妙顕寺(みょうけんじ)  
日蓮宗(一致派)大本山 具足山 四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺
京都市上京区寺之内通堀川東入る妙顕寺前町    

法華宗(日蓮宗)が京都で開山した最初の道場
 堀川通の寺之内を東へ数分歩くと、茶道で有名な表千家・不審庵(北側に裏千家・今日庵がる)があり、その東側に妙顕寺がある。妙顕寺は、元亨元年(1321)日蓮上人の孫弟子、日像(にちぞう)が創建した、京都における日蓮宗の最初の寺院として知られる。観光寺院ではないので境内は静寂に包まれている。
 日像は、下総国平賀(千葉県松戸市)の豪商の子として生まれ、7歳で出家、日朗(日蓮が亡くなる前に事後を託した本弟子六人(六老僧)の一人)の弟子となる。すぐに才能が認められ、身延山の日蓮上人(1269〜1342)に仕え修行に励み7年が経ったある日、日像は日蓮上人の枕元に呼ばれ、帝都(京都)開経の遺命を受ける。これまで法華宗(日蓮宗)は、鎌倉を中心に東日本での布教活動を行っていた。12年後、鎌倉末期の永仁2年(1294)日像は日蓮の遺命を果たすべく上洛。綾小路大宮に法華堂を構え、早速辻に立ち辻説法を始める布教を開始。日像の教えが広まり始めると他宗派の迫害・流罪を受け、帰洛が許された延慶2年(1309)、再び京都での布教活動を開始、洛北・松ヶ崎(現妙泉寺)、洛西・鶏冠山(現真経寺)、洛南・深草(現宝塔寺)らで折伏し帰依させている。三度の苦難(流罪)に遭うが、元亨元年(1321)ついに布教の勅許(後醍醐天皇)を得て、京都における法華宗(日蓮宗)最初の道場妙顕寺が創建された。以後、京都の法華宗派21本山(現在は16)の中心的な寺院となる。南北朝の建武元年(1334)、後醍醐天皇によって勅願寺となるが、一方で延暦寺を筆頭とする他宗派との争いの火種を抱え、四条櫛笥(中京区)、三条坊門堀川(堀川御池)そして二条西洞院へと移転。天文5年(1536)に起きた天文法華の乱で徹底的に破却され、和泉(大阪)の堺 にあった末寺妙法寺に退避している。天文11年(1542)帰京が許され、二条西洞院の旧地に再建されたが、文禄2年(1593)秀吉の命により、現在地(堀川寺之内)に移転し現在に至っている。なお、現在の伽藍は天明8年(1788)の大火で焼亡後に再建されたもの。

   
表門から本堂への参道   天明8年(1788)の大火で焼亡後に再建された「四海唱導」の額が架かる本堂   日蓮・日朗・日像を祀る三菩薩堂
         
   
守護神の鬼子母神・七面大明神を祀る鬼子母神堂   勅使門   庫裏・方丈

 江戸時代には、堀川五条にあった本圀寺(現山科区)とともに京都日蓮宗の二大拠点となった。明治時代に入って、分裂していた法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてから妙顕寺は、大本山として全国に三百余末寺を統率していたが、昭和16年の制度改革によって、全ての末寺を解放している。本堂東側の三菩薩堂(祖師堂にあたる)は、日蓮・日像・日朗が祀られている。二世大覚上人の頃、延文三年(1358)の大千魃に後光厳天皇より祈雨を命ぜられて、大覚上人は一門を引きつれて桂川の辺りで祈ると、雨が降り始め、雨は数日つづいて田畑がすっかり潤い、民は大いに歓喜。朝廷はその功を認め宗祖日蓮に大菩薩号を、日朗、日像に菩薩号を大覚には大僧正を賜ったことは有名な話。
 方丈客殿前庭を「龍華飛翔の庭」、書院前庭を「光琳曲水の庭」と称されている。境内塔頭には、壇信徒の尾形光琳・乾山兄弟の墓がある。

◇妙顕寺の所在地など
・住所:〒602-0005京都市上京区寺之内通堀川東入る妙顕寺前町
・電話:075-414-0808
・拝観:境内自由
・交通:市バス京都駅前から西賀茂車庫行きにて「堀川寺之内」で下車、徒歩約5分


・名所旧跡めぐり目次へ戻る     ・トップページへ戻る