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洛北・鷹ヶ峰を歩く
鷹ヶ峰は、京都郊外北西部の丘陵地。鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰の鷹峰三山の南麓。その昔、鷹ヶ峰から杉坂峠を越え、中川への街道は、山国道とも長坂越えともいわれ、丹波などから都への重要な都への街道。鎌倉時代の末期には関所が、また秀吉の時代には都の警備のために御土居と称する土塁が築かれ、洛中と洛外に分かれた。
鷹ヶ峰の辺は洛外となり、辻斬りや追いはぎなどが出没する物騒な所であったとか。
江戸時代に入り、京の七口の長坂口となったことから辺りは、周山街道(福井県の若狭へ続く)への重要な物資の集散地として栄え、宿場を持つようになった。この鷹ヶ峰一帯に一大芸術村を築いたのが本阿弥光悦。
常照寺
(じょうしょうじ)
日蓮宗 寂光山 常照寺
京都市北区鷹峰北鷹峰町45
常照寺へは、市バス「鷹峰源光庵」下車、東へ徒歩数分の所。参拝者用の駐車場もある。なお、バス停を西へ行くと源光庵、光悦寺、圓成寺がある。
常照寺は、日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ、太夫の墓や太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門、吉野窓(茶室)、吉野桜も有名。寺の始まりは元和2年(1616)、本阿弥光悦の子・光嵯が発願し、本阿弥光悦の寄進した土地に日蓮宗中興の寂照院日乾上人を招じて開祖。寛永
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| 吉野門と呼ばれている朱塗りの山門。 | 全国的にも珍しい帯塚。 | 本堂 |
境内には復興時に植えられた吉野桜が現在も見事に花を咲かせていて、毎年4月の第三日曜日に太夫による花供養が催され、島原の太夫行列や境内での野点茶席で賑わう。山門を潜ると正面に本堂、右手に帯塚がある。この帯塚は、造園界の権威者、大阪芸術大学元学長故中根金作氏の作品。帯塚の石は、四国・吉野川で採取された自然石で、女性の心の象徴“帯”に感謝して昭和44年(1969)に建立されたという。
本堂の右奥にある客殿へ入ると、庭を眺めながら抹茶を頂ける(別料金)。庭には鷹が飛び立つ姿に見えるという“比翼石”。奥には吉野と灰屋の二人の名前を刻んだ比翼塚と歌碑(紹益が詠んだ)がある。比翼塚は、二人の墓が別々に(夫・紹益の墓は、上京区七本松通仁和寺街道上るにある
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| 茶席遺芳庵 | 太夫が愛した窓(吉野窓と呼ばれている)。 | 開祖日乾上人を祀る開山堂。奥に上人に帰依した吉野太夫の墓がある。 |
境内の一番奥にあるのが鬼子母尊神堂、隣が常富大菩薩堂、少し離れて妙法龍神堂、少し高台に茶室の「聚楽亭」と吉野太夫が好んだという大丸窓(通称吉野窓)のある「遺芳庵」が見られる。遺芳庵の後方の墓地に開祖日乾上人を祀る開山堂で、奥に日乾上人に帰依した吉野太夫の墓があり、献花が絶えない。
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| 吉野太夫と夫の灰屋紹益の二人の名前を刻んだ比翼塚。 | 吉野太夫の墓 | 境内の最も奥に建つ鬼子母神堂 |
注1 吉野太夫とは
江戸時代の初期、京の遊郭で天下の名妓とうたわれていたのが二代目吉野太夫。
常照寺の朱色の山門には「吉野門」の名札が掛けられているが、その吉野太夫の寄進により建てられたものである。太夫は日頃から熱心な法華経の信者。ある日、人として生きる道を仏法に求めようと日乾(にちけん)上人を頼って常照寺へ訪れ「法華経こそ一切女人成仏の印文なり」と導かれた太夫は、日乾上人への帰依の証しとして私財を投じて山門を寄進したのである。(現在の山門は大正6年(1917)に再建されたもの)
二代目吉野太夫は、慶長11年(1606)3月3日、京都市東山区にある現在の国立京都博物館近くで生まれている。本名を徳子といい、父は松田武左衛門で西国の武士であったが流浪のすえ京に住んでいた。7歳(1613)のとき父が亡くなり、訳あって六条三筋町の遊里「扇屋」に預けられることになった。最初は禿(かむろ)として太夫などの雑女をしていたがその時から美しさは際立ち、遠く唐(中国)の国にまで知れていたという。
14歳の若さで太夫の位について源氏名を「浮舟」としたが、遊郭の入口近くに咲く桜を見て詠んだ句から名を「吉野」にかえている。当時の太夫は、容姿が整い美しいだけでなく、一流の教養や芸能を身につけていなければならず、それだけに太夫の力は絶大だった。二代目吉野太夫は、書画、和歌、俳歌、花道、茶湯、聞香、太鼓、鼓、琴、三味線、囲碁、双六など諸芸に優れ「三筋町七人衆の筆頭」「寛永三名妓」などと呼ばれ呼ばれていた。こうした才色兼備の名妓吉野に思いを寄せ、通い続けた男が二人。その二人とは、京の町を代表する文化人、関白の近衛信尋と本阿弥の親戚にあたる灰屋紹益(本名佐野三郎重孝といい、剃髪して紹益と号した)であった。紹益は、もともと本阿弥光益の子であったが養子で佐野家にいった。家業が南北朝時代からの紺灰(藍染に使用する灰)問屋を営むことから、屋号が通称になって灰屋紹益と呼ばれていた。富商であった財力をもとに生涯を趣味と雅やかな生活を楽しみ、和歌、茶の湯、蹴鞠などに秀でていた。
紹益は、公卿と張り合い、寛永8年(1631)千三百両で吉野太夫を身請している。吉野26歳の時であったという。このとき紹益は親の許しが得られず駆け落ちした話は有名。この父が、雨にあって傘を借りに入った家で、世話をしてくれた女の茶立てやその他の振る舞いが礼にかなっているのに感服、その女が吉野であることが分って、勘当をゆるしたという。二人は東山の音羽川のほとりに住まいを構え幸福な家庭を営んだ。寛永20年(1643)8月25日、吉野は38歳の若さで没し、甘い生活はわずか12年間と短く、紹益は恋慕のあまり吉野の荼毘の骨灰を呑みほし、
「都をば花なき里となしにけり吉野の死出の山にうつして」
と詠んだ。吉野は、本来なら夫の菩提寺である立本寺(りゅうほんじ)に葬られるはずだが、遺言から帰依した日乾上人により生前に山門を寄進した縁もあり、常照寺に葬られた。*上の画像は、夫灰屋紹益が吉野の没後、生前を偲んで絵師土佐光興に描かせたもの(常照寺所蔵)。
◇常照寺の所在地など
・住所:京都市北区鷹峰北鷹峰町45
・電話:075−492−6775
・拝観時間:8:30〜17:00・拝観料:300円
・アクセス:市バス「鷹ヶ峰源光庵前」下車、徒歩約2分【JR嵯峨野線「二条駅」から6号系統、又は市地下鉄烏丸線「北大路駅」(北大路バスターミナル)から北1〔仏教大学前系由〕系統のいずれか】。