清涼寺 宗派: 浄土宗知恩院派  

せいりょうじ

山号: 五台山  
  住所: 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46

通称: 嵯峨釈迦堂

電話: (075)861−0343  

 

拝観: 境内自由 方丈等拝観 9時から16時/400円

 

交通: ・市バス大覚寺行き「嵯峨釈迦堂」下車、徒歩約1分 
    ・JR嵯峨野線(山陰線)「嵯峨嵐山」下車、徒歩約15分

 清涼寺の前身は、光源氏のモデルとされる嵯峨天皇・皇子の源融(みなもととおる)の山荘「棲霞観」(せいかかん)で、融が亡くなって棲霞寺と改めらたが、天慶8(945)醍醐天皇・皇子の重明(しげあきら)親王が亡き妃のために新堂を建て釈迦如来を安置した。これが釈迦堂の名前の由来とされ、京都十三仏霊場第二番礼所である。本堂(釈迦堂)に安置されている本尊は、日本三如来の一つで三国伝来(インド〜中国〜日本)の生身の釈迦如来として尊祟されている。また、本堂(釈迦堂)の裏にある放生池の中の小島には弁天堂と忠霊塔が建つ。忠霊塔の地下には、各戦争犠牲者の霊を弔う写経石が一万数千個(一石一字)、また沖縄ひめゆりの塔、その他、戦地で集められた血染めの小石が納められている。境内西門近く、薬師寺(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱がある。嵯峨釈迦堂の東隣の町名が「六道町」で、昔はそこに福生寺があり六道の辻があったという。小野篁が冥土と現世を往復していた、冥土への入口“死の六道”が六道珍皇寺に対し、冥土から現世へ戻る出口“生の六道”が福生寺であったと伝えられている。この南側にある鐘楼に吊るされた鐘は、江戸時代のもの(文明16(1484))。薬師寺の東側、清涼寺本堂との間に「豊臣秀頼公の首塚」がある。大阪城の三の丸跡地から出土したものを、昭和58(1983)清涼寺再興に縁があるということで移されたとある。また、本堂の東側には、阿弥陀堂(旧棲霞寺)があり、本尊は阿弥陀三尊だが源融の供養のため 、子が造立したものとされる。
 清涼寺の境内は広く、他に一切経堂、愛宕権現社、多宝塔、嵯峨天皇宝塔・檀林皇后宝塔、東大寺の僧・ちょう然の墓、嵯峨大念仏狂言(重要無形民族文化財)が演じられる狂言堂、聖徳太子殿など。
 嵐山・渡月橋から清涼寺の仁王門まで左右のみやげ物店に目をやり歩くこと直線距離で約1km。仁王門前の道が愛宕街道で、左手(西側)へ行くと奥嵯峨野の鳥居本。

薬師寺脇の生の六道石柱:小野篁が冥土と現世を往復していた“生の六道”

豊臣秀頼公の首塚:大阪城の三の丸跡発掘現場から出土。

本堂(釈迦堂) :元禄14年(1701)に再建されたもの。

 

   
開祖ちょう然上人の墓   放生池の小島に弁天堂:   阿弥陀堂 :嵯峨天皇の第12皇子・源融公(光源氏のモデルとされている)の没後、遺族が御堂を建てた。これが阿弥陀堂の始り。
   
一切経蔵:徳川中期の建築で、中には一切経をおさめた輪蔵があり、回すことで一切経を読んだことになる。   愛宕権現社 :火除の神・愛宕権現を鷹ヶ峰から愛宕山頂へ移す時、ここで祀った跡地。神仏分離(明治時代)以前はここで神事が行われていた。   聖徳太子殿:境内の西南隅にある。
   
鐘楼: 梵鐘には文明16年(1484)11月の日付と足利義政・義尚・日野富子など堺の商人のながきざまれている。   源融(みなもととおる)の墓:多宝塔の裏にある宝篋印石塔   多宝塔:内部に多宝如来がまつられている。

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