嵐山・嵯峨野を歩く


常寂光寺 (じょうじゃくこうじ)

日蓮宗 小倉山 常寂光寺

  山門を潜ると目の前に仁王門。この仁王門は、南北朝時代(13361341)に建立されたもので、もとは 山科の本圀寺 (ほんこくじ)客殿南門であったが、江戸時代の初めの元和2(1616)に移築されたもの。石段を登ると桃山城の客殿を移築した本堂となる。山門からこの高台まで一直線の参道となっていて、その場で振りかえると周囲はモミジの木が多く、秋は紅葉が楽しめそうだ。

 本堂左側に能勢妙見を分祀する妙見堂で、説明によると慶長年間に起こった保津川洪水のとき、角倉町の一人の舟夫が流れ着いた妙見菩薩神体を拾い上げ祀っていたもの。その後、鎮護の神としてこの社で祀ることになったとされている。妙見堂横の石段を登ると多宝塔。元和6(1620)、京都町衆が奉納されたもので、後に霊元天皇から下賜された「並尊閣(へいそんかく)」の勅額が掲げられている。この他、藤原定家、家隆、徳川家康の木造を安置した「歌仙祠」、藤原定家の山荘跡とされる「時雨亭」跡など。
 

   
山門:珍しい黒塗り   仁王門:本圀寺客殿南門であった   本堂:小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築したもの

 常寂光寺は日蓮宗の寺院。開山は究竟(くきょう)院日禎(にっしん)上人。幼くして六条の日蓮宗大本山・本圀寺(ほんこくじ)(山科区)に入り、わずか十八歳で同寺の法灯を継いでいる。
 文禄4(1595)、秀吉の東山方広寺大仏千僧供養への出仕(しゅつし)を拒否した日槙は、やがてこの地に隠棲し常寂光寺を開祖した。当時、歌人としても著名であった日槙上人に、隠棲の地を提供したのは角倉了以である。また、関ヶ原の戦いの鍵となった北政所の甥・小早川秀秋らが堂宇の建立を援助している。その後、慶長11(1606)、了以が大堰川浚渫(おおいがわしゅんせつ)工事を始めると、上人は備前伊部の末檀家にあたる瀬戸内水軍旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、熟練した船夫の一団を招請して、了以の事業を支援している。後に、これら船夫の技術 をもって、保津川下りが生まれたのである。了以は、この後慶長19(1614)に高瀬川を開削している。二条から鴨川の水を取り入れ樵木町(木屋町)から伏見まで河道を造り、淀川から京都へ川船が入れるようにした。了以の墓が 二尊院の墓地にある。

   
多宝塔:霊元天皇から下賜された「並尊閣(へいそんかく)」の勅額が掲げられている   妙見堂 :一人の舟夫が流れ着いた妙見菩薩神体を拾い上げ祀っていたもの   藤原定家公山荘跡の碑

◎常寂光寺の所在地など
・ 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3   
・TEL(075)861−0435


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