
広隆寺
真言宗御室派大本山 山号 峰岡山
本尊は聖徳太子像。
・秦氏が建立、聖徳太子を祀る
京福嵐山線「太秦(うずまさ)」駅の前に大きな仁王門(南大門)がある。この門が広隆寺で左右には室町時代と思われる仁王像が安置されている。この仁王像に睨まれて南大門を潜ると右前方に講堂(重文)が見える。平安時代の永万元年(1165)再建された京都最古の建物とされる。柱は円柱で丹塗りであることから赤堂とも呼ばれる。内陣には弘仁時代に造られたという阿弥陀如来座像(国宝)が安置されている。講堂の北側に小さな祠がある。聖徳太子に仕えた秦河勝(はたかわかつ)を祀る太秦(うずまさ)社。その北が上宮王院太子殿で享保15年(1730)に建立された。本尊の聖徳太子像を祀る。
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| 京都最古の建物とされる講堂 | 秦河勝を祀る太秦(うずまさ)社 | 上宮王院太子殿(本堂) |
広隆寺は、法隆寺(奈良)などとともに聖徳太子の七大寺の一つ。秦河勝が聖徳太子から賜った仏像弥勒菩薩を本尊として、太子が亡くなられた推古天皇30年(622)にその供養のために建立した蜂岡寺(はちおかでら)が前身。秦公寺(はたきみでら)、葛野寺(かどのでら)、葛野秦寺、また太秦の太子堂とも呼ばれていた。
なお、蜂岡寺は最近の発掘調査により北区北野白梅町(西大路通と今出川通の交差点の北東角で、「北野廃寺跡」の石碑が見られる)にあったという説が有力だが、この太秦の地に移った時代については不明で、飛鳥時代説や平安遷都のときに移設説などいくつかあるという。
秦氏族は、4世紀に百済国の弓月君(ゆずきのきみ)が大勢の民を率いて渡来し帰化した。養蚕機幟の業が主で、先進的な大陸の農耕、土木、醸酒などの技術を
もって地位を築いた。6世紀の後半には、子孫の秦酒君(はたさけきみ)が山城北部・葛野(かどの)の地を賜っている。秦河勝(はたかわかつ)はその子孫で聖徳太子に仕えた舎人(とねり)。太秦社の本尊は秦河勝で、漢織女、呉織女を合祀している。
その後、広隆寺は弘仁9年(818)の火災により伽藍の殆どを焼失したが、多くの仏像は焼失を免れていた。承和3年(836)には秦氏出身の道昌(どしょう)僧都が再興に着手。この時、丹波国多原寺の薬師像を迎え、本尊は創建時の弥勒菩薩から薬師如来となる。また、平安時代に聖徳太子像(重文・秘仏で毎年11月22日に開張される)に代わった
。
上宮王院太子殿の西、境内西北隅に桂宮院がある。聖徳太子が楓別宮を起こした場所と伝えられ、現在は広隆寺の奥の院にあたる。建長3年(1251)以前の建物で国宝。法隆寺夢殿に似た単層の八角円堂。春4月、5月と秋10月、11月の日曜・祝日に公開される。(八角円堂の撮影禁止)堂内に祀られていた仏像、聖徳太子像、阿弥陀如来像その他の仏像は、現在は霊宝殿で拝観できる。
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| 桂宮院本堂(重文) | 弁天島経塚 | 霊宝殿 |
また、上宮王院太子殿の北側に霊宝殿があり多数の国宝や重文の仏像を見ることが出来る。最も知られているのが、百済からの貢献仏で飛鳥時代を代表する弥勒菩薩半跏思惟像:国宝(第1号)。この弥勒菩薩像が太子から賜った仏像とされる。宝冠弥勒とも呼ばれ、うつむき加減の姿。館内は薄暗くはっきりと見えないが、口元に手を添え、微妙にほほえんだ像である。その他、十二神将像、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像、千手観音立像などが国宝や重文などの仏像が多数ある。必見。
◇広隆寺の所在地など
・住所:〒616-8162京都市右京区太秦峰岡町32 ・電話: 075-861-1461
・拝観:境内自由。なお、霊宝館:9:00〜17:00(12月〜2月は9:00〜16:30)大人700円。
桂宮院(国宝)別名八角円堂は、 春4月、5月と秋10月、11月の日曜・祝日に公開(有料)。
・アクセス:京福電鉄嵐山線「太秦(うずまさ)」駅下車徒歩2分。京都バス
「太秦広隆寺前」下車すぐ。市バス75で「常盤仲之町」下車、又は11で「右京区総合庁舎前」下車すぐ。