下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)

祭神:八所御霊ほか
京都市中京区寺町通丸太町下る下御霊町

非業な死を遂げた御霊を祀る
 下御霊神社は、上京区の上御霊神社とともに、平安時代初期に流行した疫病は無実の罪で亡くなった怨霊とし、それを鎮めるために創祀した御霊社。創祀とともに疫病除けの信仰が始まり、京都の御霊信仰の中心となる。上御霊神社の南にあったので下御霊社と呼ばれた。 御霊とは、怨霊が神となったもの。
 社伝によれば、当初は、出雲氏一族の居住地にあった下出雲寺の鎮守社に大和国宇智郡の霊安寺御霊社に祀られていた伊予親王(桓武天皇の第三皇子)とその母の藤原吉子の怨霊をなだめるため、承和6年(839)に祀ったのが始まりといわれている。 伊予親王は、大同2年(807)、式家藤原仲成の陰謀により、反逆の首謀者であるとされ母藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に幽閉されたが無実を訴えて絶食した後、毒を飲んで自害している。
 下御霊神社では、後に早良天皇(崇道天皇)、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、吉備真備、火雷天神を加えた八柱の御霊を祀ることから八所御霊ともいう。相殿に霊元天皇を享保17年(1732)祀っている。
 なお、次表のとおり上御霊神社の祀る八所御霊と少し違っている。

御霊神社の祭神

下御霊神社が祀る八所御霊 上御霊神社が祀る八所御霊
崇道天皇(早良親王):光仁天皇の子、桓武天皇の同母弟・藤原種継暗殺事件での冤罪 崇道天皇(早良親王)
伊予親王:承和の変(陰謀)により自害 井上大皇后:光仁天皇の后・獄死
藤原大夫人:藤原吉子(きつし)=伊予親王の母 他戸親王:光仁天皇の子 、桓武天皇の異母弟
藤大夫:藤原広嗣 ・九州での反乱で討たれる 藤大夫:藤原広嗣
橘大夫:橘逸勢・承和の変での流罪 橘大夫:橘逸勢
文大夫:文屋宮田麿 ・積極的外交を反乱とされ 文大夫:文屋宮田麿
火雷神:菅原道真 ・陰謀により太宰府へ左遷 吉備聖霊:吉備真備
吉備大臣:吉備聖霊 ・称徳(孝謙)天皇のあと天武系皇族から天皇をたてようとして左遷される 火雷天神:菅原道真

 その後、下出雲寺の退転により新町通出水両御霊町(現京都府庁のある地)へ移り、次いで天正18年(1590)、秀吉の都市改革令により現在地に移ってきた。古来、上御霊神社とともに朝廷(御所)の産土神(守り神)として崇敬を受けていて、特に霊元上皇は当社へ享保8年(1723)と享保13年の2回にわたり参拝され宸筆の祈願文を納めている。この祈願文は現在重要文化財に指定されている。上下の御霊神社は、皇室の産土神とされていることから、社殿は宮中の建物を貰い受ける習慣がある。下御霊神社は、江戸時代に起きた天明の大火など二度の大火で焼失しており、現在の本殿は、江戸時代の 天明8年(1788)に建てられた内侍所(寛政3年(1791)造営)を賜り移築したもの。表門は建礼門を移築したと伝える。
 門前の鳥居は、上御霊神社とは異なり木製で朱色。表門を潜った左手の手水舎に注ぐ水は、京の三名水の一つに挙げられている染井(梨木神社の境内にある)と同じ水脈の清水で、近隣の人が次々に汲みに来る風景にであう。
 毎年5月18日に催される「御霊祭」は、怨霊を鎮め、悪疫退散を祈る祭りで、神輿4基と剣鉾八振りが氏子区内を巡幸する祭り。御霊祭は、政争の犠牲となり非業の死を遂げた早良親王らを貞観5年(863)、皇室の庭園だった「神泉苑」で祀ったことに始まる が、そのとき祀られたのは吉備真備と火雷天神(菅原道真)を除く六柱だったとされる。境内末社は多いが、その中の垂加社の祭神は江戸時代の国学者、山崎闇齊という。

御霊祭のために拝殿に安置された神輿 境内の末社の一部 御霊水

◇下御霊神社の所在地など
・住所:〒京都市中京区寺町通丸太町下る下御霊町
・電話:075-231-3530
・拝観:境内自由
・交通:京都駅前から市バスで約20分、「河原町丸太町」で下車、西へ徒歩約5分。


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