが現在の「崇徳天皇御廟」の前身。
国は政争などで不遇の生涯を終えた天皇や皇子の神霊を明治になって改めて奉安したのは、京都ではこの白峯神社の他に水無瀬神宮(大阪府三島郡)がある。
物知りメモ:『崇徳地蔵』/聖護院門跡(
◇白峯神宮の所在地など
・住所:
・拝観:境内自由
・交通:市バス京都駅前から9系統または101系統で「堀川今出川」下車、徒歩約3分。
・白峯神宮のURL:http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/