本能寺(ほんのうじ)  

法華宗(本門流)本山    
604-8091
京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
拝観:境内自由7:00〜17:00
(宝物館10時〜16時、入館料:大人500円)
交通:河原町通御池から徒歩2分ほど(西南の本能寺会館の南にある) 。地下鉄「京都市役所前」下車すぐ
電話:075-231-5335    

明智光秀の謀反=信長の終焉の地
 本能寺は、織田信長が上洛時に宿所として使っていた寺である。そしてこの寺で信長は重臣の明智光秀により自害に追いやられたのである。
 天正10(1582)5月29日、信長は少数の護衛を伴い、いつも どおり上洛時に宿所としていた本能寺へ入った。一方、光秀は信長の命令により備中高松城で毛利家と戦っている羽柴(豊臣)秀吉の援軍のため、坂本城(大津市)から丹波亀山城(亀岡市)へ 移動した。光秀はそこから西へ向かうはずのところ踵(きびす)を返して「敵は本能寺にあり・・」と本能寺へ向かう。これが、広く知られた「本能寺の変」で、この事件により本能寺は四度目の焼失 となった。京都市街の社寺で、移転・焼失の経験が無い社寺は極めて少ない。本能寺は中でも多く、現在まで五度の焼失と七度の再建をしている。なお、天正10年当時の本能寺は現在地から直線距離で1.2kmほど南西の油小路通蛸薬師にあった。
 本能寺の創建は、室町時代の応永22年(1415)。日蓮上人の教えを受けた日隆(にちりゅう)上人が油小路高辻(現仏光寺付近)に建立した本応寺(ほんおうじ)が前身。本尊は十界大曼荼羅。その後、上人は妙本寺(現妙顕寺)の月明上人と本迹勝劣(法華経二十八品(ほん)のうち、前半部の十四品までを「迹門(しゃくもん)」、後半部の十四品を「本門(ほんもん)」と呼び、この迹門と本門の勝劣をめぐって対立したため、妙本寺の僧徒によって本応寺の堂宇が破却されため河内国三井・尼崎へ移転した。永享元年(1429)、豪商・大檀那の小袖屋宗句の援助を受け帰洛し内野(平安京大内裏の跡地をいう)に再建。更に永享5年(1433)如意王丸(足利直義の子)から六角 通大宮西(四条坊門)に土地の寄進を受けて移転再建したとき寺号を本能寺と改めた。その後、弘通霊場として栄え、法華宗21ヶ本山の一つとなる とともに子院も増えた。しかし、天文5年(1536)天台宗延暦寺との狭義論争に端を発した「天文法華の乱」の勃発により比叡山僧徒の襲撃を受け、堺の顕本寺に避難した。天文16年(1547)〜17年 頃、第8世日承(にちじょう)上人(伏見宮第5代那高親王の子)が入寺されたことで、油小路通蛸薬師に約五千坪の土地を得て帰洛。周囲を高い塀と堀で囲う平城のように堅固な構えであったとされる。日承上人を帰依していた織田信長は、上洛のたびに本能寺や近くの妙覚寺(当時は四条大宮)を宿所とするようになった。

▲寺町通に面した本能寺の表門 ▲本堂 ▲本堂の奥(東側)の信長公廟

 天正10年(158261日、信長はいつものように本能寺に宿泊、その夜は茶会を催していた。このとき信忠は妙覚寺に泊った。翌日の未明、重臣明智光秀の襲撃を受けた信長は防戦も叶わず堂へ火を放ち自刃した。これが「本能寺の変」で、その後の天正17(1589)、同地に三男織田信孝が父信長の廟を建立したが、上棟式の 当日に秀吉の都市改革による転地命令が出され鴨川村(現在地)へ移転した。しかし、天明8年(1788)に起きた「天明の大火」により焼失し、天保11年(1840)日恩上人が再建 した。ところが、幕末の元治元年(1864)に起きた「蛤御門の変」で再び全焼失。昭和3年(1928)に再建されたのが現在の本堂である。
 本能寺境内には信長の供養塔が、また宝物館には信長の遺品や家臣が身に着けていた甲冑などが展示されている。なお信長の墓は、秀吉が建立した大徳寺総見院(北区)、さらに清玉上人が創建した阿弥陀寺(上京区)の二箇所がよく知られている。
にも自由に参拝できないが妙心寺玉鳳院(右京区)、建仁寺(東山区)、大雲院(東山区)、亀岡市の聖隣寺や高野山にも供養塔がある。また、神社では明治時代になって船岡山(北区)東麓に建立された建勲神社(北区)が信長を祭神としている。
 
ちなみに、信長を討った後の明智光秀については、備中高松城から戻った羽柴秀吉と 山崎で戦ったが(「山崎の戦い」または「天王山の戦い」)敗れ、坂本城(大津市)へ退散の途中、伏見の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りの兵に竹槍で脇腹を突かれる無念の死を遂げている。首は 秀吉のもとに届けられ、粟田口で晒された。また異説として、脇腹を突かれた傷が酷く同行していた家臣溝尾勝兵衛に介錯させ自刃。首 は、横尾によって谷性寺(亀岡市)に埋葬させたとの説もある。いずれにせよ、秀光は11日後にはこの世を後にしている。

▲信長公廟の信長公供養塔 ▲本能寺の変で、信長と共に亡くなった家臣碑 ▲本堂東側の日承上人の墓
▲旧地である蛸薬師通油小路下るの「本能寺跡」碑(下記参照) ▲蛸薬師通に面して「此付近 本能寺跡」の石柱 ▲聖隣寺境内の織田信長供養塔

<本能寺跡>石碑に書かれている言葉(全文)
 応永22(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享(えいきょう)元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
 その後、天文5(1536)天文法乱によって焼失、天文14(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院のこの地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。しかるに天正10(1582)かの「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17(1589)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙すと。
 ちなみに「本能寺」は度々火災に罹りたるをもって、能の右側の「ヒヒ」(火)と重なるを忌み、火難から去る意を込めて「去」と書くのが慣わしである。



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