引接寺(いんじょうじ)  通称:千本閻魔堂(せんぼんえんまどう)

真言宗高野山派  光明山 引接寺歓喜院 
京都市上京区千本鞍馬口下る閻魔前町
34

『嘘ついたら”えんまさん”に舌を抜かれる』の閻魔さんを祀る
 
引接寺は、千本通の北部、千本鞍馬口にある。通称の「千本えんま堂」で知られている。開基は小野篁(おのたかむら)。篁は、地獄で「閻魔大王」に会い精霊(しょうらい)を現世に迎える秘法を教えられ、それを衆生(しゅじょう)に伝えるために堂を建てたのが始まり。その後、平安初期の長保6(1004)、恵心僧都源信の法弟「定覚(じょうかく)上人」が引継ぎ、引接寺と命名して開山。本尊は「閻魔(えんま)大王」。えんま大王は恐ろしい顔をしていることから、怖い地獄の支配者のように思われているが、実は私どもに最も身近な仏様で、死んでしまった人間を、あの世のどこへ送るかを決める裁判長の役割を担っている。怒りの表情で私たちに地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くといわれる大王は、実は人間を三悪道には行かせたくないため。

 千本えんま堂に安置している現在の「閻魔大王」像は二代目。長享2(1488)、鎌倉時代の仏師・定勢の作だが、それでも500年以上も経ている仏像である。初代の閻魔像は応仁の乱(1467-77)で消失している。
 本堂の前縁の板壁にはっきりと見えないが、閻魔大王のいる地獄絵が描かれている。境内には沢山の石仏像が祀られている。ごく最近奉納された石仏から古い石仏まで百体以上はあるだろう。また西北の隅に紫野にあった白毫院(びゃくごういん)から移転された高さ6m余りの石造十重の紫式部供養塔(重文)がある。南北朝時代の至徳
3(1386)に紫式部の不遇な生涯を弔って建立されたという。なぜ紫式部の供養塔がこの寺に移転されたかは定かでないが、紫式部と小野篁とは 縁者との説もあり、他にも堀川北大路下る西側に二人の墓が並んでいることはよく知られている。

閻魔堂の本堂で、奥に閻魔大王が祀られている 境内には、たくさんの石仏が奉られている 堀川北大路下る西側 、ビルの狭間に紫式部と小野篁の墓が並んでいる

 千本通は、平安京の中央に造られた「朱雀大路」のこと。朱雀大路の先にあるのが船岡山である。この山の西北側一帯はその昔、東山の鳥野辺、北山の仏野とならび、京都の三大埋葬地の一つの蓮台野の入り口。この葬地へ向かう道が千本通で、埋葬地につきものが卒塔婆。道に沿って立ち並ぶ卒塔婆の数は数百、いや数千本を数えたのであろう。やがて、この道を「千本通」と呼ぶようになったとか。この卒塔婆の下に眠る肉親の霊を供養するために、道に沿って千本閻魔堂(引接寺)や千本釈迦堂(大報恩寺)が建立されてものと想像する。閻魔堂には、京都市登録の無形民俗文化財に指定されている、念仏狂言が残る。京都には他に嵯峨・清涼寺、壬生寺、神泉苑でも念仏狂言は見られるが、ここ閻魔堂の念仏狂言は、台詞も伴奏もあるのが特徴。創案はこの寺を開山した定覚。
 この小野篁(おのたかむら)とはどのような人物? 篁は、延暦21年(802〜852)生れ、参議小野岑守
(みねもり)の子。嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家で文人、歌人でもある。また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であったという。不羈(ふき:なににも束縛されない)な性格で奇行も多く、独特の神通力をもち、現世と冥土の間を行き来していたとする伝説が有名。また、篁は承和5年(838)の三十代半ばで遣唐副使に選出されながらも詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどから嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪、一切の官職官位を奪われたが、承和7年(840)には帰京・復位を許されている。その後は学識を高くかわれ官位を昇り、承和14年には従三位についている。なお、小野篁は平安時代前期の有名な女流歌人・小野小町の祖父である。
 ちなみに、篁の冥土への入り口は東山の松原通にある「六道珍皇寺」で、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町にあった福生寺(廃寺)と伝える。現在は、清涼寺西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱がある。

◇引接寺(いんじょうじ) 通称:千本閻魔堂
・住所:602-8307京都市上京区千本鞍馬口下る閻魔前町34
・電話:075-462-3332
・拝観:境内自由
 

  紫式部の供養塔(国重文) 境内北側の鐘楼。8月の精霊「迎え鐘」と「送り鐘」、また「除夜の鐘」を叩くために行列が出来る。


●名所旧跡めぐり 目次へ戻る   ●トップページへ戻る