三十三間堂(蓮華王院)  さんじゅうさんげんどう(れんげおういん)

天台宗 蓮華王院(妙法院の所管)    京都市東山区三十三間堂廻町657
本尊の千手観音座像(国宝)

 三十三間堂は、後白河上皇ゆかりの寺院で、東山七条の西にある妙法院の境外寺院で 、正しくは蓮華王院(れんげおういん)である。三十三間堂の名は、内陣の柱間が33あることに由来するのであるが、この33という数字は、観音の慈悲が33相に示現するということにちなんでいる。すなわち、苦難に遭遇した衆生を救済するため、観音菩薩は苦難に応じて33の姿に変身 される。柱間の数もこれにあわせたもので、また観音霊場が三十三所となっているのもこれによるものである。 
 平安時代の長寛2年(1164)、後白河上皇が院の御所としていた法住寺殿の敷地の一角(法住寺の西側)に、平清盛に命じて南北に118mもの長い観音堂を建立し蓮華王院 (通称三十三間堂)と称したのが始まり。法住寺は太政大臣藤原為光(ためみつ)が、娘の忯子(しし)(花山天皇女御)の菩提を弔うために建立した寺で、長元5年(1032)に焼失 した。その跡へ後白河天皇が法住寺殿を造営。 その規模は大和大路通から東に400m四方の広大なもので、永暦2年(1161)に移り住み院政の拠点となった。本堂の東南には五重塔を、さらにその周辺に不動堂、西側に北斗堂、南に南御所、北側に宝蔵が建てられたという。

   
本堂の東面   東面の中央   本堂の西面

 その後、治承2年(1128)、平清盛が法住寺殿を襲い、院政を停止したのに始まり、寿永2年(1183)には木曽(源)義仲の焼き討ちに遭っている。その後、源頼朝が再建し丈六の阿弥陀三尊を安置したが、建長元年(1249)の市中大火災で観音堂をはじめ諸仏の殆どを焼失 している。九条家(九条道家)を中心に再建に着手され、鎌倉時代の文永3年(1266)に完成した。落慶供養には、亀山天皇をはじめ後嵯峨上皇、後深草上皇らが臨幸された。このとき再建された本堂が現在の三十三間堂である。江戸時代の慶長18年(1614)に徳川家康が蓮華王院の管轄権を妙法院に定めて以来現在に至る。

   
本堂の東北に建つ「法住寺院跡」   三十三間堂の東にある「法住院」   夜鳴き地蔵

 観音堂内陣には高さ3m余りの本尊千手観音座像(国宝・湛慶作)を挟んで、湛慶など慶派、円派、院派の奈良仏師が左右に500体ずつ、合計1001体の十一面千手千眼観音像が並んでいる。また、両端に風神・雷神像、背後にほぼ等身大の二十八部衆立像が安置されている。内陣は撮影禁止のため仏像の写真はありません。
  なお、蓮華王院南大門・西大門および西・南延べ230間半におよぶ土壌(太閤塀)は慶長4年(1599)に造られたもので、秀吉が建立を始めた方広寺大仏殿造営時の遺構(慶長3年(1598) 8月、秀吉は亡くなっている)と知る人は少ない。
 毎年1月15日に行われる通し矢は、全国的に知られている。桃山時代に始まり、江戸時代の慶長期(1596〜1615)頃から弓道の行事で本堂背面の縁側の南端から北端の的に向け、一昼夜弓を射続けた。その行事は現在も“弓引き初め”として引き継がれ、「通し矢」として新年の行事として盛んになっている。

     
秀吉の遺構「太閤塀」(重文)   秀吉建立の遺構「南大門」(重文)    

◇三十三間堂(蓮華王院本堂)の所在地など
・住所:〒605-0941京都市東山区三十三間堂廻町657  電話: 075-561-3334
・拝観:4月1日〜11月15日 (8:00〜16:30)、11月16日〜3月31日 (9:00-15:30):大人600円
・アクセス:市バス 206208で「三十三間堂前」下車。市バス 207・特207で「東山七条」下車徒歩3分。


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