
廬山寺(ろざんじ)
天台系
円浄宗 大本山 廬山天台講寺
京都市上京区寺町広小路上ル北ノ辺町397
節分の鬼の法楽で有名な廬山寺は、河原町通を走る市バス「府立病院前」で下車し広小路通を西へ向かうい、正面の京都御苑の緑を見ながら進むと寺町通に出る。寺町通は御苑に沿った南北の通りなので、そこを北へ行くと直ぐに廬山寺がある。
山門を潜ると正面には大師堂。大師堂には元三大師像(大師自作)、聖観音像(伝教大師作)、不動明王像(弘法大師作)などを安置している。大師堂の右側を行くと庫裡・本堂で、本堂には本尊の薬師如来坐像(聖徳太子作)が祀られている。本堂前の庭は「源寺庭」と呼ばれる。この境内地全域は紫式部の邸宅跡であると。昭和40年に考証発表されたいる。紫式部の曽祖父にあたる権中納言藤原兼輔がこの地に邸宅を構えたのが始まりで、式部はこの地で育ち結婚生活を送り、「源氏物語」を執筆したとされ、紫式部を偲び「源氏庭」と称している。この他、境内には地蔵堂があり堂内には明智光秀の持仏と伝える地蔵菩薩像が安置されている。
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| 山門を潜ると正面には大師堂 |
本堂前は桔梗の花が咲く美しい「源氏庭」 |
庭の隅に紫式部邸宅跡の石碑がある |
廬山寺は、円浄宗の大本山で、天慶元年(938)慈恵大師良源(りょうげん・元三大師)が北山に開き、興願金剛院と称した。寛元3年(1245)、法然上人に帰依した住心房覚瑜によって現船岡山の麓
、櫟谷七野神社に隣接して復興され、廬山天台講寺と改められ
た。円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。その後、後醍醐天皇の勅願寺となったが、応仁の兵火に遭い、天正年間(1573〜1592)に当地に移った。天明8年(1788)の「天明の大火」で類焼するが、代々暦朝の帰依厚く、寛政6年(1794)頃に再建されたのが現在の堂宇である。
境内墓地には、準門跡寺院を物語る光格天皇の父にあたる閑院宮(かんいんのみや)親王(慶光天皇)の廬山寺陵他、皇族、貴族の墓などある。
不思議なことに紫式部の墓碑はなく、この地から2.5kmほど北西方向の堀川北大路の少し南にある。また、北区千本鞍馬口にある「引接寺(千本閻魔堂)」に供養塔を見ることができる。
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| 境内墓地(写真中央の奥に慶光天皇の廬山寺陵がある)には、慶光天皇他、皇族、貴族のお墓が多い | 境内墓地の一角には、法成寺東北院にあった井戸跡がみられる | 墓地の東端には秀吉が都の防御のために造営した「お土居」(国史跡)の一部が残る。この辺りは、都の東辺にあたる。 |
ここ廬山寺の大師堂において毎年二月の節分会で勤修される「追儺式鬼法楽」は、開祖元三大師が宮中で三百日の護摩供をされた時に、三匹の鬼(赤鬼=貧欲、青鬼=嗔恚(しんい)、黒鬼=愚痴)が出現し、その三鬼を独鈷、三鈷の法器でもって退散させたという故事による もの。この独特の節分行事は、鬼を祓うことによって一切の厄難を追い払うとされ、京都の節分行事の一つに数えられている。通称「鬼踊」とも言い、赤鬼が松明と宝剣をもち、青鬼は斧、黒鬼は大槌をもって現れ、太鼓と法螺に合わせて拍子をとって踊りまわる。そこへ追儺使が出てきて豆をまくと、鬼が退散するというもの。
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◇廬山寺準門跡
の所在地など |
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| 堀川北大路の少し南にある紫式部の墓碑。右隣には小野篁(おのたかむら)の墓碑。小野篁は、延暦21年(802〜852)生れ、嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で、文人でもあり、歌人でもある。文章生から閣僚級である参議という高級官僚に昇格している。 | 廬山寺の南にある法成寺跡(府立鴨沂(おうき)高校の体育館付近) 一条天皇の外祖父藤原道長が廬山寺の南辺りで阿弥陀堂を建立。後に、五大堂・金堂・十斉堂・三昧堂を造営して、東大寺をしのぐほどの規模の大寺となり、法成寺と称した。この寺の東北に造られたのが東北院で、現在東北院は吉田山の東麓にある真如堂(真正極楽寺)の北に移転している。 |