泉涌寺(せんにゅうじ)  

真言宗泉涌寺派総本山  山号:泉山
京都市東山区泉涌寺山内町27

 東山七条から南へ二つ目のバス停が「泉涌寺道」。そこから東へ向かう緩やかな上り坂を登りきったところに泉涌寺境内へ入る大門がある。バス停から歩くこと約8分。
 泉涌寺は、
東山連峰の月輪山山麓に広大な寺領をもち、歴代皇族のご尊碑を祀り、我が国随一の皇室の香華院(菩提所にあたる)として“御寺(みてら)”と尊称される寺。本尊は仏殿(本堂)の釈迦如来と楊貴妃観音堂の観世音菩薩。観音像は第二世湛海が建長7年(1255)に宋から将来したもので、楊貴妃観音と称される。楊貴妃は、ご存知のとおり唐の玄宗皇帝の妃であり、また世界三大美人のひとりとして名高い。
 泉涌寺の起源は、平安時代の天長年間(824〜833)、弘法大師空海がこの地に草庵を結び「法輪寺」(一時、仙遊寺と改称されている)としたことに始まるとされる。その後荒廃していたが、鎌倉中期の承久元年(1219) 宋から帰った月輪大師(俊芿(しゅんぎょう)律師)が後鳥羽上皇から御願寺の官符を賜わり、嘉禄2年(1226)に再建開山。寺地の一角から清水が湧き出たことから寺号を泉涌寺と改められた。

山門に立つと、月輪山を背景にした仏殿が下方に見える 寛文8年(1668)に徳川家綱により再建されたとつたえる仏殿(本堂) 仏殿背後の舎利殿は、御所の清涼殿を移築し重層にしたと伝える

 泉涌寺の大門は、慶長年間(1596〜1614)の内裏の門を移設したものという。山号「東山」(とうざん)の額が掲げられている。この大門を潜り正面を見つめる。それもやや視線を下げた遠くに仏殿(本堂)が見える。その距離100mほど。緩やかな下り坂となっている参道を進むに従って、その仏殿が次第に大きく迫り、やがて見上げる大きな建物であることを実感する。また、仏殿の背後に舎利殿、本坊の順に並んでいることが分かる。
 仏殿内陣には運慶作と伝えられている本尊の釈迦、弥陀、弥勒の三尊仏が安置されている。過去、現在、未来の三世にわたって人類の安泰と幸福を守っている。天井には狩野探幽作の龍の図が描かれている。この仏殿の近くに、泉涌の名の由来となった泉が湧き出るところにかけられた覆屋がある。

霊泉が湧き出るところの覆屋 本坊庭園 浴室

 仏殿の背後に建つ舎利殿は御所の清涼殿を移築したもの。内部の天井には狩野山雪作の龍の図が描かれ「鳴き龍」として名高い。また、内部壇上に宝塔が安置され、1255年(建長7)に湛海(たんかい)が宋から持ち帰った仏舎利が納められている。室町時代の応仁の乱により、1468年(文明2)6月、伽藍一切一宇(う)、塔頭寺院も残らず焼失した。再興ははかどらず、1486年(文明16)に開山堂以下、1576年(天正4)までにようやくある程度の形が整った。その後、徳川家綱(4代将軍)により寛文8年(1668)に大造営事業で新築、修復され、大復興された。
  舎利殿の背後には、本坊を一番北にして御座所(天皇の休息所)、霊明殿と南北に一列に並んで建っている。また、霊明殿の東側に月輪陵。御座所は明治15年(1882)に霊明殿、庫裡、書院とともに炎上し、明治17年(1884)に明治天皇により再建されている。泉涌寺は、鎌倉時代の仁治3年(1242)に四条天皇が没し、泉涌寺に葬られ、以後歴代の天皇の葬場となり、寺内に月輪陵、後月輪陵が営まれた。境内には四条天皇以降多くの陵墓があり、霊明殿には歴代皇室の霊が祀られています。
  なお、東福寺大門を潜りすぐ左手に、楊貴妃観音堂がある。楊貴妃観音坐像(重文)が安置しているが、観音像は湛海が宋から将来したと伝える。また、泉涌寺の弥勒菩薩は「
京都十三仏霊場」第 六番霊場。

霊明殿の唐門(奥に霊明殿がある) 楊貴妃観音堂の本堂(中央) 楊貴妃桜

◇泉涌寺の所在地など
・住所:〒605-0977京都市東山区泉涌寺山内町27   ・電話:075-561-1551
・一般拝観:9:00〜16:30 大人500円(心照殿(宝物館)入場も含む)
・アクセス:京阪/JR「東福寺」駅から徒歩約20分。市バス「泉涌寺道」下車、徒歩約8分。

泉涌寺のURL 


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