
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
臨済宗建仁寺派 大椿山 六道珍皇寺
京都市東山区松原通東大路通西入ル小松町595

先祖の精霊を家に迎える「六道まいり」で知られる
六道珍皇寺が建つ辺りはその昔
、阿弥陀ヶ峰山麓一帯(清水から今熊野辺りの東山山麓)の鳥辺野(とりべの)呼ばれた東の葬送地への入口
へ続く道に面して建っていたことから”六道寺”とも呼ばれていた。
六道珍皇寺の西の西福寺傍に「六道の辻
」と刻んだ石標が立っている。六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいい、死後、霊は必ずそのどこかに行くといわれる。六道の辻は、その分岐点で冥土への入口といわれている。
京都では、盂蘭盆会前の8月7日から10日までの四日間、先祖の精霊を家に迎えるため、六道珍皇寺へ参る風習がある。これを「六道まいり」という。期間中、境内一帯は多くの参拝者で賑わい、参拝者が打ち鳴らす「迎え鐘」の音が一帯に響き渡る。鐘は鐘堂の中にあるので見ることは出来ないが、参拝者は堂前の穴から出ている太い綱を引いて、ご先祖様が迷わず帰れるようにと祈りながら鐘を鳴らすのである。
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| 霊を現世に呼び戻すといわれる「迎え鐘」を安置したお堂 。堂の前に出ている綱を引き鐘を打つ。 | 平安時代に造られた重要文化財に指定された薬師如来坐像を安置した薬師堂。普段は扉が閉ざされている。(特別拝観時と六道参りの時に開門) | 普段の閻魔・篁(たかむら)堂 。堂内には、弘法大師像、小野篁が彫った閻魔大王像、等身大の篁像などが安置されている。格子の隙間から覗き見ることが出来る。 |
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| 「六道詣り」(8月7日〜10日)の時に閻魔・篁堂は開戸され、像を見ることができる。 | 室町時代のものと伝える多数の石仏、地蔵様が並べられている。冥土へ向かう幼子が迷わず行けるようにお願いする | 本堂の背後に残る、小野篁が冥土行きに使ったとされる井戸と、左には篁の持仏を祀る竹林大明神の祠が見える。 |
六道珍皇寺は、平安時代前期の延暦年間(782〜805)に、大和(奈良)の真言宗大安寺住持であった慶俊僧都(きょうしゅんぞうず)によって建立された珍皇寺が始まりである。この建立説には幾つかの説があるが、詳しい説明は割愛する。このことから古くは宝皇寺とか愛宕(おたぎ)寺など称されていたという。その後、鎌倉期に東寺の空海(弘法大師)が興隆し寺領も拡大したが兵乱等により衰微。南北朝時代の貞治3年(1364)、建仁寺の住持、聞渓良聡(もんけいりょうそう)により再興され現在に至っている。
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| 本堂の前には「三界萬霊供養塔」 | 写真中央奥、西福寺(白塀)の角に「六道の辻」の石柱が立つ | 六道の辻で「幽霊子育飴」を売る「みなとや」さんがある |
六道珍皇寺に六道まいりの風習がうまれ、迎え鐘が撞かれるようになったのは。その昔、鳥辺野(とりべの)呼ばれた葬送地へ続く道に面していたこと、この世とあの世の分岐点「六道の辻」にあったこと、閻魔王宮の役人で第二の冥官だったと伝説をもつ小野篁(おのたかむら)が冥府へ通う入口が寺に在ったためとされる。
本堂の背後に小野篁が冥土への入り口にしたといわれる井戸(「冥途通いの井戸」と称している)がある。ちなみに、冥土から帰って来る井戸は
今は廃寺となっている大覚寺門前六道町辺りにあった福生寺の井戸と伝えられる。篁は珍皇寺の井戸から冥界へ行き、福生寺の井戸から現世へ帰ってくるのである。
福生寺は西の葬送地にあたる化野(あだしの)に
あり、都の人々は珍皇寺の井戸を”死の六道”、福生寺の井戸を”生の六道”と称した。現在、嵯峨釈迦堂(清涼寺)脇にある薬師寺横に、篁が冥土から現世へ戻っていたと伝える“生の六道”の石注が建てられている。
ちなみに、北の葬送地にあたる蓮台野(れんだいの)入り口にある千本閻魔堂の名で知れている引接寺(いんじょうじ)も小野篁ゆかりのお寺で、篁が作った大きな閻魔大王が祀られている
。他に篁が作った仏像で有名なのが宇治市木幡(こはた)の桜の木から作った六体の地蔵菩薩。この菩薩は後に平清盛によって京の六つの口(街道口)に安置され、京の六地蔵として巡拝する風習が現在も続いている。
この小野篁(おのたかむら)とはどのような人物? 篁は、延暦21年(802〜852)生れ、参議小野岑守(みねもり)の子。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある。また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったという。不羈(ふき:なににも束縛されない)な性格で奇行も多く、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとする伝説が有名。また、篁は承和5年(838)の三十代半ばで遣唐副使に選出されながらも詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどから嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪、一切の官職官位を奪われたが、承和7年(840)には帰京・復位を許されている。その後は学識を高くかわれ官位を昇り、承和14年には従三位についている
。なお、小野篁は平安時代前期の有名な女流歌人・小野小町の祖父である。
「ものしりメモ」
◇六道珍皇寺の所在地など
●「幽霊子育て飴」の由来
慶長4年、京都の江村氏は、妻を葬った数日後、土の中から幼児の泣き声がするので、掘り返してみれば、忘れもしない亡き妻が産んだ子供であった。ちょうどその当時、夜な夜な飴を買いに来る婦人がいたが、子供(幼児)を掘り起こしてからは、その婦人が来なくなったという。その後、この店で売る飴を誰となく幽霊子育の飴(水飴を固めて小割りしたもの)と呼ぶようになり、果ては薬飴とまで言われるようになり現在に至っているそうな。
●「お迎え鐘」の伝説
ここの鐘楼に架かる鐘は、毎年の盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために叩かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十万億土の冥土まで響き渡り、亡者はその響きに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることから「お迎え鐘」と呼ばれている。「古事談」によれば、この鐘は当寺を開基した慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴く時、この鐘を三年間この鐘楼の地中に埋めておくことと、寺僧に命じて旅立った
。ところが、寺僧は待ちきれず、一年半ばで掘り出して鐘を叩いたところ、遥か唐国に居る僧都に聞こえたという。僧都は、「あの鐘は、三年間地中に埋めておけば、その後は人の手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」と、大変残念がられたという。しかし、そんな遥かな唐国にまでも響く鐘なら、おそらく冥土まで届くだろうと信じられ、このような「お迎えの鐘」になったと伝えられる。
●遣唐使の廃止
平安京になって、遣唐使の派遣は九世紀前半に二度実施された以後は廃止されている。一度目は、最澄、空海が同行した延暦23年(804)。二度目が
小野篁が副使に選ばれ承和3年(836)。承和3年の6月に出発したが、遭難して失敗。翌々年の5年7月に渡航することに決定したが、この時小野篁は病を理由に渡航しなかったばかりか、「西道謡」
を詠み遣唐使の意義を軽視、批判をした。これが嵯峨天皇の怒りに触れ、同年12月へ隠岐へ配流されたのである。
この事件を最後に、遣唐使の派遣は無くなっている。その理由は、渡航の技術的問題と唐文化に対する熱が冷めてきたものと、みられている。
・住所:京都市東山区松原通東大路通西入ル小松町595 ・電話:(075)561−4129
・拝観:境内自由
・交通:市バス206・207「清水道」下車、松原通を西へ徒歩約5分