
木嶋神社
(このしまじんじゃ) 通称:蚕ノ社(かいこのやしろ)
主祭神:天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、瓊々杵命(ににぎのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみ
こと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
京都市右京区太秦森ヶ東町50
朝鮮半島から渡来した秦氏が建立
木嶋(このしま)神社は、京福電鉄嵐山線の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」駅から北へ向かって4分ほど歩いたところの、こんもりとした森の中に鎮座している。境内社殿は明治以降のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を包むように巨樹が繁茂している。この森を「元糺の森(もとただすのもり)」と呼称し、下鴨神社(左京区)の「糺の森(ただすのもり)」と関連する(後述)。創建当時、この地は鬱蒼とした森であったとされていて、現在では宅地化の波に押し寄せられ、神社の周辺は住宅が密集している。この嵯峨野(太秦)へ移住して来たのは朝鮮半島から渡来した秦氏一族。
「蚕の社(かいこのやしろ)」と呼ばれているのは、本殿東側にある蚕養(こかい)神社(東本殿)をいう。祭神は保食神、木花咲耶姫、雄略天皇である。今から1300年以上も前、製陶・養蚕(ようさん)・機織(はたおり)などを京に伝えた渡来人秦氏が建立した神社とされている。朝廷が桑の栽培に適した場所へ秦氏の民を移住させ桑を植栽させたもので、その首長は秦河勝。河勝はこの「蚕の社」の西に広隆寺を創建した人物でもある。
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| 社殿を包むように巨樹が繁茂している木嶋神社 | 正面の拝殿の左側が元糺の森で、森のなかに元糺ノ池がある | 木嶋神社本殿(正面)の右手側に蚕養(こかい)神社(東本殿)だ鎮座している |
創建年月日は分からないようであるが飛鳥時代後期、大宝元年(701)に書かれた文書に当社名が載っていることから、それ以前に存在していたとされる古社。正式社名は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすび)で、通称「蚕ノ社」(かいこのやしろ)と呼ばれている式内社。
本殿祭神の天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)外四柱は、秦氏が祀った水の神が始まりとされているが、太古からあったこの地の祭祀権を秦氏が入手した段階で、先住民の神が天之御中主命か大国魂神に変えられたとの説もある。この神は、平安時代には祈雨の神として信仰を集めていたらしく、参詣の人も多かったことが文献から判明しているという。
本殿の西側に、四季を通じて湧水する神池
がある(近年は水が涸れている)。「元糺の池(もとただすのいけ)」と称される池で、「糺(ただす)」は、「正しくなす」「誤りをなおす」の意味。池の水は境内を流れていて、夏の土用丑(うし)の日に、この池の水に手足を浸すと諸病によいとされ庶民の間で厚く信仰されていたという。これは、平安時代に
貴族の間に流行した身滌(身に、罪や穢れのあるときに心身を清める)という風習が庶民の間で採り入れられたものという。現在では、下鴨神社で「足つけ神事」として
行われていて、多くのひとが訪れているという。
この池の中心に天保2年(1831)に再興された「三柱鳥居」が建つ。京都の三つの珍鳥居の一つとされていて、三つの石製鳥居を三角形に組み合わせ、中心に石積みの神座に御幣が立ち三方から拝むことができる。三方向は、北は双ケ丘、西は松尾大社、東は稲荷大社の方向で、いずれも秦氏ゆかりの場所
(支配地域)である。
なお、他の二つの鳥居は、京都御苑のなかにある厳島神社の唐破風鳥居(島木とよぶ鳥居の横木が唐破風造り)と北野天満宮内にある伴氏社の鳥居(両方の柱の下が蓮の華状となっている)である。
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●京都珍三鳥居
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前述の“元糺の森”については、嵯峨天皇の時代(809〜822)に、「糺」を下鴨神社に遷してから、当社の森を「元糺」とされたという。以来、鴨氏の氏神を祀る下鴨神社の森を“糺の森”と称し、木嶋(このしま)神社の森を“元糺の森”と称するようになった。これは秦氏と鴨氏とのつながりをあらわしている。下鴨神社の糺ノ森の瀬見の小川の西側にある摂社河合神社の正式名称は小社宅(おこそべ)神社。祭神は賀茂別雷命の母、玉依姫命である。元は秦氏の祀っていた神で、賀茂氏が秦氏の婿となり祭祀権を譲られた関係からと見られる。
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◇木嶋神社の所在地など |
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| 社前の常行灯には「蚕養社」とある | 水が涸れた「元糺の池(もとただすのいけ)」と「三柱鳥居」 |